いない世界
自衛軍総本山、セントセリア。
中枢基地の地下、Anonymous元首領にして自衛軍大将に上り詰めた男、ハイドの自室に空蝉が現れる。
そこに死音の姿は無く、彼が宵闇やその他のメンバーの元へ向かったであろうことを悟った空蝉は小さく舌打ちをした。
死音が音を消した時点で望みは薄かったが、もしかするとその場に留まって、話を聞く余裕があるかもしれないと空蝉は思っていたのだ。
部屋の隅に倒れるロールの元へ空蝉は歩み寄る。彼女の下には大量の血溜まり。心臓を一突きにされたようだ。まだ息はある。
最速で駆け付けたことが幸いしたらしい。
しかしこの傷を治すとなると、相当な時間を要するだろう。枯れ果てた涙の跡を見て、空蝉は再度舌打ちを漏らす。
治している暇などないが、空蝉には少なからず人情があった。それはこの状況においては間違いなく枷となるもの。
そうこう考えている間にロールが絶命する可能性があった。
空蝉は即座に治療に取り掛かる。
「出血くらいは止めてやる。そっからは気合いで逃げろよ、ロール。あとは俺達でなんとかする」
その声が聞こえているのか分からない。もはやロールは瀕死の容態である。
彼女に治癒加速による治療を施しながら、音の感知で状況を確認する。
宵闇達は開発施設に向かっている。ハイドの音は捉えられない。
この場で起きたことも、ハイドによる音支配の干渉によって、感知することはできていなかった。
暗視による読唇で宵闇が状況を把握し、音支配でそれを共有することで、まだ作戦は潰えていなかった。
「聞こえるか、一ノ瀬」
中央監視課を抑える一ノ瀬に音を送る。
死音の手前、能力を抑えていたが、空蝉はかなり広範囲の音を管理できるようになっている。
『ええ』
一ノ瀬の返事を聞き、空蝉は淡々と話し出した。
「状況はさっき話した通りだ。この会話も宵闇の話が本当ならハイドに筒抜け」
『最悪の状況ですね』
「だがハイドはなぜか単騎で俺達……いや、宵闇を迎え打つつもりらしい。そこで、俺がお前に求めることは一つ」
『……分かっていますよ。状況をある程度周知した上で、軍を動かさない。そうですね? 中々酷な要求だ』
「ああ、ハイドの軍も気合いで丸め込め。特に少将以上は動かすな。
開発施設から人員を遠ざけて、俺達にケリをつけさせろ。絶対に邪魔を入れさせるな」
そうしなければ、ハイドを仮に追い詰められたとしても、軍と言う切り札で全てをひっくり返されてしまう。近くに人がいるだけで"時間泥棒"が少なからず有利に働く。
幸い、酒井大将としての求心力はまだそこまででもない。メディアや世論を取り込むことができても、自衛軍は一枚岩ではないからだ。
一ノ瀬が避けたかった手であることは空蝉も分かっている。軍が分裂し、内部衝突を起こす可能性もあるためだ。
しかしハイドの新たな力が発覚した今は、そうも言っていられない。
一ノ瀬の内通、謀反もハイドが既に把握していたと考えるのが妥当であり、どの道始末される未来は彼にも見えているはずだ。
『しかしそれでは────どちらが勝つにせよ、私が最後に包囲を引けば貴方達は死にますよ』
しばらくの沈黙の後、一ノ瀬が答えた。
空蝉にはあえて伝える必要のない事実。協力関係を結んだゆえに、フェアな一面を見せる一ノ瀬に、空蝉は気分が良くなった。
「それは最初からそうだったろ。んなこと正義のお前が構うな、そこからはちゃんと悪の底意地を見せてやるからよ」
上手く軍を動かせるかは一ノ瀬の人望に掛かっているが、問題はハイドがこの動きにどう対処してくるのか。
これまでに時間を奪った者の能力を全て使えるのだとしたら、対処のしようはいくらでもある。
自衛軍に溶け込むのに使ったであろう、です子の心層操読があれば、内部衝突の後もいくらでも味方を増やして立ち回れる。
詩道の虚理使い(ディスタンサー)は、例えギリギリのところまで追い詰めたとしても脱出の手段になりうる。
警戒してもどうにもならない能力があまりに多すぎる。ハイドは動く必要など全くないのだ。最終的にまた、何かしらの能力で別人になりすまし、上部に溶け込めば今の立場が消えても影響はない。
今や個人で全てを完結させている。
宵闇が語った能力者を皆殺しにするというハイドの目的。
自衛軍の戦力ではなく、豊富な研究設備と人員が奴の狙いだったのだろう。
そしてセントセリア拡大計画の裏にハイドが絡んでいたことも見えてくる。追々は人口をさらに一極化させて、一網打尽にするつもりなのだ。
ロールの治療を進めながら、空蝉はハイドとの出会いを思い出していた。
──面白いものを見せてやる。俺についてこい。
「面白れえ、面白れえよ、ハイド。ったく、ヒリヒリしてきたぜ」
Anonymous時代から、ハイドが時折見せていた甘い措置。
その理由をなんとなく悟る。明らかに邪魔になる宵闇が生かされていた理由。
詩道や、煙、千薬。そこまで馴染みの無い幹部の連中。この目的を知りながら、ハイドのために死に行き、生前はその業を感じさせず構成員として馴染めていた訳。
『……個人的に貴方は気に入っていたんですがね』
もうこれ以上話すことは無いと思っていた一ノ瀬から声が発せられる。
「その前にまずはハイドを始末しなきゃ話にならねえ。その点は一致してるはずだろ?」
ーーー
一ノ瀬空刃は考えていた。
空蝉の頼みを聞き、どう動くかを。
あらかじめ、ハイドがこちらの動きを予想し、既に手を打っているのだとしたら、ここまで一ノ瀬は動くことができていない。
既にハイドにとっては好ましくない状況になりつつある。空蝉の言うとおり、彼がここからどうにでも取り返せるのだとしても、それは手間だ。
時間泥棒という能力から、彼の寿命は計り知れない。しかし、能力によって発生する悪事や罪の数々を彼が心から憎んでいるのだとすれば、目的の達成は少しでも遅れない方がいい。
ハイドは今、開発施設に向かっているようだが、その真意は全く計り知れない。
きっと考えても意味のないことなのかもしれない。馬鹿げているとも言える目的を掲げ、それを実際に行動に移す程の胆力がある男だ。
正直なところ、空蝉から聞かされたハイドの目的は、一ノ瀬の中ではそう非難されることではなかった。
この世から能力者が消える。
それが可能かどうかはさておき、もしできると仮定して話を進めるのならば、今失われる命より、今後未来永劫失われない命の方が遥かに多くなる。
そのために罪の無い者達が犠牲を被るのだとしても、目的に加担した者だけが業を背負うだけで、他人の強大な力に脅かされ続ける人々が減る。
無能力者にとっては能力者など害でしかない。
無能力を理由にイジメ抜かれ、自殺する子どもは後を立たない。社会問題としても取り上げられているが、どうしても根を断つことはできない問題である。
大人でも社会に出れば差別の目を向けられる。自衛軍ですら、能力の強い弱いで立場が変わり、その根底には差別意識があると考えられるのだ。
彼らを救いたいというハイドの気持ちは痛い程分かる。一ノ瀬も発現が遅く、そうした悪意を向けられた経験があった。
今でこそ大将に上り詰めたが、たまにその過去に蝕まれそうになることもあるのだ。
しかし一ノ瀬は、風操作という些細な能力で大将まで成り上がった最強の男を知っている。
鍛錬に鍛錬を重ね、彼の能力は風支配とまで呼ばれる程の技量を得た。
彼は全てを守ろうとしていた。
正しいとされる手段の中で常に足掻いていた。どんな危険な状況でも必ず自ら現場に赴き、可能な限り多くの人々を救った。
誰も傷つかないように、この世に定められたルールの中で、世界を変えようとした男。
その中で生まれる罪を飲み込む姿はあまりに美しく、それに一ノ瀬は心を打たれたのだ。
志半ばで倒れた彼のことを思えば、一ノ瀬の意思は絞られる。
「葉月。龍帥さんや、弦気君のため、ひいては私の信じる正義のために、この組織を壊す覚悟はありますか?」
隣に立ち、唯一状況を知る女性、御堂龍帥の部隊に所属していて、今は自分の下にいる彼女に声をかける。
「はい」
迷いのない返事に、一ノ瀬は笑みを浮かべた。
「よかった。私もです」
数多のモニターが頭上に展開され、50人を超える感知能力者が深夜も稼働し続ける中央監視課。
一ノ瀬はすり替えていたモニターの映像を、手元の機器を操作して元に戻す。
モニターに突如映された複数の不審な影に、部屋がザワついた。
一人開発施設に向かうハイドの姿。別方向から同じく足を進める宵闇と夢咲愛花。
その後方を重たい足取りで進む御堂弦気。さらに後方に倒れ、おそらく絶命している死音の亡骸。
気づいていた者もある程度はいるらしく、あえてそれを飲み込んでいた彼らは一ノ瀬に視線を移した。感知能力者だからこそ、状況の把握が早くて一ノ瀬は助かった。
死にましたか、死音。
一ノ瀬は新たに入った状況に口元を歪める。
生に固執していた彼の行動だけは読みやすく、同時に何より厄介だった。ハイドを始末した後も、自分が生き延びるために可能な限りの害を振りまくのは明らかだったからだ。
裏切り者の末路。もしかするとこれから自分も同じ道を辿るのかもしれないが、彼とは違い、確固たる信念がある。それが正しいと信じられる。
「今から突飛な話をします」
そうして一ノ瀬は話し始める。
彼らには、誰に付き従うか決めてもらおう。いわゆる賭けというやつだ。
人望において、御堂龍帥の背を追い続けた一ノ瀬には自信があった。
もし駄目なら、その時は付いてきてくれる者だけで悪との共闘を開始する。
数多の陰謀が渦巻き、正義とはかけ離れた組織になりつつある自衛軍を、再び元のレールに戻すため。
クーデターを起こすのだ。




