死の風に当たって
パニックに陥りそうだった。
それを理性で抑えつける。そうすることで精一杯で、体が硬直して動かない。
『そのまま黙って聞け』
ボスの声が聞こえる。恐怖で耳を塞ぎたくなる。
すぐにでも宵闇さんに伝えた方がいい。でも、それでどうなる?
この状況はなんだ? なぜボスが話しかけてきた。全て筒抜けだった? 誰かが裏切ったのか?
すべての思考が鮮明にならないまま、脳裏を過ぎっては通りすぎていく。
たった一つだけ、最悪の未来だけが頭に浮かんでいた。
死ぬのだ。誰も、彼も。
『全員ここへ来ているのは分かっている。最初から受けて立っても良かったが、お前となら話ができると思ってな。ああ……。安心しろ、お前に生き残る道は用意している』
対話……ボスは対話を望んでいる……? なぜ?
駄目だ、頭が働かない。何が起きてる、何が起きてる。
脈拍の上昇により、汗が止まらなくなっていることに気づく。
「死音、死音……! どうしたの、大丈夫?」
気づけばロールが俺の体を揺さぶっていた。ハッとして、俺は彼女に目をやる。
ボスが俺に希望を与えたことはかろうじて理解できていて、少しずつ冷静さを取り戻していく。
「あ、ああ……。大、丈夫だ。少し、無理をした……」
「……そ、そうなの? 様子がおかしいけど」
「問題ない……ただ、ちょっと待ってくれ……。気分が悪い。……大丈夫、すぐに持ち直す」
この状況で気分が悪いなど、ふざけているにも程がある。しかしそれ以上にマシな誤魔化し方を思いつかなかった。
ロールが泣きそうな顔で黙り込む。
間違いなく何かあったことを気取られている。しかし黙っていればロールは追求してこなかった。
言うか? 言えばどうなる?
宵闇さんと合流して、逃げることになるのだろうか。その先は……もうボスを殺すチャンスが無い。宵闇さんは死ぬ。
俺達を逃した後でも、必ずボスを殺しにいく。そしてきっと返り討ちに合うだろう。
何よりボスとの対話も出来なくなる。そうなれば彼は動き出し、逃げられるかどうかも分からなくなる。
戦力差は圧倒的だ。
『話を聞く気があるなら、誰にも告げずに俺の所まで来い。そうでないなら、すぐに宵闇にこのことを告げて、真っ向からやり合おう』
選択肢の無い選択を突きつけられる。
後者なら勝ち目は無い。この時点で潜入がバレたのだ。ボスがそれを知らせるだけで俺達は詰む。
そうでなくとも何かしらの策が弄されている可能性が高い。改めて確認する必要すらない現実。
『……俺は……どうなりますか』
口を開かず、最も重要なことだけ俺は尋ねた。
『お前次第だ』
感情の伺えない声でボスは言う。
その言葉が本当か嘘か。どちらにしても……。
『……今から、向かいます』
身を委ねるしかない。
ボスはもう返事をしなかった。
黙って裏をかけば俺達を簡単に殺せたのだから、何かしらの目的があることは分かる。
でもそこに俺にとっての希望があるのかどうか。
……考えても仕方のないことだ。
「ロール、俺についてきてくれるか?」
「……うん。ついてく」
俺の声も、何も知らないはずのロールの声も、震えていた。
いつも一番近くにいたロールだから、俺の表情を見るだけで、最悪の事態が起きていることを察している。
そんな彼女を、俺は盾として使うために連れて行く。少しでも生き残る可能性を高めるために、ロールの感情を利用する。
吐き気がしていた。
嫌悪感? 分からない。何もわからない。
とにかくボスを待たせる訳には行かない。
俺は今一度音を撒き散らし、ボスへ至る道を探す。皮肉にも、それは簡単に見つかった。
ーーー
基地の内部から地下へ続く暗い階段を降りていく。
通路に出ると、先の部屋にボスの音があるだけで、他には誰もいない。
通路に接する、日中は稼働しているのであろう数多の部屋にも人一人いやしない。
ロールが少し後ろをついてくる。
心境とは裏腹に、軽快なスニーカーの音が響く。
ボスが待ち構える部屋の扉の前で足を止め、立ち尽くす。ロールがそっと俺の手を握ってくる。
「入れ」
その時、ノックもしていないのに、扉の向こうからボスの声が聞こえてきた。
ロールにもそれは聞こえていたようで、驚いたように俺から手を離す。
それでも何も言わない。これからどうなるのかも、何が起きているのかも、決して聞いてこない。
プレッシャーのあまり、音が聞こえなくなっていた。外の様子も、時間を稼ぐために嘘の指示を出し、それに応答していた宵闇さん達の声も聞こえない。
かつてないストレスの中、今まで耐えてきた、聞きたくもない音を聞かされるストレスだけが消えている。
震える手で扉を開く。
そこにはボスが俺達に背を向けて佇んでいた。
部屋は、スレイシイドにあったAnonymousアジトの首領室を思わせる広い間取りだった。
自衛軍の軍服を着たボスが振り返る。
見慣れた笑みを浮かべ、ボスは口を開いた。
「久しぶりだな。死音、ロール」
面と向かって声を聞くと、恐怖で平衡感覚を失いそうにすらなる。
隣に立つロールが掌を開き、いつでも飛びかかれるように、少しだけ腰を低くしていた。
よせ。
そう言いかけて、あることを思い至った俺は息を呑んだ。
ボスは今……歪曲音の、射程範囲内にいる。
なぜ念頭に無かったのか、不思議でならない。
ボスが対話を望んでいて、こうして目の前まで来れたのは、絶好の機会でもあったのだ。
一度はボスに挑んだ。その時はボスを殺せると思っていて、恐怖も今ほどではなかった。
状況はあの時となんら変わりない。
俺が殺すという選択肢が何故頭に無かったんだ。
「ロール、よせ」
溢れ出そうな殺気を内に留め、かつボスの油断を誘うためロールにそう言う。
歪曲音からの心音撃で、確実に仕留めてやる。
──無音世界
「おっと」
そんなボスの声に目を見開く。
音が、消えていない。
空調の音も。換気扇の音も。ロールの息遣いも。
何も消えていない。
ボスの心音が聞こえていないことにも気づく。いつも当たり前のように聞いていた音が聞こえていない。
唖然としたまま両手を見つめた。
明らかに能力が使えなくなっている。
まるでこれは……そう、歪曲音だ。
「奪った者の時間を使うことで同じ力が使えることは、教えていなかったな」
「っ……」
崩れ落ちそうになる。
全て、無駄だった。
逃げ出したくなる。でも無駄だ。何もかも無駄だったんだ。
命乞いも無駄。一切の抵抗が意味を為さない。ボスは明確な目的を持って行動している。自分に利が無ければ、決めたことを曲げることはない。
「しかし、流石は元Anonymous。大橋瞳の通報が無ければ、俺も痛手を受けていたかもしれないな」
……大橋か。あいつが俺達を売ったのか。
確かに弦気の命さえ保証すれば、いくらでも情報を吐き出しそうだ。
だが、その事実に今は怒りが湧かない。
ボスが音支配を使えたのなら、遅かれ早かれ気づかれて、暗殺は不可能になっていた。
感知に気づいたのも、俺の能力を使えたからだ。
痛手を受けたかもしれない?
細事だ。ボスにとって俺達は。いつでもどうとでもできたのだ。
この状況を、一体どうすれば脱せられるのか。絶望的なその問題だけを考えろと、俺の中の死音が訴えかけてくる。
「ボスは……何が、目的なんですか」
俺は何とかそう尋ねる。
もはや対話を進めるしかなかった。
誰もボスには敵わないことが明確になっている。
Anonymousの錚々たる実力者が彼に従っていた理由。人を従えるカリスマ性、言葉に惹かれたからというのもある。
でも一番は、無意識にでも、ボスが圧倒的な上位者であることを本能で理解していたから。
能力の次元が違う。
……今更気づいても遅いことだが。
「まだ俺をボスと呼ぶか」
愉快げに表情を弛ませるボス。
俺の動悸は加速する。
そんなことどうでもいいと思うのに、なぜ俺がまだボスをボスと呼ぶのか、それが深い疑問として脳に残る。
また思考がぐちゃぐちゃになっていく。
「……答えてくださいよ。あなたのせいで、俺の人生は……、最悪だ。俺をこんなふうにしておいて……なんで、なんで……」
そして考えがブレる。ただでさえ不安定になっていたのに、より一貫性が失われていく。
これまで背負った数々の罪と、その度にあった決意。
何度も同じことで苦悩し、恐怖し、同じ選択を行ってきた。
自分は特別でもなんでもない。意思も弱い。
偶然、人より強い能力を手にしてしまっただけの、臆病者。
その事実が感情となって顕著に表れる。
死音という仮面を与えたボスに、今、どっちつかずになりつつある俺がかろうじて問う。
「無能力者と無能力者の間に生まれる子どもは、必ず無能力者だ」
その問いに対し、この世の常識をボスは口にした。
ロールがホルダーのナイフに手をかけている。万に一つも無い可能性に賭け、俺のために飛び出す準備をしているのだろう。
そんな中、構わずボスは続ける。
「能力者の存在しない世界に興味は無いか? 死音」
ボスの目的が今、明らかになった。
その言葉だけで俺は全てを悟った。
Anonymousの裏で行っていた人体実験。夢咲愛花。哀愁を感じるボスの瞳。溜息さんを殺した時、泣いていた訳。
今のボスの言葉が全て偽りの無いものだとも悟る。
「……そういうこと……だったんですね」
「ああ。俺は能力者を皆殺しにする。この力こそがあらゆる悲劇の元凶だ」
一人のために、大勢を殺す。
あの日、俺に手を伸ばしたボスが口にした、Anonymousの熾烈な誘い文句を思い出す。
揺るぎない決意を感じ取り、それに打たれたから、俺は手をとった。
能力こそが全ての元凶。それは発現したあの日から、俺がずっと感じてきていたことでもあった。
ボスはきっと非情ではない。俺達のことも殺したい程憎んでいる訳ではないのだろう。
自分の目的を何よりも優先しているだけだ。俺と同じで。
皆が口にする正義になることは、本当の目的では無かった。
悪。ボスは変わらず悪であり、同時にそれが、ボスにとって芯のある正義だったのだ。
全て決まっていたことだった。
俺は何も言えない。
何も言えないのは、俺も能力者だからだ。ボスの目的には、俺の死……あるいは自分の死まで含まれている。
ボスはさらに続ける。
「Anonymousで抑えてきた他の悪党共……奴らは必ず現れ、勢力を伸ばし、芽吹いていく。
俺がどれほどの力を手にしようと、その度に淘汰していくことはできないだろう。否、できるかもしれないが、それは決して終焉の訪れない戦いだ」
「……」
「お前のように能力が発現することで、誰にも罪の無い不幸で悲劇が連鎖する。よくあることだと流されている。皆が受け入れている。
その結果、行き場の無い悪意が満ちていく。これをいつまで繰り返す?」
ロールも言葉を発せられない。Anonymousで生きていれば、感じざるを得ない事実。思うところが無いはずはない。
しかし、能力者を皆殺しにするなどといった突飛な解決策でも思いつかなければ、当たり前のことだと受け入れることしかできないのだ。
「死音、お前の"音支配"……、俺の"時間泥棒"もそうだ。個人の身に余る力だとは思わないか?」
「思いますよ……! でもそんな非現実的な目的のために俺達がこんな目に合っているのは納得できない……!」
「非現実的ではないとしたら?
歪曲音。Anonymous崩壊の日、お前の時間を奪い、俺はこれを知った。
ずっと手段を模索してきたが、理想に近い力だ」
言葉に詰まる。息が詰まる。
「研究し、様々な応用法を開発できればな」
俺は後ずさっていた。ボスの言いたいことは、つまり。
俺に用意している生き残る道というのは、つまり……。
「夢咲愛花や、観測者みたいに……俺を……」
「ああ、お前は貴重なサンプルになる」
ボスが頷く。
全身が震えだす。
それだけのために、俺達残党を泳がせ、俺をここへ誘った。
「……い、嫌だ。そんなの……」
「今死ぬか、俺に協力して生き長らえるか、選べ」
ロールが俺の前に立った。
ボスを前にしては、まるで頼りない背中。
そんな彼女を差し置いて、俺は逃げ出そうと振り返っていた。
しかし。
ガクンと、とてつもない脱力感が俺を襲う。
目眩で平衡感覚を失い、その場に膝をつく。
俺はこれを知っている。時間を奪われたんだ。
それも、以前とは比にならない量の時間が。
「ハァ……ハァ……」
そして能力が戻っていた。
弱い心臓の脈動を音として感じる。ボスが俺に対しての歪曲音を解いたのだろう。
グラグラとした視界の中、ロールがボスに向けて突っ込み、その首元にナイフを走らせる寸前、その体があっけなく弾む。
ロールは視界の端で、壁に叩きつけられていた。
少しずつ、時間を奪われたことによる疲労に似た感覚が薄れていく。
だが、明らかに体がおかしくなっている。
這いつくばったまま、ずるずると扉に向かう。
「まあ、それは先の話だ。地盤も整っていない今、すぐにでも行動に移すつもりはない」
もてあそぶように、ボスはまた俺に希望を与えた。それでも震える手で地面を引っかき、俺は逃げようとするより他ない。
「俺の下に付けば、その間に別の手段を見つけられるかもしれないぞ。あるいは、俺を殺すチャンスを得られるやもしれん」
なんだ。なんなんだ。
俺に何を求めている。無力化して、実験台にでもなんでもできるだろ。本当の狙いはなんなんだ。これ以上、俺を絶望に突き落とすことなんて、できないだろ。
何がしたいか分からない。どうして苦しめるんだよ。
「どうしろって……、言うんですか!」
荒い呼吸で怒鳴る。
殺されない、ボスが何かを俺に求めている。
それで少し冷静になれる自分が気持ち悪い。手の上で無理矢理踊らされているみたいだ。
「お前の寿命は夜明けまでだ」
「ぁ……あぁ……」
そんなにも、俺から時間を奪ったのか……?
「それまでに御堂弦気を殺してこい。
宵闇や、他のメンバーもだ。そうすれば時間を返してやる。
簡単な任務だろう?」
「ぁああ……ああああぁぁあ!!」
──無音世界。
音は消える。
立て続けに放った歪曲音が、ボスに通る。
"俺を殺してもお前の時間は戻らない"
俺だけが感じるボスの声。
"さあ、選べ"
懐かしい、ニヒルな笑みを浮かべるボス。俺への当てつけのように、簡単に命を賭けてみせる。
弱々しい足取りで立ち上がり、俺はボスに手をかざしていた。
沈黙が続く。選択の時間。
俺と弦気が、ボスを殺せる見込みがあるって。観測者が言っていたな。
そうか……こうなっても弦気だけが、ボスの能力に対抗できるのか。
ボスにとって、唯一の憂い。
俺は、今のことを言っていたんだろう。
殺すチャンスが得られるだけかよ。
ここまで視えていたんだろうか。だとしたら……ああ、もういいよ。もういい。
分かってる。全部分かってる。
何も考えることなんてないんだ。分かってる。
分かってるから、
俺に仮面をしてくれよ、死音。
音のないまま、長い時間が経つ。
選択の時間。
ボスを殺して全てを終わらせるか、延命を手にするか。考える必要はない。
ボスは限界まで俺を酷使するし、俺は……
俺は──
自分を犠牲にしてまで、ボスを殺すことなんてできないんだ。
歪曲音を解き、無音の世界にも音が帰ってくる。
ゆっくりとボスがこちらに向かってくる。そして俺の隣を通り過ぎ、静かに告げた。
「では手始めだ。そこのロールにトドメを刺せ」




