甘い死の香り
アパートの一階に着地した俺はすぐさま走り出し、玄関の戸を蹴開けて外に出た。
しかしそこにもう宵闇さんの音はない。
"暗転"だ。
彼は黒と黒の間をノータイムで移動することができる。
だが今は日中。
黒や闇の少ない日中において、宵闇さんは本来の半分の力も出すことができない。
まだそれほど離れてはいないはずだ。
今の宵闇さんなら、俺でも追える。
俺は黒で覆われた瞳に瞼を下ろし、音に集中した。
半径数km。
宵闇さんの音を探す。
彼の能力で俺の感知から逃れようとするのなら、ずっと黒の中に潜んでいるか、自分を黒で覆うかの二択。
しかしそうすれば"暗転" は使えない。
いや、そもそも宵闇さんは、俺に感知されたからといって、どうということはないのだ。
よって、彼はセントセリアへと向けて直進している。
俺は北の方角に向けて音の感知を最大限に伸ばした。
すると、点々と遠ざかっていく宵闇さんの音をそこで感知する。
いた。だけど、もうそんなとこまで行っていたのか。
この距離における攻撃手段は俺にはない。
だが音を送って十分な会話はできる。
「宵闇さん」
宵闇さんからの返事はなかった。
もう後数秒もすれば、彼は俺の感知の届かない距離に出てしまう。
俺が宵闇さんを止める方法は一つしかない。
「観測者は生きています」
そう言い放った時、ピタリと点々と移動していた彼の音が止まった。
「……」
唾を飲む。剥き出しだった太陽に、積乱雲が徐々に覆いかぶさっていく。
宵闇さんは動かない。
狙い通りではあるが……、当然観測者が生きているというのは嘘だ。
彼女は、自殺した。
嘘を吐かざるを得なかった。こうでもしなければ、宵闇さんは止まらないから。
「なら観測者は今、どこにいる」
宵闇さんは言った。
当然の疑問だ。
しかしどう返す。観測者の生死に関わらず、真実を察した宵闇さんは結局ボスのところに向かうはずだ。
それは現状どうこうの問題ではなく、宵闇さんの怒りの矛先が完全にボスに向いていることにある。
しばらくの間、騙したい。宵闇さんが平静を取り戻すまでの間だけ。
「夢咲愛花の、中に」
考え、振り絞った挙句口から出たのは彼女の名前。
観測者は夢咲愛花に憑依し、そして彼女に自身の一部をコピーしたと言った。
これなら嘘がバレても多少の言い訳は通用しそうだ。
「その夢咲愛花はどこにいる」
「自衛軍に捕まっていないのなら、御堂弦気と行動を共にしてるはずです。……あいつが今どこにいるかは、俺も分かりません」
「……だろうな。奴も今指名手配を受けている」
宵闇さんの声は怖いくらい落ち着いているが、内なる怒気を隠しきれていない。
怖い。怖いけど、どうしても止めなければいけない。
俺が頼れる人なんて、もう宵闇さんくらいしかいないのだから。
「お願いです。戻ってきてください。宵闇さんは今、冷静ではない。
宵闇さんがもし戻ってこなかったら、俺達は……」
懇願するようにそう言い、空を見上げる。
太陽が完全に雲に隠れてしまった時、気づけば宵闇さんは俺の後ろに立っていた。
驚いて距離を取ろうとしたが、俺はなんとか踏ん張った。
「……そうだな。すまない」
「いえ」
スッと視界の黒が退いて景色が戻る。
すると、カツンカツンと宵闇さんがアパートへの階段を上って行く姿が見えた。
ーーー
アパートの二階。壊れた部屋の隣の一室に俺達は再び集まり、しかしながら宵闇さんの気分が優れないということで一旦それぞれの部屋に戻った。
宵闇さんのあの殺気は、運良く自衛軍に嗅ぎ付けられなくて済んだようで、俺達はまだここに滞在することができるらしい。
そうして何もしないまま時間は過ぎ去り、あっという間に夜。
俺はソファにゴロンと寝転がって考えていた。
話し合いは明日。
その話し合いの内容といえば、俺達の今後についてだ。
俺が眠っている間にロール達が決めたのは、生き残ったメンバーで行動を共にすること。
そして俺が目覚めてから今後をどう動くか決めようという話をしたそうだ。
……今後をどう動くか。しかし実際に俺達に選べる道は2つ。
一生逃げ続けるか、戦うか。
俺達はそれを選択しなければならない。
しかしこうなってくると、もう話し合う意味はなくなった。
曖昧だった宵闇さんはボスへの敵意を明確にしたわけで、空蝉さんは宵闇さんの威圧に当てられて戦闘に飢え始めてしまった。
俺は、逃げたい。ボスとは戦いたくない。
ボスのあの顔を思い出すだけで、脳裏に色んな人の死に際がフラッシュバックする。二度と会いたくない。
おそらくロールとセンはそう言う俺に同調してくれるだろうが、逃げ続けるにしろ戦うにしろ、宵闇さんと空蝉さんの力は必須だ。
彼らの助力がなければ、逃げ続けたとしても先は短いだろう。
「浮かない顔してるわね、死音」
ベッドの上で転がり、薄いタオルケットに包まるロールが俺の方を向いて言った。
今俺がいる部屋は、ロールに割り振られた部屋だ。宵闇さんが貸し切っているこのアパートは、午前の出来事に合わせて色んな事情で(主に壁に穴が空いたりして)住めなくなってしまった部屋が多く、あぶれた俺はロールの部屋で過ごすことになった。
デリダ支部でも部屋を共有していたから今更抵抗はない。問題は、ベッドが一つしかないから俺がソファで眠らなければならないということだ。
「死音ってコードネームも、もう考え物だなって思って」
少しの間を開けて、俺はロールに適当な返事をする。
途端にロールが黙り込んだのを見て、俺はすぐに失言をしてしまったことに気づいた。
そうだ。ロールにはコードネーム以外の名前がないのだった。
「ああ、ごめん」
「いいえ、そういうことじゃないわ」
ロールがフルフルと首を振り、俺は首を傾げる。
「……?」
「Anonymousは本当にもう、なくなっちゃったのよね……」
Anonymousはロールの故郷であり、家族だった。引きずってしまうのは仕方のないことだ。
だけど俺には「そうだな」としか答えられない。もう少し気の利いたことでも言えたら良かったんだけど。
「私達……」
「ロール、もう寝よう」
言いかけたロールの言葉を遮って言う
固いソファから降りて立ち上がり、部屋の照明スイッチを押した。プツンと部屋の明かりは落ちて、真っ暗闇の中、俺はソファへ戻る。
床に落ちていたホコリまみれの布を手に取り、それを被って目を瞑った時、ロールが再び口を開いた。
「死音、やっぱり一緒に寝ない……?」
か細い声だった。
ロールはその後「今日から」と小さく呟いて付け加える。
やっぱり、というのは先程、俺とロールのどちらがソファで眠るかを少し争ったからである。
ロールは怪我人の俺を差し置いてベッドで寝るのが申し訳ないから、俺にベッドを譲りたがった。かといって、俺もロールを固いソファに追いやるのは忍びない。
そう考えれば一緒に寝るのは幾分合理的だということで、先程その案が挙がったのだが、なんとなく気恥ずかしかったから、俺がソファで寝ると押し通した。
「ロールが気にしないならいいけど」
「……気にしない」
それならいいか。なんとなく、来てほしそうだし。
ソファを降りて、俺はロールの隣に体が痛まないようゆっくりと寝転がる。
大きなベッドじゃないので、体をある程度密着させないと落ちてしまいそうだ。
「狭いな」
「うん……」
「でも固いソファよりは全然マシだよ。ありがとう」
肌と肌が触れ合い、ロールの体温を直に感じ取れた。
「死音……」
また、消え入りそうな声でロールは俺を呼んだ。少しずつ寄り添ってきて、彼女は俺の肩に顔を擦り寄せる。
「どうしたんだよ」
聞くと、ロールは震えた声で答えた。
「……Anonymousはなくなったけど、私達はまだ、パートナーよね……?」
今度は俺が黙り込む。
ロールの言葉に肯定するのは簡単だ。ロールは今弱っている。安心したいのだろう。
だけど、これじゃあダメだ。
「らしくないぞ、ロール」
「だって……」
「だってじゃない。ロールはそこらのか弱い女の子じゃないだろ」
Anonymousの構成員、廻転子猫のロールとしての誇りはどこに行ったんだ。
「でも……」
ロールの鼻をすする音を聞いて、俺は思わず彼女の方に首を向けた。
「……泣いてるのか?」
「でも私にはもう死音しかいない……!」
その言葉には少しゾッとした。
俺しかいないって、それはやめてくれ。俺だって誰かに縋りたいんだ。
頼られるのは困る。
そんな余裕は、持ち合わせていない。
しかし、心情とは裏腹に俺の口は勝手にロールを元気づけていた。
「ああ大丈夫。俺達がこんなところで死ぬわけがない」
「違う。違うの……。私は一人になるのが怖い。死音も死んじゃうんじゃないかって……そう思うのよ」
そういうことなら、断言してもいい。
「俺は死なない。絶対にだ」
何を犠牲にしてでも、俺は生きてやる。
「……死音、好き」
ロールは最後にボソリとそう言って、タオルケットを被った。
そして俺は複雑な気分で瞼を下ろしたのだった。




