断の崩壊
周囲約100メートル。一切の音は消え、唯一聞こえる音に俺は集中していた。
空蝉さんの鼓動音。
空蝉さんは何が起きたのかと周囲をキョロキョロと見回している。もしかして、俺の能力を知らないのだろうか。
彼の集中が一瞬途切れたため、ふわふわと浮いていた駐車場の車はガクッと高度を下げた。俺はロールにこの場から離れるよう、目配せをする。
無音世界。
これは音を限定、分別化する時に役立つ技だ。
心音のような小さな音を、衝撃波が発生するレベルの音にしたい時などは、これを使う。
そしてもう一つ。これによって俺が新たに生み出した、まだ誰にも教えてない能力の応用法がある。
心音撃以上に即効性のある技だ。正直、これを使えば空蝉さんを殺さずに無力化することもできるだろう。
……が、今は使わない。こんなことができると知れたら、俺は最悪組織にも危険因子と見なされ、切られかねない。
任務を優先してそうなるくらいなら、ここで空蝉さんを殺しておくのが安牌だ。
あの技は俺が本当に危なくなった時の保険。
しかし、あれを使わないのは良いとして、空蝉さんを殺せば俺の信用が損なわれるのでは?
一応、ボスは空蝉さんの帰還を要望している。
……なら最低限、連れて帰ろうとする努力はした方がいいのかもしれない。
そう思って、俺は一歩空蝉さんに近づいた。
空蝉さんが身じろぎしたのを見て、すかさず俺は言った。
「動かないでください。少しでも動けば……酷いことになりますよ」
ドクン、と。空蝉さんの心音を大きくしてみせる。その心音と俺の声だけが空間に響いていた。
空蝉さんはなにやら口を動かして叫んだようだが、聞こえない。
彼自身、声が発せられないことに顔を歪ませた。
そして空蝉さんが安易に動くことはなかった。
先程の言葉がハッタリではないことを察したのだろうか。
俺は周囲に浮いている車を警戒していた。
だが、音の発生をそれと同時に相殺する無音世界は、この100メートル圏内で最速の反応を可能とする。
つまり、周囲に浮く車体が俺に向かって放たれたとしても、俺は僅かな音の相殺によって遅れることなく反応することができるのだ。
回避するもよし、音撃で相殺するもよし。
つまり、無音世界発動の時点で俺の勝ち。空蝉さんがこの約100m圏内から一瞬で抜け出すことができたとしても、俺は射程を伸ばすことができる。
問題はここからだ。
「能力を解いて、両手を上げて降参してください」
そう、空蝉さんが降参するかどうか。
これによって俺が空蝉さんを殺さなければならないかどうかが決まる。
できれば……、殺したい。空蝉さんが降参せずに襲いかかってきたら、俺はやむを得ず心音撃を発動するつもりだ。
こういう形になったんだから、誤って殺してしまったという結果は決しておかしくない。
今なんとか時間を稼いでくれている溜息さんには申し訳が立たないが。
この人は、どこか好きになれない。白熱さんと黒犬さんとは似てるようで違う。
何がと聞かれるとうまく言えないが。
空蝉さんの表情は曇っていた。が、みるみるうちに諦めたような顔になり、やがて周囲に浮かせていた車をゆっくりと地面に下ろし、両手を上げた。
それを見て俺は驚愕する。
嘘だろ。アンタこんなことで降参するような性格じゃあないはずだ。
盛大な舌打ちを打ってしまいそうなのを必死に堪えていた。無音世界はまだ解かない。
空蝉さんは、両手を上げてなお俺の殺気が収まらないのを見て、地面にうつ伏せになって両手を頭の後ろに組んだ。
決着を悟ったロールが後ろから近づいてくるのが分かった。
俺は無音世界を解く。
「参った参った。参りましたー」
空蝉さんは地面に伏したままそんなことを言っていた。
「……じゃあ、大人しく帰ってもらいますからね」
「わぁーったよ。ったく、ちょっと反則すぎねぇ? その能力」
……そうか。空蝉さんはあらゆる能力をこれまでに使役してきた故に、相性の絶対性を理解している。
だから見極める力も並ではないのだ。
使わなかった、おそらく強化系のもう一つのストックを使っても俺には勝てないと分かった上での降参。
普通、あれだけで俺が何をしているかなんて分からないはずなのに。
それなら円城寺大将になんの戦略もなしに挑んだ馬鹿さ加減はなんだ?
円城寺大将は殺しをしないという保険があるにしても、本当に勝算があって挑んだのだろうか。
円城寺大将に対抗できる能力は詩道さんのような概念操作系の能力。
溜息さんのプレスに耐えた以上、ないと思いたいが俺の心音撃にも対応してくる可能性がある。
とにかく物理操作の能力じゃ、あの人には先手を取りづらいはずなのに。
いや、まあ、それは今更どうでもいいことか。
空蝉さんを連れて帰れば俺達の任務は完遂だ。
俺は車の後部座席のドアを開き、空蝉さんを誘導する。
「じゃあ、車に乗ってください」
「はいはい」
空蝉さんは立ち上がり、両手を頭の後ろに組んだままだるそうに車に乗りこんだ。
「ロール、行こう」
「……ええ」
俺とロールも乗り込むと、車は発進した。早く撤退しないと溜息さんが危ないかもしれない。
車は発進し、駐車場を出る。
「なあ、円城寺のババアは誰かが抑えてるのか?」
後部座席に座る空蝉さんが、ふとそんなことを聞いてきた。
質問にはロールが答える。
「溜息さんよ」
「溜息? 溜息が来てんのか?」
「ええ、私達がこの街を出るまで溜息さんが円城寺八千代を引きつけるって作戦」
空蝉さんにはホント無駄な時間を割かれた。音で様子を伺ってみるが、無言の戦闘が続いている。
戦線は基地内で繰り広げられており、民間に被害はなさそうだ。
「へぇ、溜息がねぇ……」
ミラーに映る空蝉さんの口元がニヤリと吊り上がった。
そして、彼は車窓を開けて腕を外に出す。
「逃げたりしないわよね」
「勝負に負けたんだからそんなことをするわけねェだろ」
空蝉さんは言ったが、正直信じていいのかどうか。ロールは不安そう、というか少し苛立っている時の顔で運転していた。
「なァ、タバコあるか?」
助手席の座席をトントンと蹴り、空蝉さんは聞いた。
「タバコですか? タバコは俺もロールも吸わないんで……」
「いや、確かそこのアンダーボックスに入ってたはずよ」
「ああ、あるそうです」
「じゃあ死音、わりぃがとってくれねぇか?」
「分かりました」
言われて、俺はアンダーボックスに手を伸ばし、中のタバコを一つ掴んで空蝉さんの方に差し出した。
空蝉さんはなぜか差し出したタバコではなく、俺の手の甲に触れた。
「……?」
「ごめんね。貰ってくよ」
状況を理解するのに数秒かかった。
その数秒のうちに、空蝉さんは車窓に身を乗り出し、外へと飛び立っていってしまう。
タバコをくしゃりと握り締め、俺は空蝉さんの能力を思い出していた。
触れた相手の能力をコピーする。
「チッ、あの人……!」
「クソ!」
俺とロールの舌打ちが車内に響いた。




