05. 濡れネズミ王女と、トカゲな姉妹。
ディ=エルドレンの首都ファルタスカより北は、広大な森林地帯である。
通称〈黒い森〉と呼ばれるこの深い密林には、魔導文明が発展した今なお、自然界に太古から存在する精霊や妖精、幻獣などが数多に生息しており、他の地には無い貴重な資源をもたらす神秘の宝物庫としても大陸に名高い。
黒く密に謎を秘めた樹木の海原。
その深奥に、高く聳え立つ塔がある。
「――――そうなの……来たのね。教えてくれてありがとう」
そう言いながら、女は窓辺に止まった緋色の小鳥の背を、しなやかな指先で優しく撫でた。
お礼にと、傍に置かれた虹色の硝子器から取り出されたのは、桃色の可愛らしい砂糖衣の菓子。
それを差し出すと、小鳥は嘴で菓子を摘まんで軽く頭を下げ、赤く輝く鱗粉を散らしながら茜の空へと飛び立った。
煌めきの輝線を視線で辿りながら、女は沈みかけた太陽の残光に目を細める。
もう夕暮だというのに、見送りに立つ窓から吹き込む風が今日はいつになく柔らかい。
待ち望んだ、この刻。
これから起こる未来を、祝福してくれてでもいるのだろうか?
―――三百年。
「やっと、ここまで来てくれる子たちが現れたわよ…………ウィダ」
裳裾を紺青に染め上げ始めた夕の空に手を翳し、彼女はその口元に蠱惑的な笑みを浮かべた。
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ウィード・セルの一族――――ヴォロンディ家は、〈天輪碑板〉専属の魔導士血脈。
歴代の〈夜の魔法使い〉は例外なく、全てヴォロンディから選ぶものと定められている。
儀礼における重要な役割を与えられているためか、かつてより一族は定められた地に住まうことを義務付けられ、その直系に生を受けた者は皆、王家による誓約魔術で縛られてきた。
誓約魔術とは、戒めの枷。
交わした誓約を犯せば、その先に待つのは苦痛に満ちた――― 死。
碑板に関わる儀礼は、必然的に国の存亡を掛けたものとなる。万が一にでも、役者たちが逃亡、叛意を起こしたりせぬよう当人に誓約魔術を施すことは、他の国でもままあることだ。
ただ、例を見ぬほど長きに渡った誓約魔術の行使により、ディ=エルドレン国内において〈夜の魔法使い〉の名を冠する一族の在り方は、酷く歪に変質してしまった。
ヴォロンディの血脈は演劇儀礼の為にのみ存在し、存続する。
一族の人間は、エルドレンの国領から出ることすら許されない。世界を渡ることもできず、魔導士としての高みを目指すことも叶わない。
それは、魔を極めんとする魔導士の世界に生きる者として―――― 人として、何の価値もないとみなされたことと同義ではないか?
六回目の演劇儀礼。
五十年目に巡って来た今回こそ、〈天輪碑板〉に何も浮かばぬことを、一族は切に望んだ。
血族の直系、己に連なる若き子供たちの解放を、心の底より願って。
―――― だが、ウィード・セルは〈夜の魔法使い〉として、今ここにいる。
「……お前なんか、大っっ嫌いだ」
「なによ、唐突に」
夕闇が降り始めた森。
濡れた長い銀髪を絞りながら、マリー・ベルがウィード・セルに視線を寄こした。
「そんな口、利いていいと思ってるの? 誰のおかげで、こんなに楽にここまで来れたのかお忘れ? わたしとアルダちゃんが居なかったら、こんな森の中を永延歩かなきゃいけなかったんだから。ねーっ?」
「ぴきゃっ」
王女の足元で、黒い生き物が同意を示すように鳴いた。子犬程度の大きさで、羽が生えた蜥蜴に似た生物だ。
その蜥蜴モドキのきゅるっとした大きな黒瞳が、ウィード・セルの姿を映し込む。ウィード・セルは思わず上げそうになった悲鳴を、必死で飲み込んだ。
今は、こんなお手軽サイズに収まっているが、こいつは―――――、
「お、おい! おまっ――― それ、竜なんだろ!?」
「そうよ。黒竜のアルダちゃん。さっきまで背中に乗せて貰ってたんだから、わざわざ訊くまでもないでしょ? というか、あなた何度質問すれば気が済むのよ。アルダちゃんに乗せて貰う度に同じこと訊かないで、鬱陶しい」
「なに呑気なこと言ってんだよ! 俺は敢えて訊くからなっ!! だって竜だぞ、竜なんだぞ!? その辺のペット用蜥蜴じゃあるまいしっ。コイツ等が人間に懐くなんて話、聞いたことない! てか、なんでそんなコンパクト・サイズに縮んでんだよっ」
ひ―っ、と半泣き状態で後ずさる魔法使いを冷めた目で眺めながら、王女は両手を腰に当てて大きく息を吐いた。
「あのね、懐くとか言わないでくれる? わたしたちは親友なの! 魂で繋がってるわたしの姉妹を、それ以上ペット扱いしてみなさい。頭から全身の皮を剥いでやるから」
「………」
この女なら、本気で遣りかねないような気がする。
じりじりと間合いを取るように後ずされば、
「分かればいいのよ、分かれば」
理解を得たと認識したらしき王女が、腕を組んで鷹揚に頷きを繰り返した。
まあ、在る意味分かったと認識してもらっても構わないのだが……あっさりと、「コイツなら」と思われてしまうことに関して、どこにも思うところはないのだろうか。いいのか? そんな生き方で。
「ま、アルダちゃんの大きさミラクル・チェンジに関しては、コレのおかげなんだけどね」
怯えまくる魔法使いを余所に、マリー・ベルはアルダを抱き上げ、首に巻かれた帯を指差した。
紺色の皮帯には一つ、大振りの、虹色の光沢を帯びた乳白色の石が填っている。
「作り手、もしくは登録されてる人間がこの魔石に触れて念じると、アルダちゃんのサイズを自由自在に変化させることが出来るのでーす。便利でしょ?」
「……それも通販か?」
「ううん。これは昔、通りすがりの知らない女の人に貰ったの。親切な人っているものよね。この世の中も、捨てたものじゃないわー」
自分の実家でテロ紛いな脱出劇をする危険人物に、こんな代物を渡すような奴は即刻投獄すべきじゃないだろうか。
世を憂い過ぎて、なんだか頭痛がする。ウィード・セルは眉間を押さえて溜息を吐いた。
ちなみに、そんな彼の深い嘆きは、今日も今日とてどうでも良かったらしい。
腹の底から吐き出された盛大な溜息に何の反応も示さなかった王女様が、魔法使いの少年を斜に見下ろしたまま、可愛らしく小首を傾げた。
「―――で。あなた、いつまでそうしているつもりなの?」
仕方ないわね、とばかりにマリー・ベルから手を差し出され、ハッと我に返った。
そうだ。いい加減にしないと凍えてしまう。
ウィード・セルは現在、半身をどっぷりと泉に浸けていた。洋服から髪に至るまで、全身がずぶ濡れだ。先に泉から上がった王女の姿も同様で、見るからに高そうな限定コラボ衣裳も台無しだった。
二人が自らの意思で望んで水浴びをした結果、こうなった訳では断じてない。
(それもこれも、蜥蜴モドキが着地に失敗したせいだよ……)
バランスを崩した竜の背から投げ出されて泉にダイブした時、水面に思い切り突っ込んだ顔面がまだ痛い。
だが、まだ運が良かった。
もしここに泉がなくて、そのまま地面に叩きつけられていたらと思うと――― 一気に血の気が引く。
(……まあ、いつまでも蜥蜴に当たるのも大人げないしな)
大体、こんな目にあった本当のところは、アルダのせいではない。
ウィード・セルは、なにもかもの災厄の元凶である、自称・トカゲの魂の姉妹を半眼で睨み上げながらも、仕方なしに差し出される華奢な手を取った。