03. 物入りな姫君と、下僕入門。
「だいたいねー、冗談じゃないって言うのよ。なんで、このわたしが〈銀月姫〉? カビちゃってるよーな古臭いお姫様役よ? 天宮の女神でさえ嫉妬で歯軋りしちゃうくらいの美貌を、持ち腐れさせようとしてるとしか思えないわ。大いなる資源の無駄遣いよ、そう思わない?」
「………」
背後から乱暴な衣擦れの音と、ばふっと寝台が軋む音が聞こえた。
寝台のマットに何かを叩き付けたのだろうか。たぶん、さっきまで彼女が着ていた白い衣裳だ。薄い布地同士が寝台の上を滑り、衣裳を飾っていた繊細な真珠細工が綺羅らかな音を立てている。
素材だけでなくデザインもまぁ良かったし、きっと値が張る衣裳なんだろうに。手荒に扱って破れでもしたらどうするんだ。
「なのに、あの大臣ども、『〈演劇儀礼〉なんだから仕方がないんです~』だなんて。いくら無事に済ませなきゃ国が滅びるって言ったって、こんなに可憐でか弱いたおやかな女の子に配役を無理強いしちゃうとか在り得ないわよ。どうしてもって言うなら、第二王女のレア・ミュライエに遣らせとけばいいじゃない。あのコ、姫役に抜擢されなかったからって、歯茎から血が滲むほどハンカチを噛締めて悔しがってたんだもの。あんなに本人が望んでるんだから、無理にでも役を振ってやれば良かったのに。じめじめと鬱陶しい根暗な魔術オタクのあの王女には、お似合いのポジションよ。そうすれば、わたしだって余計な恨みを買わずに済んだんだしー」
「………」
そんなこと知るか! まあ、今確実に俺の恨みは買ってるけどなっ、とウィード・セルは胸の内でがなり立てた。
それより何より、さっきから気になっていたんだが。この王女、脱いだ衣裳を一人でちゃんと片付けることが出来るんだろうな?
普段はきっと、身の回りのことは全部侍女がやっているんだろうし……出来ない可能性の方が高い。
そのまま寝台の上に置きっぱなしにすれば、折角の柔らかで美しい布地に皺が付いてしまうじゃないか。ああ、勿体無い。
――― 俺に貸してみろ!
と叱って、取り上げてやりたいところだが、今のウィード・セルの状態では、それも叶わず……。それどころか、背後を振り返ることすら儘ならなかった。
「ねえ、聞いてよ! わたしがこの儀礼の〈銀月姫〉に正式に選ばれてから、レアってば呪いを掛けた人形やらお菓子やらを毎日送り付けて来るのよ? 酷いわよね。魔術で他人をどうこうしようだなんて、善良な心を持った人間のすることじゃないわ」
「……~~~っ」
「人を呪いで縛ろうとするなんて、最低よ!」
「~~~~~ッ!」
「ん? あら、なぁに? 何か言いたげね?」
「~~~ッ! ~~~~~~ッッ!!」
「さっぱり分からないわ。んもう、仕方ないわねー」
駄目な奴、と言わんばかりに溜息を吐いたマリー・ベルの指が、ウィード・セルの口元に伸びてきた。
彼の口を覆っていた“それ”が、少しだけずらされる。次の瞬間、ぷはっ、と息を大きく吸い込む呼吸音が部屋に響いた。
「こ、こんなものされたままで、話せるわけないだろっ! 一国の姫のクセに、猿轡をこんなに上手く扱えるってどういう人生送って来てんだよ、あんた!?」
そう主張の叫びを一声上げたあと、ウィード・セルはむがむがと必死に口元を動かし、外れ切っていない猿轡を顎の下まで下ろそうと足掻いた。
残念ながら、手を使って布を除けることは出来ない。何故なら、両手首を後ろで縛られているから。
手足の縛り上げ方一つだけでなく、全身拘束の技術にはプロ顔負けの慣れと熟練の腕を感じる……なんて恐ろしい奴。
「っはーッ……やっと、取れた……」
「はいはーい、お疲れ様。良く頑張ったわね?」
頤の関節が痛くなるほど頑張って布を口元から移動させ、ようやく下げ切ったところで拍手とともに掛けられた、気の抜けるようなお褒めの言葉。
イラりと来て視線を上げたその時になって初めて、目の前に座っていた王女がまじまじと自分の顔を至近距離で覗き込んでいることに気づいた。
どうやら着替えを終えたらしい。先ほどまでの衣裳ではなく、白を基調とした旅装束に身を包んでいる。
あのドレスじゃ身動き取り辛かっただろうなとは思うが…… これから〈姫〉として攫われなきゃいけないっていうのに、本当にいいのか? その恰好で。
「ふぅん」
「…… なんだよ」
失礼極まりない悪徳女だが、それでも絶世の美少女。こうも近い距離で真っ直ぐに見つめられると、ついつい顔に血が上ってしまう。
頬に落ちる睫毛の陰がはっきりと見えるほどの間近で、王女は空色の瞳を瞬かせ、心底楽しげに言った。
「いや、間抜けな顔だなって思って」
…… 訊いた自分が愚かだった。
「こんな仕打ちをした張本人が言うなっ。呪うぞ!」
「えー、そんなことしたら見損なっちゃうわよ? さっきも言ったけど、他人を呪うなんて人として最低だわ」
「あ・ん・た・が・言・う・なッ! 自分のことは棚に上げまくるのかよ!? それが俺を呪った張本人の台詞か!?」
「……あーら、ご主人さまにそんな生意気な口を利くのは、どこの何方かしら、ねえ?」
異様なまでに優しげな微笑み。この上なく綺麗な笑みを浮かべる唇を目にした瞬間、しまったと身を引いたが、もう遅い。
「そーれ!」
ちょん、とマリー・ベルの指先が、ウィード・セルの額を突く。
突かれた場所から輪を描くように、熱が走った。
ひっと自分の喉から引き攣れた空の声が漏れると同時に、激痛が頭部を襲う。
「いだだだだだだだだだ!」
「ほーほほほほほ、いい様ねッ」
王女の高笑いを憎々しく耳にしながら、ウィード・セルは額に浮かび上がった魔術紋様を掻き毟った。
しばらくしてようやく痛みから解放されると、それまでのたうちまわっていた床上に、そのままばったり倒れ込む。
「さ、もう気が済んだでしょ?」
「あ……あんたの気が、だろうが」
息も荒いまま見上げれば、希代の美姫のにっこりとした極上の笑みが、邪悪に降り注いできた。
何も言わないところをみると、どうやら肯定らしい。忌々しいことこの上ない。
「じゃあ、そろそろ行きましょ」
「は? ……ああ、やっと出発する気になったんだな。『台本』の筋書き通りなら、もう出てなきゃいけない時間は過ぎてるっていうのに、あんたが着替えたいなんて言うから」
おかげで余計な時間を喰ってしまった。
これじゃあ、全部を無事終えても、後で大臣どもからお説教を喰らってしまうかもしれない。なんて理不尽な話なんだ、まったく。
「仕方ないでしょ? ムサイ殿方と違って、乙女は物入りなの。いろいろ準備が必要なんだから」
「でもだからって、何もひとの全身を拘束することないだろ!? 縛って転がす必要性がどこにあるってんだよ!」
「だって、信用出来ないじゃなーい。このわたしの世界の宝石的愛らしさと、溢れんばかりの可憐な色気に、未熟なあなたが当てられちゃうかもだもの。柔肌を嘗めるように盗み見られて、あげく襲われたりしたらって思うと、怖くて平静で着替えられやしないわ」
「……俺は、初対面の人間に呪いを掛けた挙句、その相手を縛り上げるために、拘束具を事前に用意してたあんたが怖いよ」
“―――わたしに攫われなさい!”
あのとんでも宣言のあと、呆気に取れたウィード・セルの隙を付くように発動された呪い。
初めての呪いの効力に彼が悶え苦しんでいる間に、彼の手足と口を封じて床に転がしてくれたのだ、この姫君は。
「備えあれば憂いなしっていうじゃない?」
可愛らしく小首を傾げながらのたまう自国の王女を目にしながら、ウィード・セルは故郷の未来を憂いた。
「だいたい準備って、オープニング用にならさっきの衣裳で十分だったじゃないか。ってか、むしろあっちの方が〈物語〉にそぐうだろ? なんだよ、その軽装は! 悪化させてどうするんだよ」
「あら、この服?」
指差して指摘すれば、マリー・ベルが急にご機嫌な様子で声を返してきた。
口元に白い手を当て、ふふふと軽やかに笑い声を立てた彼女は、ウィード・セルに全身を見せるように短いスカートの裾を摘み、濃灰色のブーツの踵を重心にしてくるりと身を回転させた。
……確かに、似合っている。
だけど、洋服を見せようとする何気ない仕草までいちいち様になっていると、何だか非常にムカついたので、お世辞は返してやらないことにする。
「ふふふー、かぁわいいでしょ、これ! 世界各国の王女たちの間で流行ってる、お姫様御用達の通販雑誌でゲットしたのよ? お洒落で名高いカシューヴァ国のユレナ女王が、有名ブランドの〈ケルフィス=クライン〉のデザイナーとコラボしたっていう、この世に三枚しかない限定モノなんだから」
「………」
魔法使いは微妙な顔をして口を噤んだ。
突っかからなかったのを不思議に思ったのか、マリー・ベルが小首を傾げながら訊いて来る。
「あら、もしかしてカシューヴァを知らないの?」
「んなわけないだろ。何年この大陸の住人やってると思ってるんだよ。確か、西端くらいにある国だったか? ……女王にそんなことさせるなんて、ずいぶん暇な国だよな」
「何言ってるのよ!? ユレナ様はこの大陸に住む全乙女たちのカリスマ的存在なのよ!? 彼女がデザインした品は、常に予約で完売なんだから。この服だって、友達に手伝って貰いながら必死で葉書を出しまくった末に、やーっと手に入れることが出来たのよ。見てよ、ほら! 名誉のこのペンダコを」
「あー、わかったわかった。あんたもずいぶん暇な王女なんだってことがな」
「………ふっ」
黒い影を背負った銀色の王女が、悪い笑みを浮かべて指をならした。
合図に応え、サークレット状に浮かび上がった呪いの紋様に再び七転八倒させられたあと、もう二度とこの女と会話をすまいと、床に沈んだままのウィード・セルは心に誓う。
そんな弱った彼の背に、今度は呪いとは別の物理的な衝撃が振り落とされた。
「さて、と。準備も出来たし」
旅の荷物を入れた鞄を下僕の背に投げ落とした姫君は、内蔵が飛び出そうなほどの痛み耐える彼の声無き悲鳴には気付かない様子で、明るく歌うように、その名を呼んだ。
「アルダちゃん!」
―――誰だ? アルダって。
この部屋には、王女とウィード・セル以外、誰もいないはず。
誰かを呼ぶような彼女をいぶかしみながら、魔法使いの少年は、痛みに顔をしかめながら目を開いた。
滲み出ていた涙で揺らぐ視界。
床に頬を付けたままの姿勢でいた彼は、正面――― 丁度目の前に置かれている寝台の下の暗闇の中で、それを見つけた。
「キュウ?」
甲高い鳴き声。
紫色をした一対の、人間には在り得ない大きさの瞳が、夜よりも黒い闇の中で光を放っていた。
「あら、こんなところにいたのね、アルダちゃん。待たせちゃってごめんね? いよいよあなたの出番よ!」
顔を合わせてから初めて聞く、この上なく優しげな王女の声。ただ純真で柔らかな笑みを浮かべた彼女の横顔に、ウィード・セルは少し驚いた。
――― なんだ、普通の女の子みたいに笑えるんじゃないか。
ただ悪どいだけじゃないのかと、失礼極まりない気持ちで感心する。
だが、そんな驚きも、寝台の下から何かを迎え入れるように両手を伸ばしていたマリー・ベルが振り返った瞬間、殴り飛ばされたように弾き消えた。
「おまっ! そそそそそそそ、それ、そいつっっっ!?」
未だ全身を襲う激痛を忘れ去って起き上ったウィード・セルは、半分腰を抜かしながらも全力で部屋の壁際まで後ずさり逃げた。
「何してんのよ。ほら、きちんと挨拶しなさいよ、下僕。この娘はわたしの親友、アルダちゃんよ」
「キュウゥッ」
「“よろしくね”って。礼儀正しいでしょ? さすが、一流の貴婦人だわ。それに引き換え、あなたときたら……それが初対面の乙女に対する殿方の態度?」
「だ、だ? だって、おまえ、それ――――!!」
というか、〈ソレ〉って雌なのか!?
驚愕と疑問の渦巻きで爆発しそうな魔法使いを冷たく見やったマリー・ベルは、全く、と零しつつ、彼のどもりまくった訴えを綺麗さっぱりスルーした。
それから、自らの腕に抱いた〈ソレ〉に甘い視線を向けた彼女は、ソレの額と己の額をコツリと合わせて柔らかく問う。
「アルダちゃん、お願い。わたしと床に転がってる荷物と、あとあの壁際で喚いてるお荷物を、王宮から運び出したいの。手伝ってくれないかな?」
「キュ、キュキュキュウ!」
「ありがとー! アルダちゃん、大好きッ」
歓声を上げ、王女は〈ソレ〉を抱きしめた。挙句、ソレの頬らしき場所にキスの雨を降らせている。
ぞっとする光景に顔を引きつらせながらも、ウィード・セルは不安に満ち満ちた疑問を浮かべずにはいられなかった。
(――― 運び出す?)
どういう意味だ? ………ああ、もう、嫌な予感しかしない。
「さあ、いよいよ『銀の姫君と夜の魔法使い』の開幕よ?」
背に当たる壁に張り付くようにして見上げた夜の魔法使いに向け、緑色の月光が差し込む窓辺を背景にした姫君は、挑発的に微笑った。