34. 銀の姫君と、蒼の魔法使い。
幼い日、心に誓った願い。
そして、それは叶った。
その代わり――― この想いは叶わなかったけれど。
(……別に、見返りが欲しかったから、彼を自由にしてあげたかったわけじゃないわ)
ただ、昔から勝手にマリー・ベルが自分の中で決めていただけ。
だから、いい。
そのはずなのに、胸から熱が引かない。
彼のことを思い出すと、焼けるような痛みが胸の内に広がるのは、どうしてだろう。
「……たぶん、な」
沈黙の中、王子の淡々とした声が、沁み入るように落された。
「私は見たかったんだ。君と魔法使いが、二人で幸せになるところを」
ヒースが漏らしたそれは、独り言に近い、聞き落としてしまいそうな、微かな呟きだった。
不思議だ。
彼は何故、そんなものが見たかったのだろう?
先を促す視線を送った。そんなマリー・ベルから、王子の顔が逸らされる。彼はつまらなそうに吐息を吐き、とんでもないことを口走った。
「今回の儀礼も、きっと失敗なんだろうな」
王女はびくりをその背を震わせ、思わず部屋の扉の方を伺った。
分厚い扉の向こうには、護衛騎士たちがいる。彼らにこんな会話を聞かれたりしたら大変だ。
一体、何を考えているんだ、この王子。
冷や汗を掻きながら、マリー・ベルは彼を少し睨む。
「そんなわけ、ないじゃない。現にわたし達はこうやって……」
「儀礼の筋書き通りに成功させたのは、これまでだって同じだろう」
「それは……」
「違うんだ、おそらく。〈天輪碑板〉の書き手は、こういう結末を望んでいるのではないんだと思う。……きっと、五十年後には、また同じ物語が刻まれることになるさ」
―― その通りかもしれない。
静かにそう同じる自分を、心の中で見つけて驚く。
ふと、掠める記憶。
それは昔、王宮からの迎えを拒んで森に逃げ込んだマリー・ベルに、魔石の首輪をくれた、見知らぬ女の言葉だった。
彼女が何者だったのかは分からない。
ただ朧気に、美しい女性だと思ったことは覚えている。
あの時、あの女はこう言った。
(もし、物語を綴っている神が、本当にいるのだとすれば、きっと―――……)
「その神は、お節介な捻くれ者で、とんでもない浪漫主義者に違いないわね」
「だろうな」
そうでなければ、気に入る結末を見るまで、繰り返し同じ物語を望んだりしない。
そう言って、笑い合った。
その時だった。
「――― それは、お前も同じだろ?」
今、この場で聞けるはずのない、声を聞いた。
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「―――!」
弾かれたようにして振り向いたマリー・ベルの両目を、閃光が刺した。
石造の床を揺らす爆音と、視界を灰色に覆う粉塵。
風に薙がれたマリー・ベルは、叩き付けられた時に襲いくるであろう衝撃や、彼女を押しつぶそうと降りかかる瓦礫のことを思い、ぎゅっと瞼を閉じる。
だが、痛みが襲ってくることはなかった。
代わりに、吐息がかかるほど間近で怒鳴る少年の声が、鼓膜を揺らす。
「城を壊すなって言っただろ!? どーしてお前らは、そんなに物を壊したがるんだよ!」
砂埃が治まってみれば、窓がないはずのこの室内で、消えゆく夕日が拝めるようになっていた。
無残に裂かれた天井部分では、しゅんと項垂れた黒竜が、おずおずと顔を覗かせている。
誰に大きさを変えて貰ったのか。巨大化した親友を見上げて唖然とするマリー・ベルの腕を、蒼を纏った人影が掴んだ。
彼女はっと我に返り、腕を引く手を振り払おうとするが、叶わない。
「ばかぁっ!」
この上なく赤く染まった顔で、王女は相手を怒鳴り付けた。
「どぉして、あなたがここにいるのよっ! というか、何しに来たのよ!」
「あんたを迎えに来たに決まってるだろ。てか、先にバカって言いたかったのはこっちの方だよ、バカバカ大バカ女」
腕の中で暴れるマリー・ベルを軽く往なし、“魔法使い”だった少年は、彼女の腰に手を回して強く引き寄せた。
彼は喚き散らす王女をそのまま横抱きにすると、破壊されたせいでワイルドなテラスのようになってしまった外壁に向かい、そこから首を反らして天を臨んだ。
王女の白い指が、蒼い外衣の胸元を荒々しく握る。
「わたしは、こんなこと望んでなんかいないわ! あなたと一緒には行かない。あなたとなんて、絶対に嫌よ」
声を荒げたせいで乱れた呼吸の下で、マリー・ベルが震えるように言う。
―――だが、
「それは、嘘だな」
バッサリと断じた言葉に、王女は目を剥いた。
何を根拠にそんなことをと、なおも言い募ろうと口を開きかけた彼女の前で、ウィード・セルは黒い前髪を掻き上げ、自分の額を晒した。
「ばーか。見ろ、何も出てない。お前の意に反することをすれば、印を組んでも組まなくても、ここに〈下僕の刻印〉が出るはずだろう?」
あ、とマリー・ベルの唇から小さく声が漏れた。
シェイラ・フィフィと取り交わしたのは、誓約魔術の解呪。
魔女の元へ連れていくための口実として使った骨牌の魔法は、まだ消えていない。
「――― そうだったわね」
マリー・ベルは表情を頼りなげに崩した。
イヤになる。
彼女自身より、魔術の方が正直だなんて。
「……わたし、何も出来ないの」
お姫様としても中途半端な女の子。
市井で糧を得るための術も、何も持ち合わせていない。
「あぁ、この1ヵ月でイヤってほど知ってる。覚悟してるよ」
「わかってないわよ、絶対! 髪だって真っ白になっちゃったから、役に立つ物なんか何も持ってないし……」
自分で言うのも何だが、顔と特殊能力を除けば、何の取り柄もない。
そんな自分が、このひとを幸せに出来るはずないじゃないと、彼女は自身を嘲り、
「もう、何もしてあげられないのよ?」
マリー・ベルが滲みそうになる涙を必死に堪え、なんとか頑張ってそう言いきったのに。
「そうか?」
瞳を覗き込んで来た、悪戯っぽい夜色の目は、逃げ切ることを許してくれなかった。
「俺はさ、あんたじゃなきゃ駄目なこと、たくさんあるみたいなんだけど」
(バカじゃないの……)
とっても愚かでバカな選択をした、大好きなひと。
せっかく、自由になれたというのに。
(バカだよね、ホント)
彼の瞳に映った、ボロボロと涙を流すみっともない少女と向かい合い、マリー・ベルは笑った。
――― 望むことを、自分に赦してもいいだろうか?
彼女は答えを得るための視線を、離れた場所に立つ金の王子に向けた。
「………」
彼は、何も口にしなかった。
ただ、淡く表情を緩めて、一つ頷きをくれた。
自分では、自分たちだけでは決して割り出せない赦し。
ありがとう、という気持ちと一緒に、瞳から零れ落ちてゆく涙を、瞬きで押さえる。
一度軽く俯いた後に上げられた少女の顔は、眩しいほどの笑顔を湛えていた。
光が溶けるような、幸福の笑み。
「ウィード・セル=ヴォロンディ」
涼やかで明るい声で、目の前の少年を呼ぶ。
「あなたとの契約を希望するわ」
「では、お嬢さん。貴女の〈望み〉と、それに見合う〈対価〉を」
気取った口調で求めた魔法使いの首に、彼女は両の腕を回した。
「望むのは、〈蒼い魔法使いの心〉。対価には―――― わたしの〈初恋〉をあげるわ!」
高らかに放たれた契約の言葉。
頷いた魔法使いの顔に、銀の姫君の唇が寄せられた。
「……に、じゃないのかよ」
「あとでなら、考えてあげる。たくさん、ね」
口付けを受けた頬を撫で、ブツブツと零した少年を目一杯赤面させたあと、彼の手を握ったまま、マリー・ベルは軽やかに身を翻した。
ふわりと舞った彼女の髪は白月色で、もとの鮮やかな色彩も、星の煌めきも無い。だが、瞳にはそれ以上の歓びが灯り、甘やかに輝いていた。
アルフェンを守るように抱いたまま、黙って一連の流れを観ていたヒースに向けて、彼女は微笑って言った。
「そういうことなんで、後はよろしく」
「ああ」
「その子にも、ごめんねって伝えて。とゆーか、他人の恋路の行く末に期待してないで、貴方も自分で自分の恋路をしっかり掴みなさいっ」
切り取られたような夕星空を背景に、手を繋ぐ“少年”と“少女”。
見送る者は、“王子”ただ一人のみ。
竜の羽ばたきに乗って、二人は御伽噺から、春風のように翔び立って行った。
+ + + + + +
「そう言えば、俺、あんたの本当の名前、まだ聞いてないんだけど」
「あら、そうだったかしら?」
「そーだよっ! …… 教えてくれるか?」
「ええ、もちろん。聞いて? わたしの名前は――――………、」
こうして、冒険を遂げた銀月姫と蒼の魔法使いはめでたく結ばれ、末長く幸せに暮しました。
その後、二人と一匹は、偉大なる女王様が治める大国で大活躍させられる―――もとい、することになるのですが、それはまた別の物語……。




