33. お姫様は、知っている。
――― わたしが当代の〈銀月姫〉よ。よろしくね、悪い魔法使いさん
――― あ、お、俺は……、
――― 知ってるわ
空の彼方が暮れなずみ始めた、夕時。
鮮やかな朱に染まった空の裾、地平線に薄紫を纏った薄暮のヴェールに、小さな明星が一粒瞬く。
そんな、春の夕景色に対する賛嘆とは程遠い気分で。
王都近くに築かれた離宮の一室、装飾過多な扇子を忙しなく動かしながら、マリー・ベルは気まずそうに視線を泳がせていた。
(ちょおっとだけ、やりすぎちゃったかしら……)
力なくクッションに沈んだ顔を見下ろしながら、激しく反省。彼女がせっせと送っている風を受け、紅茶色の髪がふわふわと揺れる。うーんと力なく洩らされるのは、唸り声にも似た寝息。
目下、テリゼード国第三王子ヒーセリジオの膝に寄りかかって伸びているのは、彼の従士であるアルフェンだった。
「……ごめんなさい」
唇を尖らせ、王女はポソポソと謝る。
だが、婚約者であるはずの彼女には目もくれず、ヒースは長椅子に横たわらせた従士から目を離さなかった。
(なによー。無視しなくてもいいじゃない)
マリー・ベルはムッと下唇を噛む。
まぁ、それだけのことを仕出かした自覚もちゃんとあるので、口に出しては言えないけれど。
自分の周りで山を為す、銀製の茶道具一式と菓子、色とりどりの花に煌びやかな衣裳、美しい歌を披露する金糸雀、そして数匹のカピパラといった、おびただしい量と種類の贈り物。
これらは全て、マリー・ベルのためにと、アルフェンが取り急ぎ揃えたものだった。
それもこれも、道中からこの離宮に入るまでの始終一貫、王女が一言も口を利かなかったせいで。
「はっ! 出会って即行、夫婦の危機!?」
顔を真っ青にしたアルフェンがご機嫌取りのために用意した贈り物に、初めは無視を決め込んでいたマリー・ベルだったが、どんどこと際限なく運ばれてくる様子が面白くて、つい、悪乗りしてしまった。
「ほんと……悪かったわ……」
むにゅむにゅと、言葉にならない謝罪を口の中で転がし続ける王女へ、ヒースは漸く視線を向けた。
冷たい碧眼でしばし見据えられた末、言っておくが、という前置きののち、続けられる。
「そう遠くない未来、君と私は婚姻を結ぶことになる。だが、例えそうなった後でも、コイツを傷つけるようなことがあれば、私は君を、絶対に許さない」
顔を合わせてから耳にしたどんな言葉よりも、はっきりと発せられた、揺るぎのない口調。
真剣な眼差しを叩きつけられ、驚きに息を呑んだマリー・ベルは、婚約者である隣国の王子を凝視した。
「あなた、もしかして……」
彼と、彼の従士を交互に見て、口元を両手で押さえる。
次の瞬間、ぱっと頬を染め、きゃーっと黄色い声を上げた。
「そうなのね? そういうことなのねッ!? 」
美貌の王子と、その従士たる少年の、禁断の恋。
すてき、と夢見心地に吐息を零す。
「まるで恋愛小説みたいねー」
物語の王道を地でいった恋人たちが、いま目の前に!!
乙女モード全開で、瞳を輝かせ始めた姫君とは対照的に、元の無表情に戻ったヒースは、だらりと長椅子の背凭れに寄り掛かった。
如何にもやる気のない、その態度。
だから、油断していた。
斜に構えた視線を流す彼が、爆弾を落とす。
「君だって、恋物語を体現したようなお姫様だと思うけど? あの魔法使いのことが好きなんだろう?」
「―― へ!?」
「髪は乙女の命なんですっ――― と、この従士が以前教えてくれた。あの男のために、自分の命と同等のものを対価に差し出したくらいだ。そうに決まって……」
「ぎゃあぁああっ! やめて――――ッ!」
放火されたように顔面を赤くしたマリー・ベルが、言葉の先を遮るように奇声を上げて立ち上がった。
その拍子に、膝に乗せていたカピバラ達が、ぼろぼろと落ちてゆく。ウゴウゴと抗議する彼らに動揺したまま詫びる王女の姿を、ヒースは興味深く観察していた。
面白がられていることに気付いたマリー・ベルが、頬を染めたまま咳払いをし、再びクッションの山に腰を下ろす。彼女は、抱きしめた竜のヌイグルミ越しに、ヒースを睨んだ。
「何で、そんな意地の悪いこと言い出すのよっ。わたし、自分の恋バナするほどあなたと慣れ合ったつもりはないわよ」
「君が先に言い出したんじゃないか」
「べつにいいでしょ。ちょっとくらい、からかうくらいさせなさいよ」
「……現状況で、よくそのノリを保てるとは本当に驚きだ。俺は、君のそういうところが嫌いだね。自虐的過ぎて、理解出来ない」
「あら、わたしも貴方が嫌いよ。両想いね」
嬉しいわ、とマリー・ベルはとびきりにこやかに微笑んでやった。
儀礼を遂行するためとはいえ、ウィード・セルに傷を負わせた恨みは軽くないのだ。あと数ヶ月は恨み節を唱えてやるつもりだと、心に決めている。
そう、数ヶ月。
いや。この先にある、それ以上の年月。
果てしないようにも思える時間を、彼らとともに過ごさなければならない。
「嫌いでも、せいぜい我慢することね。そっちは独りじゃないんだし、楽勝でしょ。あなたたちは、これからもずっと一緒にいられるんだから」
わたしは、この国を離れてあなたと結婚するしかないのよ、と語調を落として呟き、人形に顔を埋める。
同じ儀礼で、政略で婚姻を結ぶはずなのに、この王子は好きなひとと居ることが出来る。
羨ましがることくらい、許して欲しい。
だって、マリー・ベルにはもう、何も残っていないのだから。
望みは、もう、全部叶えてしまったのだから。
(――― そう。これ以上は、何も望めない)
彼を、自由にして上げよう。
わたしの代わりに世界を巡って、素敵なものをたくさん見て貰おう―――。
幼い日、心に誓った願い。
そして、それは叶った。
+ + + + + +
誓約魔術のことを調べ上げた次の日、中庭を訊ねたマリー・ベルは、ルース・シス叔父さんに懇願した。
「おねがいします。さいごに、もう一度でいいから、ウィセルに会わせてください」
今にも込み上げてきそうな涙を必死で堪えていた彼女の願いを、優しい眼差しで受け留めてくれた叔父さんは、あの子はいつもの場所にいるよ、と送り出してくれた。
何週間も会えなかったというのに、ウィード・セルの態度はいつも通りだった。
まだ、顔の傷は治らないのかと問う彼に、曖昧な答えを返す。
本当は、傷なんかとうの昔に治っていた。
でも、彼にこの顔を見られたくなかった。
絵姿で見た母さまにも、大好きな祖父母にも似ていない、この顔。
あの父親にすら似通うところのないこの顔が、一体どこから来たのかは分からないけれど、目立ち過ぎるということだけは、しっかりと理解していた。
――― 顔を見せたら、王宮の他の人間たちのように、ウィセルも自分のことを嫌いになるかもしれない。
初めはそう考えて隠していた。
だけど、途中で理由が変わった。
――― この顔を見なかったら、わたしが〈新しい王女さま〉だってことを知らなければ、ウィセルは……。
わたしのことを、〈銀月姫〉って、呼ばないでいてくれるかな?
最期まで、名乗らなかった。
彼には、嘘の名前で呼んで欲しくなかったから。
「――― 明日も来るのか?」
別れ際に、始めてそう訊ねられた時。
すごく、嬉しかった。
堪え切れなくなった気持ちが、笑い声になって空気に溶けていく。
「じゃあ、またね。ウィセル」
――― また。
――― 会えるから。
だから、この手をあなたに振ることが出来た。
ウィード・セルは、絶対に知らない。
再会の夜、彼女の胸の内にあった歓びを。
「わたしが当代の〈銀月姫〉よ。よろしくね、悪い魔法使いさん」
「あ、お、俺は――――」
「知ってるわ」
知ってる。
ずっと、
ずーっと、知っていたわ。




