20. 女王さまの暇つぶしと、魔法使いの弟子入り。
午後の温かな光がレース越しに届く、のどかな昼下がり。
春の陽気は麗らかで、程良く温まった室内の気温と昼食後の満腹感が、何とも眠気を誘う時刻だ。
だが、村の一角に建つ洋服店『ベル・ローズ』の一室――― 自称看板娘のマルティナが〈大王の法廷〉と呼び為すカルツの検品部屋では、呼吸すら憚られるような緊張が張り詰めていた。
「………」
「………ふむ」
年代物らしき、大きな木製のテーブルの前。
両手に広げた空色の布地に目線を落していたカルツが、何かに納得するように小さく頷く。
細められた、もともと細い吊り気味の糸目。もはや本当に開いているのかというレベルにも思えるが、手元に向けられた眼光は鋭い。
「………うーむ」
「………」
確かめるように、するりと指でなぞられた刺繍の一片。
白い糸で施したそれを視線で追うカルツの口がヘの字に曲げられた瞬間、ウィード・セルは大きく唾を呑み込んだ。
「……どうだ?」
商品の最終検品。
中でも、いまカルツが手にしているのは、裁断から縫製までをウィード・セルが一人で担った品だった。デザインや型紙はもとから用意されていたものだが、装飾は好きなように弄ってもいいと言われている。
この工房に攫われて――― もとい仕事を初めて、今日でちょうど5日目になるだろうか。早朝から深夜まで、全開でこき使われたので、なんだかもっと長くここに居たような気分がしないでもないけれど。
この間に手掛けた商品点数は、途中でめんどくさくなって数えるのを止めてしまった。だが、いま目の前にあるこのドレスは、その中でも間違いなく最高の部類に入るであろうと自負している。
どんな評価が下されるのか。
ついにドレスが台の上に下ろされた瞬間、さあ来い、とばかりに身を乗り出してしまったウィード・セルの意気込みとは裏腹に、カルツはどっかりと椅子に背を預けて、呑気に目頭を指でほぐし始めた。
どうせ嬉々として、あのやたら陽気な口調で慇懃無礼に批評を始めるのだろう。そう踏んでいたために、肩すかしを食らう。
「なあ、どうなんだよ」
しばし沈黙が続いたため、痺れを切らしたウィード・セルは、思い切ってカルツに訊いてみた。
「…………」
「な、なんだよ」
目元に遣ったままの手の陰から、ちらりと、上目遣いに寄越された視線。
彼の口元はいつものように薄い笑みを浮かべているのに、細められた瞼から覗く赤い瞳がいつになく真剣味を帯びているように見え、ウィード・セルは尻込みしながら、乗り出していた身体を後ろに引いた。
「――― 時にだけど」
ようやく、そう切り出したカルツが、赤い布張りの大きな椅子から立ち上がる。彼はそのまま言葉を続けず、背後の壁に作り付けられた棚の方へと歩き始めた。
やがて、両手に乗るほどの軽そうな紙包みを棚から取り出し、再びこちらに戻って来ると、そっとそれを台の上に置き、こちらに差し出してくる。
「これ、マリカさんからお預かりしていた洋服。無事に染み抜き作業を終えたので、お返しするよ」
確認を、と勧められたので、そういえばそんなものもあったなと、ウィード・セルは受け取った包みを開いた。
最後に見たとき、草の汁や泥に塗れていた服は、見事に純白を取り戻していた。
糸が緩みかけていたはずのボタンもきちんと付け替えられているため、きちんと手を入れてあることも分かる。文句なくいい仕事だ。
「ウィセル君」
服を裏返しながら状態を確かめていたウィード・セルに、カルツが問う。
「なぜ、俺が君に、この店に来て貰ったか分かるかな?」
台に片手を突き、にっこりと笑う彼をいぶかしんで、ウィード・セルは眉を顰めた。
――― ここに連れて来られた理由。
思い当たることがないどころか、今まで考えたことも無かった。
それを見取ってか、仮面のような笑みを湛えたままのカルツが、芝居がかった口調で二つの単語を歌い挙げる。
「〈レングの樹液〉と〈サリエ石の粉〉」
「は?」
「君が、その洋服の染み抜きに必要だと、俺の父に用意させた材料だよ。覚えてるだろう?」
「そりゃ……でも、それがどうしたって言うんだ」
ますます訳が分からないと首を捻るウィード・セルを見て、カルツは小さな笑い声を立てた。
「その洋服の生地、使っているのは月樹布だね。工芸技術の高さで知られるカシューヴァが、今季発表したばかりの新布だよ。まだ全くと言っていいほど出回っていない、貴重な布でね? 月樹の繊維を紡ぐには特殊な魔法陣と溶液が必要で、製法はまだどこにも知れ渡っていない」
「…………」
「布の成分や構造が分からないから、もちろん扱いも不明。俺自身、実際に手にしたのはそれが初めてなんだ。だからね、俺は――――」
鋭い赤が、ウィード・セルの見開かれた黒を射抜く。
「迷いなく、生地を傷めることない素材を挙げ、的確な洗浄の方法まで提示したという君に、ひどく興味を引かれたんだよ」
+ + + + + + +
――― このままじゃ、あんたは死んじゃうよ?
ここが、先にね、と人差し指でウィード・セルの胸元を押しながら、彼女はそう予言した。
「ウィセル」
どれくらい、女と向き合っていただろう。
自分を呼ぶ声――― 彼を仇名で呼ぶ唯一のひとが、植え木の間から姿を見せた瞬間、ウィード・セルは安堵で全身から力が抜けていくのを感じた。
「ルーシスおじさんっ」
情けなく揺れる声で、縋るように名を呼ぶ。
ウィード・セルと同じ黒髪黒眼を持つ彼は、合成獣に追い詰められた野ウサギの如き甥の状況に目を見張ったあと、女に向けて困ったように微笑んだ。
「ユレナ。僕の可愛い甥っ子をあまり苛めないでって、お願いしただろう?」
「そうだったっけ? 忘れちゃったー」
女は、ウィード・セルの顔の真横、彼の背後の石を蹴り上げていた足を下ろして、白々しく肩を竦める。
影の檻から解放されたウィード・セルは、弾けた様に女のもとから離れ、叔父の胸に抱きついた。
「怖かったね。大丈夫、ウィセル?」
あやしながら撫でてくれるルーシスの肩に頬をくっ付けたまま、ウィード・セルは頷きを返した。
両親を早くに亡くしたウィード・セルにとっても、父の弟であるルース・シスにとっても、互いが唯一の家族。
国中に散った、十人にも満たないヴォロンディ一族の絆は固いが、同じ王宮で共に暮らしている叔父は特別だ。
「ちょっと、ルース・シス」
軽く苛立った女の声で我に返る。
「あんたがそうやって甘やかすから、そいつ、甘甘なガキんちょになっちゃってんじゃないの?」
腕を組んだ女に半眼で見下ろされ、ウィード・セルはビクリとしながら叔父の服を強く握った。
「ちょっと窮屈な立ち位置にいるからって、猫っ可愛がりすりゃいいってもんじゃないだろ。ビシバシ躾けろよ、ビシバシと」
「うーん。そう言われると、痛いなぁ」
はは、と力なく笑み崩れた叔父の顔。
「……ねえ、ルーシスおじさん」
「なんだい、ウィセル」
「このおとこおんな、おじさんのしってるひとなの?」
「うん、そうだよ」
恐るおそる訊ねた甥ににこりと返したルース・シスは、続けて世にも怖ろしいことを口にした。
「彼女はユレナ。僕の古い知り合いでね。一応、異国の王女なんだけど、いまはこの国に留学生として滞在してるんだ。こんな性格だけど、洋服作りの腕は確かなんだよ? だから、君の手芸の先生になって貰おうと思って」
「おい、一応とかこんなとかとは何だよ」
仮にも一国の王女だぞ! と憤慨あそばしているユレナ姫をスルーした叔父は、目を点にしたままのウィード・セルを地面に下ろし、肩に手を置いてくるりと身体を反転させた。
何で叔父さんが手芸の事を知ってるんだとか、どうしてここで練習してたことがバレてたんだとか、そういう突っ込みを入れる隙もなく。
必然的に向き合うことになったユレナに怯む甥を余所に、ルース・シスは、
「ウチの子をよろしくね」
己ともども、ウィード・セルの頭を下げさせた。
礼をとったルース・シスの姿を目にしたユレナは、驚いた表情で双眸を瞬かせる。
「ふぅん。あんたが、例え他国のとはいえ、王族のあたしに頭を下げるなんてね。そんなに、その子のことが大事なんだ?」
「まぁね」
「“あの子”より?」
「……比べられるものじゃないよ」
「だろうね。……まぁ、いい。思いのほか筋が良さそうだし、退屈しのぎにはなるかもな」
「へ?」
ひとり話に置いてけぼりを食らっているウィード・セルは、んーッ、と機嫌良さげに伸びをしたユレナを、呆然とした面持ちで凝視した。
「お、おまえ、ほんとうにおれにしゅげいをおしえるきかよ」
「ああ、やってやるよ。ただし、“裁縫”を、だ。趣味で納まる手芸は教えない」
引き気味に訊いた幼子に、突然現れた師となる女はカラリした笑みでもって応え、あとな、と続けて言った。
「その“お前”っていう言い方は改めな。すっごい失礼だ。あたしにだけじゃなく、他の人間に対してもその言葉は使わないこと。それが、教える条件だ」
「“あんた”っていうよびかたはいいのかよ!?」
「お前って言い方よりは、エレガントだろうが」
そうだろうか……。でも、自信満々に胸を張って言われると、そういう気がしなくもないような。
ぐるぐると惑わされているウィード・セルの頭を撫でつつ、ルース・シスが、あまり苛めないでって言ったろう?と、ユレナに向けて苦笑した。
「報酬はどうしようか?」
「ああ、要らないよ。趣味の延長みたいなもんだし、あたしも暇だし」
「悪いなぁ、君ほどの腕の持ち主にお願いしてるのに。ほんとにいいのかい?」
「ああ。ただし、な――― おい、ガキんちょ」
呼ばれて顔を上げる。
するとそこには、あんたこそが悪ガキだろう、と突っ込みたくなるような満面の笑みが湛えられていた。
「先に言っておくが、あたしは大人気ないからな」
ひどく愉快そうに、そう宣言した女こと“師匠”。
後に、〈文化と芸術の郷〉と謳われる彼の大国で、女王として君臨することとなる女との、あれが最初の出会いだった。




