09. 眠り姫と、おひさまのベット。
鳥の囀りが聞こえる。
荷馬車の車輪が路に轍を刻み、行き交う音。
どこかで水を汲む音や、遠くで誰がが笑い合う声も。
頬に当たる空気はまだ冷たいけれど、薄い生地で出来たカーテン越しに差し込む光がほんのり暖かい。
(ああ、もう朝か……)
ウィード・セルは微睡みながら、大きく息を吸い込んだ。
久々の寝台、愛しの布団。
ふわふわと軽い羽布団が心地良すぎて、追われる身だというのに、つい熟睡してしまった。
(しあわせだー ……)
目を閉じたまま、白いシーツから香るお日様の匂いを、胸いっぱいに吸い込む。
……あったかい。
優しい金色の、温かい匂いがする。
香りに浸りつつ口元を緩ませながら、ウィード・セルは昨夜会ったばかりの、この宿屋を営む若い夫婦の姿を夢心地に思い起こした。
薄茶色の短髪をくしゃくしゃにした背の高い男と、おっとりとした丸顔の優しげな女。
夜遅くに訪れたにも関わらず、あの人の良さそうな夫婦は、にこにことしながら快くウィード・セルたちを受け入れてくれた。
宿も、森の村にあるので建物自体はあまり大きくないのだが、その分隅々まで手入れが行き届いており、家主の愛情を感じられるどこか家庭的な温かみを持っている。
たしか、寝台の横の飾台には、素朴な切り花も飾られていたはずだ。客が入っていない部屋にも、毎日きちんと手を入れているのだろう。
もしかしたらこのシーツも、晴れた日にはいつも日に当てているのかも。
そう思うと、無性に幸せな気持ちになった。
(もう少しくらい、いいよな)
心地よいぬくもり。
抗いがたい睡魔の誘惑に、ウィード・セルは身を委ねることにした。
少し大きめの抱き枕を抱え直し、ぎゅっと顔を押し付ける。
あー、柔らかくて気持ちいい。
……あれ……でも、この寝台に抱き枕なんてあったっけ?
それに、なんだか頬に当たる部分が、やたらケモケモしてしてるような………。
「……ん、くるし…………」
肩の辺りで洩らされた声。
え、苦しい?
枕が、なんで?
というか、この枕、なんだか温かすぎやしないか?
それに、さっきから妙に存在感のある枕の出っ張りが、胸元に当たっているような気も……。
だんだんと働き始める脳。
朝っぱらから、そこはかとなく嫌な予感がする。
怖い。
怖くて、目が開けられない!
そうした状態でぐるぐると解決策を模索した結果、あとほんの少しだけ残っている睡魔を総動員して、無理やり眠ろうという結論に達した。
起きる時間を先延ばしにしても、何の回避にもならないことは重々承知しているのだが……自分からこの状況を治めるために行動を起こす勇気が出ない。
下手な手を打って出てこの抱き枕(?)を刺激すれば、永遠の眠りにつかされてしまう。
(よし! 寝るぞ)
気合いを入れ直し、改めて眠ろうとしたその時。
ふぁっと、首の素肌を撫でた甘やかな吐息の感触でで、純情な少年の意識は完全に覚醒した。
「なっ――――――― なあぁああぁぁあぁぁ!!!????」
なんてことするんだ、と叫びたかったのだが、残念ながら言葉にならなかった。
瞼を開けた瞬間、眼前に広がったのは、艶やかな紅が所々に散った銀色と、まろやかな白い肌。
視認し、明らかにそれが何であるかを理解すると同時に、全身から嫌な汗が吹いた。
ウィード・セル本人は全く気が付いていないが、呼吸のリズムもおかしくなっている。
(な、なな何で、コイツがここにいるんだよッ)
清潔な白いシーツで覆われた寝台の上。
同じ上掛けに包まり、横向きに転がった体制で正面から抱き締めていたのは、決して枕などではなく。
「んぅ……うるさい………」
あったか抱き枕――― もといマリー・ベルは、もぞもぞと身じろきしながら、寝ぼけた声で文句を言った。
……文句を言いたいのはこっちの方だ。
視線だけを巡らせて確認すれば、ここはやはり、昨夜ウィード・セルに与えられた寝台の上。
王女が占領した寝台は、今彼が背にしている衝立の向こうにあるはずなのだ。なのに、どうしてこちら側に? というか、いつの間に!?
廻らせていた視線を、恐る恐る腕の中の少女に戻す。
そして、覗き込んだ貌の中、迷惑そうに、微かに寄せられた眉根の動きに気付き、やばっと息を呑んだ。
また、怒り狂うか!?
ウィード・セルはびくびくしながら、彼女を注意深く見据えた。
鉄拳か、はたまた蹴りか。
どちらにせよ、目覚めれば間違いなく飛んでくるであろうことは必至。
襲い来る狂拳をかわすべく、ウィード・セルは素早く身がまえ、成り行きを見守りに入った。
……だが、どうやら杞憂で済んだようで。
息を詰めて観察し続けていたウィード・セルは、安全は確保されたと見なし、大きく安堵の息を吐いた。
眠れる王女さまが起き出す気配は、今のところみられない。
それどころか、静かになったと満足でもしたのか、表情を緩め、くったりと頭を彼の肩口に預けたまま、新たな寝息を立て始めている。
先ほどの自分の慌て振りを思い返しつつ、目の前のお姫様の呑気さをそれと比較してみた。
……何だろう、急激にイラッとしてきた。
「………おい」
恐ろしくも、長時間彼女を抱きしめていたらしき、自分の両腕。
その左腕だけを注意深くそろりと引き剥がし、ウィード・セルは軽く彼女の肩を揺さぶった。
(起きろってば! おーきーろ――ッ!!)
ゆさゆさと、でも乱暴にすると後が怖いので、あくまで慎重に。
手加減し過ぎたのか、はたまたそれほど彼女の眠りが深かったのか。いくら揺さぶっても、マリー・ベルは起きる気配を一向に見せなかった。
全く以って、信じられない。
そうしている間にも、彼女を抱き込むために回されていた腕のうち、右の腕の方は未だ彼女の身体に敷かれているわけで。
「あー、もう……勘弁してくれよ…………」
もう、いろいろ大変過ぎて、泣いてしまいそうだ。
ほんとうに、意識するまでは何も感じなかったというのに。
温かな眠りに染まった、桃色の頬。
微かに開いた薔薇色の唇。
紅と銀の髪に縁取られた美しい貌に、起きているときに見せる可愛げのない表情はなく、今はただ、無垢な幼子のような眠りがあるだけで。
ほんとうに。
ただ、ひたすらに。
(……かわいい…………)
しばらく彼女の寝顔を眺めていたうちに、ぽっ、と頭に浮かんだその単語。
自分の中でその意味を咀嚼し、自覚したところではっと我に返り、ウィード・セルはひとり慄いた。
青くなり赤くなり、そしてまた青くなり、と目まぐるしく顔色を変えながら、
「そんなわけないだろ、そんなわけないそんなわけないそんなわけない~」
極小の声量で、闇魔術の呪文を繰り返し唱えるように呟きつつ、自分の意識の軌道修正を行い続ける。
かわいいって、なんだよ。
この、悪魔のような女がか?
こいつは、初対面の人間に呪いをかけるような、とんでもない女王様、じゃなくて、王女様だぞ!?
それに、出会ってから今現在までの彼女の言動。
それこそ、“かわいらしい”という言葉を持ってして表現されるべき存在とは、対極に位置する物体であるように思う。推論ではなく、確信だ。
――― でも。
ただ眠っているマリー・ベルの表情には、何の邪気も感じられなくて。
無防備に、されるがままに抱き寄せられている華奢な身体。下敷きになっている腕や、触れ合っている部分から直に感じられるその肢体は、信じられないくらいに柔らかで。
女の子という生き物が皆こうなのか、それとも彼女が特別なのか。
そんなこと、この歳になるまで恋愛経験のないウィード・セルには分からないけれど……。
(……こいつ、こんなに頼りない身体してるんだ…………)
小さい奴だなとはいつも思っていたけれど、こんなに細くてふにゃふにゃしてるなんて知らなかった。
胸を張り、無駄に意思の強そうな目で見つめてくる姿しか知らないせいだろうか。
目覚めているときのマリー・ベルは、綺麗だけど「やたら強い女の子」という印象が強くて。
(そういや、女の子……なんだもんな)
すっかり忘れかけていた。
こいつが、ウィード・セルが知る誰よりも真っ直ぐに立っているから。
この娘が、自分と同じほんの16歳の少女で、本当はか弱くて頼りない存在なのだと。
かなり強気で乱暴者だけれど、その容れモノは、傷つきやすくてとても脆いはずなのだと。
あどけなく眠る、腕の中の女の子。
“これは、自分とは全く違う生き物なのだ。”
それを、これまでとは違った意味で改めて認識すると、何故だかわからないが、心臓が痛いほど鼓動を打ち始めた。
彼女に触れている部分を中心に、全身がひどく熱い。きっと顔だけでなく、耳まで真っ赤になっているだろう。
(早く、離れないと)
……まずい。
何か起こる前に、いや、自分が仕出かしてしまう前に、この体勢をどうにかしなければ。
本能的に悟り、勇気を振り絞ってマリー・ベルを起こそうとした、その時。
「……ま……」
「え?」
「………ぃちゃ……ま………」
ウィード・セルのすぐ目の前、吐息が触れるほどの距離で、眠りに染まった花びらのような唇が、何事かを紡ぐ。
それは、ほんの小さな声で、何を言ったのかまでは聞き取れなかったけれど。
「………おい」
少女の艶やかな白い頬。その表面に、目尻から溢れた透明な雫が筋を描いてゆくのを間近に、ウィード・セルは言葉を失った。
――― 涙。
これまでに、怒った顔や笑った顔――― 主に勝ち誇った笑顔だが―――は散々見せられてきたが、泣き顔は目にしたことがない。
どんな夢をみているのか。
相変わらず無垢な寝顔を晒しているにも関わらず、肌の上を次々と流れおちていく涙。
うなされてはいないから、苦しかったり悲しかったりする夢ではないのだろうが。
「ちょっと、おい」
揺さぶっていた肩から、左手を放す。
「あー、もう……泣くなよ」
上手いやり方なんて分からないけれど。
躊躇いつつも、ウィード・セルはそのままその手を彼女の背中に回し、ぎこちない手つきで撫で始めた。
ふるり、と一瞬だけ振るえた身体。だが、拒絶の色はない。
それを宥めつつも、今こうして王女をあやしている自分が信じられず、内心ひどく戸惑う。
(何やってるんだよ、俺は……)
なんだって、朝っぱらからこんなことを。
そもそも、なんで彼女が自分の寝台にいるのかも分からないし。
生まれて初めての「女の子をなぐさめる」という高難易度イベントに直面し、動揺を抑えられないでいる自分にイラつきながらも、放っておくという選択肢を選ぶことも出来ない。それが、また悔しい。
そして、そんな少年の繊細な心臓に追い打ちをかけるように、
「……ん……」
「げっ」
緩やかな瞬きのあと、王女の瞼がそっと持ち上げられた。
銀色に染め上げられているらしき長い睫毛の下からのぞいた、澄んだ瞳。
目が、合う。
まだ眠りの気配を色濃く纏った瞳と、表情を動かすことすら赦されないほどの至近距離で見つめ合うはめになり、ウィード・セルは呼吸すら忘れた。
間近で見る、空色の瞳。
初めてまともに見たその虹彩に、薄く烟る桃色の虹彩があることを初めて知る。
どれくらい、そうしていただろう。
瞬けば音が立ちそうな睫毛が、1度、2度。
ゆっくりと繰り返された瞬きに、緊張と慄きで喉の奥がひく付いた。
(……起き、ちゃったか?)
乙女の寝台を穢したわねー! とか何とか怒号を上げつつ、お嫁にいくときの憂いを消す為に口を封じようと謀るマリー・ベルの姿が、リアルに頭に浮かぶ。
(逃げられるか? ………いや、やっぱ無理かも)
大きな悲壮感に包まれながら、でも、一発くらいは殴られても仕方ないかと、わりとあっさりとウィード・セルは諦めた。
反射的にそう答えを叩きだしてしまうあたりが、すっかり王女の行動に慣らされてきた証拠だという自覚は、本人に全く無い。
(殴るなら殴るで、さっさと済ませてくれ!)
むしろ意気込みつつ、衝撃に備えて奥歯を固く噛締めた。
だが、ウィード・セルのその覚悟とは裏腹に、向けられたのは驚きでも怒りでもなく、純粋な笑顔だった。
「へ?」
我ながら、間抜けな声が出たと思った。
柔らかくて小さな花の蕾がほころぶ、そんな印象の、あどけない可愛らしい笑顔。
あっけに取られて言葉も継げないウィード・セルを余所に、微笑を浮かべた王女は再びとろりとろりと瞼を降ろしつつ、腕を伸ばしてきた。
きゅっ、と背中で服を握られた感触。
「――――っっ!!???」
ウィード・セルが声を呑みこんだ直後、まるで幼子が甘えるように抱きつかれた。
どうやら、未だ覚醒とはいかぬ状態で微睡んでいるようだ。
しばらくはもぞもぞと動いていたが、やがて居心地の良い場所を見つけたのか大人しくなり、寝息を立て始める。隙間なくぴったりと寄り添った身体から、彼女の呼吸ひとつひとつが直に感じられる。
「………」
幸せそうに眠る姿。
どくどくと煩い血潮の流れを聞きながら目を離せないでいると、ふと、木綿の夜着を身につけている 彼女の胸元のリボンが緩んでいることに、気付かなければいいのに気付いてしまった。
当然、覗き込む位置から見ている以上、その肌蹴た夜着の中も見えてしまっているわけで……。
目覚めて以来ずっと意識していた、自分の胸板に当たっている“格別に柔らかい何か”。その正体を知り、全身の血が沸騰したのではないかと思ってしまうほど、体温が上昇したのを感じた。
いいかげん、頭がおかしくなりそうだ。
自分でもそう思うくらいで、息をするのだって難しいというのに……それをもたらした張本人が、すやすやと健やかな寝息を立てているのを見て、ウィード・セルの中で何かが切れた。
ひとりでに動く、手。
彼の肩口にうずめ隠れるように凭れていた頭の、その柔らかい頬の輪郭に片手を添え、上を向かせる。
仰向いた御伽噺の精霊を想わせる美しい貌のなか、ほころんだ口元は、いまだに微かな笑みを湛えていた。
春の花色をした唇。
珠のようにつややかで、でも、触れれきっと柔らかいに違いない。
見つめていると、昨夜見た庭の花園を思い出す。
得も言われぬ甘やかな空気に満たされていた、あの夜の園。
この唇も、そんな味がするのだろうか?
そんなことを麻痺した思考の片隅で思ったときには、無意識に、己の唇を寄せていた。
きっと目覚めれば激怒するだろうけど、それでも別に構わない。
いまは、どうしても止められない。
起きない、こいつが悪い。
近付く人の熱と、顔に触れる吐息。
あと、もう少し。
そう思い、目を閉じて自らの顔を傾けた、その時。
「ぴきゃっ」
奇妙な鳴き声がすると同時に、べし、と両の頬に生温かいものが押しつけられた。
つるつるフニフニしているのに、先端に小さな尖りを幾つも持った、それ。
恐る恐る目を開いてみれば、そこにあったのは、案の定、“あの生き物”の両脚だった。
(あー……そういや、こいつもいたんだっけ)
すっかり忘れていた。
……ああ、そうだ。
こいつが、親友(王女談)たるマリー・ベルの乙女のピンチを、黙って見過ごすはずはない。
「ぴーきゃーッ!」
この痴漢オトコ!
という意味だったのかどうかは定かでない。
だが、明らかに怒り狂った様子のアマダは、親友の唇を護るべくウィード・セルの頬に押し当てて突っぱねていた両腕を、その鋭い爪を立てたまま、ギリリと真っ直ぐに引き下ろした。




