3話目
「起きて、起きてください」
薪がくべられた暖炉の前、リビングのソファで横たわっていると、ユイに起こされた。
寝惚けた頭で窓から差し込む陽の色を見る。
焼けるような橙色。それは夕焼けのそれだ。
時は既に夕刻。実に不味い。
今日一日だけは退廃的に過ごしてはならなかったというのに。
「ユイ、お前は神に祈りを捧ぐか?」
「ええ」
俺自身、特定の宗教を信奉している訳ではない。信奉する物を強いて挙げるならば泥臭い人間の思想だろうか。自己中心的な物の考え方も時には悪くない。
そしてこんな時だけ神頼みをする。明日が締め切りの仕事が期限に間に合いますようにと。
「これから仕事部屋に篭る。自分の事は自分でできるな?」
夕飯を作る余裕もない。ユイには悪いが自分で用意してもらうか我慢してもらう事になる。
「できますよそれぐらい。台所は勝手に使わせてもらいますよ?」
「ああ、すまない」
俺は誰かによって掛けられた毛布を無造作にソファの上へ置き、仕事部屋へと急いだ。
寒さなど気にすることなく仕事部屋の机に向き合った。
依頼は新聞の片隅に載せる為だけの短編小説を明日までに書き上げ、街の新聞社まで届けること。
締め切りを守ることが取り柄だというのに。
机の上に整理された書きかけの小説が綴られた数枚の紙と設定の手書きされた紙に一度だけ目を通す。
現状を把握。それと同時に過去の仕事熱心な自分に感謝した。
徹夜すれば明日までに終わらない量じゃない。
冷えた部屋の中で思考を泳がせる。
これから書くべきことを直感と感覚で頭の中に並べた後に、それらを型にはめて構築していく。
「よし」
俺は指の関節を小気味よく鳴らした。
書き始めてから数時間が経った。日はとうの昔に暮れた。
腹が空腹を訴えているが、それすらも心地良いと思える程度に手と頭だけが動いている。
ユイは今頃どうしているだろうか。普通の子供であれば既に寝ている時間の筈だ。ちゃんと寝ているだろうか。
俺が誰かの事を気遣う。そんな事はここがしばらく無かったから、酷く新鮮に感じた。
一度欠けた集中力は容赦無く放散する。
筆が止まってしまった。
そして筆が止まるのを待ち構えていたかのようなタイミングで部屋の扉がノックされた。
「あの、お腹空いてませんか?」
扉の向こう側から声が聞こえる。邪魔をしてしまっているのかもしれないと不安の篭った声だ。
「助かる」
茹でた卵とポテトを潰し合わせた物の風味を胡椒で整え、それをパンで挟んだ物と飲み物が部屋に運び込まれた。
寝巻き姿のユイが新鮮だと思った。
何かを新鮮だと感じる事の連続。それは惰性に囚われていた人間にとっての日常の時間を引き延ばす。時間の流れる速さは一定ではない。それが引き伸ばされる事は寿命が延びるような物だ。
「この匂いは……」
心地良い香りが部屋に満ちる。匂いの元は湯気をあげるカップの中の飲み物だと察する。
「良い匂いですよね」
二つのカップの中にはハーブティーが注がれていた。ハーブなんてものは我が家に無かった筈だが。
「なんていう種類だ?」
この手の婦人方が好みそうな趣味は持ち合わせていない。
「マイルドティーなんですけど、ローズマリーとタイム、ペパーミントをそれぞれの半分だけ混ぜた物です。気分転換したい時だったり、集中力が途切れそうな時に良いらしいです」
「そうか」
ユイからカップを受け取り、口に含む。ほど良く刺激的な香りが鼻を通った。確かに良い気分転換になる。
「ここに居ても良いですか?」
自分用のカップで手を温めながらユイは尋ねる。その様子は小動物を思わせた。
「一人だと心細いのか?」
口角を上げながら問い返す。
良家の娘と思われるユイにとってこの薄暗い家の一室に一人というのは辛いものがあるのだろうか。
「寝付けないだけです。寂しくなんかは」
冗談か本気かユイは少しだけ機嫌の悪そうな顔で否定した。
「添い寝でもしてやろうか」
「出るとこへ出ましょうか」
ほんの冗談だというのに、ユイは両手首を縄で縛るジェスチャーをした。
「冗談だ」
言いながらパンを口にする。美味い。
「それはそうと、なにか手伝える事はありませんか? 夕方の様子だと急いでいたみたいですけど」
「もう少し加筆すればあとは見直しだけだな」
新聞社の人間に校正させるのも良いが、最低限自分で見直した原稿を載せたい。俺の小さなこだわりだ。
「お手伝いぐらいならできます。これでも読書好きなんですから」
見直しをユイに任せて良い物か。今、書いてる物に限定して言えばこれは娯楽小説ではない。読み手の意識しない所に俺の意図を含ませて書かれている物だ。一見無駄かとも思える一文が読み手の作品の良し悪しを嗅ぎ分ける優れた嗅覚に作用する事もある。
読者はどうしてそれが面白いのかの理論的な説明はできなくても、面白い面白くないを嗅ぎ分ける嗅覚だけは十二分に優れている。
ここは感想を聞くだけに留まろう。
「読みたいのか? 手伝いたいのか?」
「正直、お手伝いよりも読んでみたいっていうのが大きいですね」
ユイはあっさりと本音を吐露した。
「なら読んでみるか?」
相手が何者であれ自分の書いた物が人の目に触れるという事は喜ばしい。
俺は机の上に纏められた紙をユイに手渡す。
「じゃあ、読ませて貰いますね」
寝る前に本を読むとほど良い眠気に襲われるという話を聞いたことがある。もしもユイが眠ってしまったら部屋に連れて行ってやろう。
ユイを追う追っ手のことなんかは後々に考えれば良い。一人の少女が我が家に身を寄せているなんてことは誰も思わないに違いない。
「どうかしましたか?」
急に尋ねられた。不穏当な事を考えていたのが顔に出ていたのだろうか。
「いや、卵の殻がな」
咄嗟に嘘を吐く。潰された卵の中に殻など混ざっていない。
「す、すいません」
ユイは嘘を信じ、謝る。
申し訳ないことをしたかもしれない。そんな思いすら言葉にしない。
それをきっかけにした気まずい沈黙から、俺とユイはそれぞれの作業に没頭した。
お互いが自らの腹の中にお互いへの思いを孕ませながら、一つの空間を共有する。一見、一枚の絵にでもなりそうな完成された一場面のようにも見えるが、本人達、少なくとも俺は心中穏やかではなかった。
「シンの作るお話、私は好きです」
ユイが俺が過去に書いた物を含めた数作品を切りよく読み終えた直後、そんな事を言った。
既に窓からは日が差し、鳥のさえずりが聞こえてくる。
「変わってるな」
書き終えた原稿を封筒に詰める作業をしながら言葉を返す。
喜びは素直に言い表せない。知らない感情が喜び以上に沸いてしまうのだ。
「なんですかそれは……」
ユイは冗談吐きな大人に出会った子供のような目を向けてくる。
「お前の趣味が変わっているかどうかはともかく、今日はこのままこれを渡しに街へ行く。付いてくるか?」
本当に追っ手に追われている身であれば、遠慮したがる筈だ。本当に追っ手に追われているかの確認の意味も持たせて尋ねる。
「……街は人も多いでしょうし、少し眠りたいので遠慮します」
ユイは少し思案をした後に眼を擦りながら答えた。
「なら、行ってくる」
俺は外套を手に取り、部屋を後にする。
街へ向かうまでの道すがら、また変な拾い物をしないように気を付けようと心の中で呟いた。