2話
少女と一緒に我が家へ着いた時には完全に日も暮れていた。
「温かい物を頂けないでしょうか」
冷えたのか少女はソファの上で毛布に包まりながらそんなことを言う。
「そんなものはまだ出せないな。何事も働いてからだ」
まだ荷物すらも片付けていないというのにくつろぐ訳にはいかない。
幸い、我が家は狭くない。部屋数もそれなりにあるし、庭も自分が食べるための野菜を収穫できる程度には広い。少女のための部屋を用意できないこともない。
「そうですか。それにしても良い感じにレトロな家ですね」
少女は軽く散らかった部屋、薄黒くなった天井や触れれば手に埃が付着しそうな壁を見回しながら言う。この一人で住むには大き過ぎる家は元々、祖父が文化に携わる人間を支援する為に建てたものらしい。
「古い建物だからな。俺を頼ったことを後悔してるか」
年の若い子供というのは古ぼけた物を嫌うものだと。
「いいえ。むしろ張り切ってます」
「張り切る、か。まあ良い、部屋を選ぶぞ。付いて来い」
「は、はい」
少女は自分の荷物の重さに難儀しているが、決して手伝わない。甘やかす気は毛頭ないのだ。
雪で反射した月明かりのお陰で室内は明るい。蝋燭も油も持たずに空き部屋の並ぶ一角を目指した。
「ここが俺の寝室だ。隣室の仕事部屋へは中からも移動できるようになっている」
空き部屋までの道すがら、家の中を案内する。
「仕事は何をしているんですか?」
少女は当然の疑問を投げかけた。
「俺が仕事部屋に居る間、騒がしくしなければ何の問題もない」
「あの、仕事は何を」
「物を書いている。お前の仕事の事だったら俺の身の回りの世話ぐらいに思っていてくれて良い」
舞台の脚本や小説、依頼は色々だ。
「作家さん、ですか」
「とにかく今は部屋だ」
俺はそう言って話を切り上げ、寝室の前を通り過ぎた。
「この部屋は?」
歩き出してすぐ、少女は俺の寝室の隣にある一室の扉の前で足を止めた。
「そこは、たしか」
少女が足を止めた部屋は俺の前の代のこの家の主であった絵描きが仕事場にしていた部屋だと記憶している。その絵描きが使っていた画材がそのまま残ってる筈だ。
「部屋が近ければ身の回りの世話も少しは楽ですし、この部屋が良いです」
少女は部屋の扉を開いた。塗料の独特な臭いが鼻腔を襲う。白金のような髪のかかった肩が僅かに震えた。
「良いのか?」
もし俺が居候先でこんな部屋を宛がわれたなら主人に文句を言わずにはいられない。
「か、構いません。掃除とかは勝手にしても良いですよね」
「ああ。片付けるついでに古い所とか気に入らない所、画材も好きにしてくれて構わない」
甘やかす気は無いが、わざわざ苦労をさせるような気も無い。
「よし、頑張ろ」
少女は袖を捲くり部屋の中の掃除に取り掛かった。既に夜だが騒音に気を遣わなければならないような立地ではない。好きにさせよう。
「暖かい物でも作るか」
俺自身、空きっ腹で寝るのはごめんだ。
次の日の朝、俺が起きると少女は姿を消していた。
昨日に片付け損ねた筈の食器も元の位置に戻っている。少女が包まった毛布もきちんと折り畳まれている。何かを盗まれた様子もない。
昨日の全ては夢だったか。現実を知覚する為に外出した筈だったけれど、それすらも空想だったか。
少しだけ気を落としながら朝の習慣をこなしていく。
家の外に出ると、溶けた雪で地面はぬかるんでいた。冷気で眠気を覚ます為に暫く玄関の前で佇む。次第に頭は冴えていった。昨日の記憶の中の感覚は決して空想のものなどではなく現実のものであった。
では、あの白髪の少女の姿はどこに消えたのか。声を出して探すにしても名を知らない。
背後で玄関の扉が年季の入った音をあげるのが聞こえた。振り向く事をせずに声を掛けられるのを待ったが中々声は掛けられない。
「お、おはようございます。昨晩の内に部屋の整理をしておきました。貴方の使い易いような配置になっていたでしょうから、昨日私がここに来た時から変化した物だけですが」
振り向くと少女が居た、それにしても随分と器用な事をするものだ。
「そうか。飯にしよう」
昨日の事を空想だったと勘違いしていたことを悟られる訳にもいかないので、俺は素知らぬ顔で家の中に逃げ帰った。
俺が朝食の用意をしている間、少女はじっと俺の様子を見詰めていた。
「手際、良いですね」
「慣れだ」
実際、一人で生活していればこの程度の事は自然とできるようになるだろう。
「そうですか」
気心の知れていない相手との沈黙には気まずいものがある。
会話を弾ませるにはまず相手を知ることからだ。
「名前、なんていうんだ」
俺から歩み寄る事に若干の抵抗を感じながらも質問をした。
「ユイです」
姓を伏せたのは誰かに追われているということと明らかに高貴な身元の事に関係してだろう。
「そうか」
わざわざ姓を聞く必要もない。呼称としての記号が機能すれば問題無いのだ。
「名前、なんていうんですか?」
「教えて欲しいのか?」
冗談っぽく問い返してみる。
「い、いえ、そういう訳では。ですがやはり不便ですし」
「雑用が仕事なんだ。ご主人様とでも呼ぶか?」
「貴方は馬鹿ですか……」
軽蔑の念の篭った視線を受けた。
「シン」
自分の名前を呟きながら台所の火を落とした。出来上がった朝食をテーブルまで運べば朝食の用意は完了だ。
「目玉焼きって元々はこんなだったんですね……」
殻を割られたばかりの卵を見たユイは何かを小さく呟いたが、俺の耳で聞き取る事はできなかった。
「シンは料理をするのが好きですか?」
パンと目玉焼きの載せられた皿を運ぶべく、ユイは二枚の皿を持った。
「嫌いではないな」
「なら楽しみを奪っては悪いので、料理は任せます」
ユイは自らの仕事から料理を省いた。
「できないのか?」
「……」
恥だと思っているのか頬を桜色に染めている。
「料理を教えてくれませんか?」
「良いぞ。だがまずは飯だ。早く食わないと寒さで動けなくなるぞ」
こうして約束をしてしまった。誰かと約束をするなんてことはいつ以来だろうか。