1話
とある雪の日、俺は久々の外出をした。街外れにある我が家と商店の立ち並ぶ通りとを結ぶ道にはくるぶしまでが埋まる程度に雪が積もっていた。
柔らかな雪が俺の肩に落ちた。体温で雪が溶ける。俺は空を仰ぐ。相も変わらず雪は降り続けている。
左手にある傘を差すこともせずに歩を進める。もしも通りすがる人が居たならば怪訝な視線を向けられる事だろう。だが、我が家へと続くこの道を歩く人間なんてものはそう居ない。
孤独。そういう状況下限定の歪んだ自意識過剰に思考を委ねる。
雪が降る。その事は俺に外出をする事への意欲をもたらした。
俺は現実と空想の境を求めて街を目指す。
時折、現実と妄想の見分け方を忘れてしまう。
今朝なんかは気味の悪い青白い顔をした少年に包丁を向けられ、延々と追い掛け回されるという夢を見た挙句、目覚めた後に頭を抱えながらこのまま夢が覚める事がないようにと願ったくらいだ。
そんな時は外出するに限る。噂話に耳を傾け、酒を煽る。そうすることで自分の知識外の情報を得る事ができる。それこそが現実である証であり、生きる糧となる。
つまりは俺にとっての現実というものはそういうものだ。
整備のされていない道や葉の落ちきった広葉樹に積もる雪、空を覆う灰色の雲。
それらは知識を持たない俺にとって幽玄の光景だけれど現実だ。今の目の前の光景も現実だろうか。
今、俺の目の前には一人の少女が居る。街の外れ、木々の多いこの土地と街とを繋ぐ一本道を塞ぐようにして雪の中、少なくない荷物を足元に置いて立ち尽くす少女を捉えている視覚は正常なのか。
俺にこの少女は形容し得ない。それだけの高貴さを纏い、綺麗と愛らしさが同居する顔立ちを持っている。 ファーの付いた帽子を被っているが、そこから出た長い髪は雪のせいか澄んだ白金の糸のように見えた。
高く売れそうだ。一瞬だけそんな事を考え、後悔した。そんな事を考える大人は関わるべきではないと思わせる清楚さを少女は体現していた。
この少女の存在は空想か、現実か。
まだ街とは相当の距離がある。こんな外れに良家の娘が一人で居るというのは余程の事情があるか、幻視であるかだ。
雪は容赦なく体力を奪っていく。幻覚相手に話しかける労力を割く気にはなれない。構うことなく横を通り過ぎよう。
「私、悪い大人達に追われているんです。私を匿ってくれないでしょうか」
少女は背の丈に不釣合いな言葉遣いで俺に話し掛けてきた。言葉の端々から感じる高貴さ、纏う衣服の質、やはり世間で言う所の良い所の娘なのだろう。
幻視の次は幻聴か。必要以上には人と関わらず、酒に溺れていれば当然か。
全てを幻覚であると決め付ける事は容易だが、それでは何に縋って生きれば良いのかわからなくなってしまう。ここは自我の知覚する現実を信じる事にしよう。
「俺も悪い大人でね」
深く考えもせずに小さく呟いた。
雪の魅せる幻想の身を案じてもしょうがない。
「そんな事はない筈です。私には分かります」
すれ違い様、羽織っていたコートの裾を掴まれた。実体を持った幻覚など、俺は知り得ない。
「少なくとも健全では無いんだがね」
人との接触を極力拒み、妄想に逃避する日々を送る人間の何が健全か。
「健全じゃないとしても、私は貴方を頼ると決めたんです」
悪い人に追われている。匿え。
久々の厄介事、もとい刺激だ。
「お前を匿って俺にどんな利益がある」
身の回りに何か一つ現実を認識させる物を置くのも悪くないかもしれない。
「私がお話し相手になってあげます」
「そうか。俺は帰る。凍え死ぬ前に元の家に帰ると良い」
人付き合いは億劫だ。子供の相手なんてのはその最たる物だ。大人が経験で理解してきた物の多くを知らない子供が多いのだ。
「帰る家なんていうのは無いです。貴方が私を置いていくというのであれば、私はここで命を終えることになります。未踏の雪の海に浮かぶ少女。悲壮ですけど芸術だと思いませんか」
彼女の言葉を聞いた俺は、誰かを馬鹿にする時のような笑みを浮かべながらこう答えた。
「住み込みの仕事をくれてやる。働く気があるなら付いて来い」
これからは彼女が俺の現実だ。