苦悩
その数日後、場所は再びランセイア。
目を覚ましたサイアは迷わず二度寝を決め込んだ。もし寝過ごしたとしてもアイシャが起こしてくれるはずだ。
(やれやれ、負けた後の方が枕を高くして眠れるとは、とんだ皮肉だな。)
そう思って目を閉じた彼は、不審なことに気付いた。
この時間にしては、外が騒がしすぎる。
渋々身を起こして外の様子を確認したサイアは、目にした光景に眠気を吹き飛ばされた。
立ち並ぶ家々の住民たちが次々と家財道具を運び出している。これからこの街が戦場になるとでも言うのだろうか。
とりあえずソファで寝ているアイシャを揺り起こす。自分がソファで寝るから、ベッドで寝るようにと言ったのだが、「私はあなたの従者ですよ?そんなことできるわけありません。」と言って頑なに聞き入れようとしなかったのだ。
少し手を触れた途端、はっ、と目を覚ましたアイシャは主人が自分を見下ろしているのに気付いて跳ね起きた。
「サ、サイア様!?こんな朝早くにどうしたんですか!?」
アルレイの従者たるアイシャ・テネシーの一日は、主人より早く起きて彼の身の回りを整えるところから始まる。
その日の予定を確認し、朝の紅茶を容れ、必要なら朝食を作りもする。
家にいたころは専属の料理人もいたのだが、流浪の身の今は基本的にアイシャが作っている。
過保護とも言えるその態度は、誠意か盲信か、それとも愛情か。ともかく、普段自分が起こしている人間に逆に起こされたら驚くのが人情というものだ。
「わからない。…だが、普通じゃない様子だ。」
窓から街並みの様子を見下ろしたアイシャは大体の事情を飲み込んだようだった。その表情は、トルマンクで兵の裏切りを知った時と同じもの。
「……また、戦争でしょうか?」
「戦争でなければ、天変地異か都市の移転か。まあ、人に聞けばすぐわかるさ。朝食ついでに情報収集といこうじゃないか。」
素早く身支度を整えたサイアが言う。戦場ではないので当然黒マントは身に着けていない。もっとも、それでは肩のあたりが寂しいのか、紺のジャケットを身に着けていた。
部屋を出て、一階のロビーに降りる。すると、探している相手はすぐに見つかった。いや、むしろ相手の側から近寄って来たというべきか。
「おお、あんたら、よいところに。」
そう声をかけてきたのは、この宿の店主を務める白髪の老人だった。見るからに嬉しそうな様子で歩み寄ってくる。
意識や記憶ははっきりしているが、何らかの障害があるのか、その足取りは若干おぼつかない。
「おはようございます。…これは一体何の騒ぎですか?」
外の道に目をやってアイシャが言う。
「それを今から話そうとしておったところじゃよ。昨日の夜兵士さんがやって来ての。帝国が攻めてくるから、身の回りの物を持って街の北側に避難しろということじゃった。」
「帝国軍が…!」
アイシャが驚きの声をあげる。しかし、サイアにとっては予想の範囲内であった。どこから兵を持ってきたのかが謎だが。
ちなみに帝国とイシガンの停戦は秘密協定であり、両国の中でも知っているのは一部の人物に限られていた。
「それで、帝国軍はいつ来るんですか?」
「詳しいことはわしにはわからんがのう…。明日の夜には来るとか言っておったな。……ところで、おぬしら朝食はどうするんじゃ?必要ならわしが腕を振るってやるぞい?」
かっか、と老人は笑う。二人はその言葉に甘えることにした。
「それにしても、こんなところでのんびりしてていいんですか?必要なら手伝いますよ。」
食後、カウンター席に陣取ったサイアが宿の主人に言った。口調は若干偉そうだが、心の中では本気で気にかけていることをアイシャは知っている。
老人はそれを知っているのかいないのか。微笑して答える。
「お気遣い痛みいるがのう。妻を失ってこの身一つ、持ち出すものなどありはせんのじゃ。明日にでもなったら料理道具片手に逃げるとするさ。」
わしなら、料理道具とこの腕さえあればどこでも生きていけるからのう。と笑って老人は言う。確かに、老人の料理の腕は大したものだった。
今度は老人が彼らに問いかけてくる。
「ところでお主らはいつここを発つつもりじゃ?自分に縁もゆかりもない戦に巻き込まれるのは本意ではあるまい。早めに出発しなければ間に合わぬかも知れぬぞ?」
彼の言うとおりだった。現に二人の後から起きてきた宿の客たちは、帝国軍が攻めてくるという話を耳にして次々と街を後にしている。
「こういうことは慣れっこですから。……でも驚きました。これから戦が始まるというのに、みなさんから恨み言の一つも聞こえないなんて。」
アイシャの言うとおりだ。先ほど街を歩いていて気付いたのだが、これから戦が始まるというのに、人々からは不満の一つも聞かれなかった。
「まあ、姫様のためじゃからの。恨むなら帝国軍を、ということじゃの。」
姫様、とは君主のシンシア・クレスティナのことだろう。異民に対する融和政策を掲げていることで知られている。
民に愛されるその名は、遠くの国にいてもサイアの耳に入ってきていた。
この数日調べて分かったのだが、確かにこの国は土地が肥沃で、租税も安く、治安もよかった。住むのに適した国であるのは間違いないだろう。
「仁君だねえ、本当に。」
朝食を終え、部屋に戻った後、サイアがしみじみと言った。アイシャはそうですね、と相槌を打ち、続けた。
「もっとも、仁君なら今までにもたくさんいた気がしますが。」
「私がルレンサに任官することが不安かい?」
荷物の整理をしていたアイシャの腕が、ピタリ、と止まった。
元から整理するほどの量があったわけではない。何かを言い出せずにいたのだろう。
「君は私の相棒だ。思うところがあったら言って欲しい。」
アイシャはサイアの方に向き直り、絞り出すような声で話し始めた。
「……もう、よろしいでしょう。」
若干泣き声の混じったかのようにも聞き取れるアイシャの声。戦場においても常に落ち着き払った態度でサイアをサポートし続ける従者が、久方ぶりに見せる本音だった。
「この4年間、我々は帝国軍と闘い続けて来ました。……後悔はしていませんし、サイア様が望むならこれからもそれを続けていくつもりです。」
家を出て4年間、戦い続けるサイアの精神は使い古される鉛筆の如く削られ続けてきた。会話と笑顔が減り、難しい顔をしてふさぎ込む時間が増えた。
それによって将としての威厳が増したのは非情な皮肉としか言いようがなかったが。
「……ですが、もうやめにしましょうよ。サイア様の心はもう限界です。昔のように笑ってはくださらないのですか……?」
アイシャの必死の思い。だが、それもサイアに届くことはなく、むしろ彼の心を固めさせてしまったのかもしれない。
サイアは振り向かずに答える。
「私は戦わなければ。サイアという人間がアルレイの長子であるために。そうでなければ、私は……!」
壁を殴りつける、最後の方はまるで呻くようで。
「悪い、アイシャ。君には苦労をかける。」
「いえ、サイア様が行くところに、私はどこまでもついていきます。」
兵を指揮し、戦うことでのみサイア・アルレイという名の人間を構築できる自分の主。
それが彼自身のせいではなく、生まれと育った環境ゆえであることを知っているアイシャは、無礼と知りつつも憐みを禁じ得ない。
自分も決意を新たにしなければ。サイア様がサイア様でいられるように。だから彼女はこう言うのだ。
「サイア様の心のままに。」
「シンシア様、街の住民たちの避難の方、順調に進んでおります。」
初老の男が、一礼してシンシアに言う。だが、その男の声は若干の疑問と反発を抱えているようだった。
「礼を言います、ラレス町長。老人や子供たちを優先してここに保護してちょうだい。ここなら余程のことがない限り安全でしょう。」
「お待ちください。それでは、ここを放棄するのですか。ここはこの街で一番堅牢な拠点ですぞ。」
何を言い出すのか、という感じでランセイアの長ラレスが言うが、逆にシンシアは当然よ、とでも言うように言い返した。
「だからこそ、彼らの安全を保てるわ。…それに勝負を賭けるのは街の南部。大軍を活かせる北部への侵入を許したら、その時点で勝負がついてしまう。」
ランセイアは横に長い長方形をしており、街道で南北に区切られている。
北は大きな建造物が立ち並び街並みも美しく整備されているものの、南半分は家々が雑多に立ち並び、道も複雑だった。
土地勘があることを活かし、市街戦を展開するのが将と兵の致命的な欠如をカバーするルレンサの戦略だった。
帝国軍の兵12万に対し、ランセイアの兵は5万弱。将の数は両手の指に満たない。
しかも正軍師のシャオレンと、陸上部隊のすべてを統括する老将、ボルテンを欠いている。
「町長、出払っている他の将たちにも方針を伝えておいて。……二人とも、頼りにしてるわよ。」
シンシアの言葉に、一組の男女が反応を示す。厳格な顔をした若い女と、細めの男。
どちらもその表情が年齢不詳の印象を与えている。その名はエニマとゲンシン。
「任せておけ。私の剣をお目にかけましょう。……釣り合う相手がいればよいのだが。」
「姫様、私は文官です……。わかりました、このエニマ、全力を尽くします。」