復帰
転移術法。
物体を離れたところから瞬時に呼び出す術で、異民が持ち込んだ術の中でも最も影響力の大きかったものの一つだ。しかし、入念な準備が必要な上に失敗した際のリスクが大きすぎるため滅多に使用されることはない。術式を使うエニマが少しでもミスをすれば、シンシアは消滅する。
「姫様、よくぞお戻りになられました。」
「戦況は!?」
シャオレンとエニマがうやうやしく頭を下げる。計画の内とはいえ、いきなり場所が変わったことに驚きを感じつつも、シンシアはまったく気を抜こうとはしない。
「姫様も予想されていることと思いますが、我々がおびき出したのは皇帝に姿を偽ったミシェルでした。」
「そして当のカルザ本人は市街地で暴れまわっておる。ゲンシンやクルスが防御にあたっておるが、その勢いは今にも防衛線を超えそうな勢いじゃ。」
「最後までも言わなくてもいいわ。隊列を組みなおし次第最前線へ戻り、……カルザ・ラストラク・ディストリアを撃退するわ!」
「一体、サイア様に何があったというのですか……」
サイアから預かった部隊を連れてランセイアに戻ったアイシャを待っていたのは、自分の主人が重傷を負い保護されたという報せだった。すぐにでも様子を見に行きたいところだが、指揮官たるもの動揺を見せてはいけないというサイアの教え通りに必死に自分を押しとどめる。
彼女が部隊を配置したのは、シンシア隊の正面。まるで王女を帝国軍から守ろうとするかのように位置だった。サイアなら迷わずこの場所を選ぶであろうし、目を覚ましたサイアが真っ先に来るのがここだと思ったからだ。
相手の準備が終わるまで待つという騎士道精神も、味方と足並みをそろえるという考えもなく、キリは自らの部隊を引き連れて突撃した。突出した部隊に対して矢が降り注ぐが、彼女はそれを剣と鎧で弾き飛ばしながら駆け続けた。
それを確認して帝国軍の他の部隊も行動を開始する。黒騎士のこじ開けた小さなほころびを、他の部隊が戦局を左右する大きな穴に変えていく、帝国軍の教科書通りの戦術であった。
屋敷を飛び出して1年ほど経った頃、ある国で父親に再会した。
「何しに来た。」と刺々しい声で問い詰めたサイアに、彼は「ただの観光さ。」と何食わぬ顔で答えて見せた。
「お前と出会ったのはただの偶然だよ。気にしなくていい。」
「このご時世に物見遊山の観光旅行とは、いいご身分だな。」
「アルレイの現当主はお前だろ?私はただの民間人だよ。」
「皮肉か?」
まさか、とんでもないと父はおどけた様子で答えた。
「お前にはむしろ感心しているよ。理由がなければ戦えない私と違って、お前は戦いのために戦える。アルレイの当主としては私よりお前の方が優れているらしい。」
「やっぱり皮肉なんじゃないか。」
自分にだって闘う理由くらいある。アルレイの家のためでもなく、自分の存在を確かめるためでもない。守るべきもの、果たすべき目的、そんな理由が……。そう信じていても、彼の口から言葉は出てこない。それじゃあな、と言い残して去っていく父親の背に何か一言でも言い返さなければならないはずなのに、その感情が言葉を生み出すことはなかった。
そこで彼の意識が覚醒する。最初に感じたのは激しい喉の渇き。ベッドの上の水差しの水を喉に注ぎ込むと、その冷たさが彼の頭をクリアにした。そうだ、自分は黒騎士と皇帝に追われて、なんとか逃げ切ったという安心感から意識を手放してしまったのだ。
なんと情けない……。
自分に毒づきながら起き上がる。他の将達との関係もうまくいっているとは言えない状況で、敵はもちろん味方にも弱みを見せたくない時だというのに。何はともあれ、まずは戦場に戻らなければ話にならない。その後のことはその時考えればいい。
そう自己完結したサイアが部屋を出た時、彼に声をかける者が一人。
「アルレイ様、まだ動かないでください!出血だってまだ完全には止まっていないんですよ!」
彼と同じくらいの年齢に見える看護兵の少女だった。こんな少女でも、戦争の手伝いをしなければならないのだろう。サイアは世界の歪みを感じずにはいられない。
「押されているのはこちらだろう?アルレイは飾っておくものではないのだ。戦場にあって初めてその価値はある。」
「どうしてそれを知って……。じゃなかった、仮にそうだとしても、あなたの看護を任されて者として、出陣は絶対に許可できません!」
戦況が悪いと悟ったのは戦いの怒号が近かったからだ。だが、彼女の言うとおりサイアに巻かれた包帯からは血が滲み始めている。
「流す血があるなら大丈夫だ。まだ戦える。」
「そんな無茶な……。許可できませんと言ったら許可できません!」
無視して横を通り過ぎようとするサイアの腕を掴んで彼女は言った。実際に戦場に出たことはないのか、腕の力は弱く、傷一つなかった。
「……きっと、間違っているのは私なのだろう。だが、許してくれ。」
「え?」
彼女に何が起こったのか知覚する時間があっただろうか。サイアが彼女の首筋に手刀を打ち込んだのだ。目の前が真っ黒になる寸前、彼女は呻いた。
「なぜ、あなたはそこまで……」
その声はサイアの耳に入った。答える言葉をを見つけられないまま、「すまない」とだけ言い残してサイアはその場を去ったのだった。
「ここからなら、狙えるな。」
戦場を見渡せる位置にある建物の上、ジェンは弓の射程ににシンシアの姿を収めていた。今まさに矢から指を離そうとした時、背後からただならぬ気配を感じて振り返った。それと同時につがえていた弓矢を放つが、それは軽く弾き飛ばされる。防いだのは燃え盛る剣。
「サイア・アルレイ!?どうしてここに?」
不味い。狙撃任務だと予想していたため、近接戦用の武器は短剣しか持ってきていない。
だが、黙って見逃してくれる男でもないだろう。ジェンは覚悟を決めた。
「どうして、ここにいるかって?超一流の人間ってやつが考えることは逆にわかりやすいからな。」
「侮ってくれるな!」
一瞬の交錯。ジェンの短剣の斬撃は常人には見切れないほどに鋭かったが、黒騎士と何度も渡り合ったサイアにとっては見切れる速度だった。
「貴様の相手をしている時間はない!」
サイアの炎剣がジェンの脇腹を斬り裂くが、彼女はそれを予想していたかのように逃走の体勢に入った。
「逃がしたか。……まあ、構わないが。」
身をよじって深手を避けたとはいえ、軽い傷ではないだろう。もう今回の戦いには出てくることはできないはずだ。自分のことを棚に上げてそんなことを考えながらサイアは再び戦場に向かったのだった。