亀裂
「大丈夫ですか?動かしたときに痛みや違和感はありませんか?」
「ええ、もう元通りです。……本当に、ありがとうございました。」
エニマによるアイシャの手に治療は、エニマの魔術の才能のおかげで、常識では考えられない速度で完了した。
「よかった……。これでまた、サイア様の役に立てる。」
愛おしそうに自分の右腕をなでるアイシャを、エニマが苦々しげな顔で見つめていた。
「サイア様サイア様と、あれがそんなに素晴らしい男ですか。」
彼がシンシアに提案した作戦した作戦によって味方にも大きな被害が出て以来、エニマはサイアによい感情を持っていなかった。程度の差はあれ、それはルレンサの将の多くが抱いている感情であった。確かに、あのアルレイの家長というだけあって、その能力はルレンサの他の将と比べて頭一つ二つ抜きんでている。ミシェルや黒騎士とも互角に渡り合うその能力は貴重という他ない。
だが、その炎帝はあまりにも独断先行が過ぎた。最初の内は指示に従って行動しているのだが、いつの間にか勝手に行動しており、最後には大きな戦果だけを上げて帰ってくる。
今のルレンサに必要な人物であるのは認めるが……。
「やはりサイア様は皆から反感を買っておられますか。」
「今さらですか。」
サイアはわざと気付かないふりをしているが、肌で感じ取るなどという表現をしなくとも、その気持ちはやすやすと感じ取れる。
「私には関係ない話です。どんな状況であってもサイア様に忠誠を尽くす。あなたにもわかりやすく言うならば、あなたもいつだってゲンシンさんの肩を持つでしょう?」
嘆息したエニマをやり過ごすかのようにアイシャが彼女のことを茶化した。何事にも厳格なエニマと、剣術以外のことはすべて適当なゲンシン。この二人がどうして仲良くやっている(ように周囲には見える)のかは、ルレンサ軍の抱える謎の一つらしい。
「なな、あなたは何を言っているのですか!?」
図星を指されたのか、慌てるエニマの姿を見て溜飲を下げたような気分になったアイシャは「本当にありがとうございました。」と一言言い残してサイアの元へ向かった。やはり優秀すぎる自分の主人は皆から好かれていないらしい。だからこそ、自分がしっかりと支えてあげねばならない。自分はアルレイの従者テネシーの者なのだから。
死に体となったはずのヘイトスがミルレウス王国からの攻撃が緩んだ一瞬の隙をついて帝国領に侵入したという報せは、驚きをもって全大陸へ迎えられた。その国力は大幅に弱体化したとはいえ、依然としてその総兵力はルレンサやシルシキを上回る。ディストリア帝国は再び何らかの対策を迫られることになった。
「雑魚どもが、ちょろちょろと煩わしいな。」
その報せを聞いたカルザは眉をひそめると、大陸南部の将にヘイトスの迎撃を命じ、自身もランセイア攻略のために自ら出陣すると言った。今まで防御に徹していたあの国が、突然宗旨替えして攻め込んできたとは考えづらい。やはり、ヘイトスが帝国領に侵攻すると都合のよい国、例えば、現在ディストリア帝国から攻撃を受けている国のことだ、の差し金でしょう。そう軍師長ネムルジが語ったからだ。
四面楚歌となり、イシガンとの停戦協定の期間も半分を切った今、ランセイア攻略は次が最後の機会になりかねない。大分減ったとは言え、ランセイア攻略軍の総兵力は10万近く、ルレンサ軍の総数である8万を大きく上回っている。皇帝であるこの自分が出陣するのだ、負けるわけにはいかないし、負ける理由もない。カルザは自分の内のわずかな不安をおしこめると、攻撃隊の編成を行うためにネムルジのもとへ向かった。
「キリ・フリッシュ様、皇帝陛下からの命令書です。」
「読む必要はないわ。どうせいつも通り。」
黒騎士隊は常に帝国軍の最先鋒に配置される。戦力的、戦略的な問題ももちろんあるが、邪魔とみれば味方にすら襲いかかる黒騎士隊を後方に置くのは危険極まりないからだ。何より後方にいるよう指示しておとなしく従う人間ではない。
かといって、そのまま捨てるわけにもいかない代物である。キリが投げ捨てたそれを、確認のため封を切ったファウムが思い出したように言った。
「そう言えば、先日あなたの命を狙った男をあえて見逃したそうですね。何か心境の変化でもありましたか?」
ファウム以外の人間に聞かれていたならば、「黙れ」と一蹴するところだが、何故かファウム相手だとそういう気分にならないのだ。長い付き合い以外にも何かあるような気がする、キリは自分でもそれが何かなのか今一つわからなかった。
「別にどうということはないわ。あのサイア・アルレイを殺せばすべて元通り、そう、あの男さえいなければ……。」
武将となって初めて出会う、自分の手から二度も逃げおおせた男、サイア・アルレイ。その男から投げかけられた言葉、糸の上に立っているような彼女の危うい精神に大きな影響を与えていた。
……私は間違ってなんかいない。戦争ができなくなるぐらいに人間を殺して真の平和をもたらし、人々を幸せにして見せる。それが私に課せられた使命のはず、だ。
間違いなんてない。
「どうやら、竜の逆鱗に触れてしまったようですな。」
帝国軍の動きに対応するべく開かれた軍議の場で、サイアはシャオレンをそう皮肉った。
「触れたのはヘイトスなのじゃがのう……。逆ギレというやつか。」
だからヘイトスをけしかけたのは誰だよ、と言ってやりたい。
「何であるにせよ、身にかかる火の粉は振り払う他ないわ。今考えるべきは対策よ。」
「間諜からの情報によると、帝国軍は10万の兵、そのほぼすべてを投入してくるものと思われます。」
「その数を動かせる将の数が、何よりうらやましいな。」
「後詰めの兵を用意しない、今回で終わらせる気ですか。」
「敵もまた焦っておるということじゃ。今回我らが勝利を収めれば、やつらには次打つ手がないということじゃよ。踏ん張りどころじゃのう。」
シャオレンのその言葉に、場の雰囲気がにわかに明るくなった。長かった防衛戦がついに終わろうとしているのだ。
「事態を無意味に明るく捉えるのはやめていただきたい。暗い話題を投げかけるようで恐縮だが、少なくともカルザが率いる皇騎兵をなんとかしなければ、我々に勝ち目などないのだから。」
グランデァア攻防戦においてその力を痛いほど思い知っているルレンサの将たちは一様に押し黙る。
「サイア、もちろんわかっているわ。それについて私に1つ案があるのだけど、聞いてもらえるかしら?」
地図に手際よく部隊を表す駒を置いていく王女。なんだか似合わない光景である。ともかく、彼女が示した作戦に「興味深い」と賛同の意を示したのは全員の中でサイアだけだった。
「今日は何を企んでいる?」
決戦の朝、サイアはボルテンに呼び止められた。緊張をほぐすような軽い声ではなく、釘でも指すかのような言い方だった。
「やめてくださいよ、ボルト将軍。この前挨拶に伺ったときに言いましたよ。私はこの国を勝たせるためにここにいます。アルレイの家長としてね。そのためなら何だって投げ捨てて見せますよ。」
振り向きもせずにサイアは答えた。その何かを含んだ物言いに、ついにボルテンは剣を抜き放った。
「お主のことを嫌っているものは多い。妙な真似をせぬことだ。」
すかさずナイフを抜き放ったアイシャが二人の間に割って入る。軽蔑したようなで自分を見つめるボルテンを馬鹿にするかのように言った。
「おやおや、私は随分と嫌われてしまったようだ。馬鹿親父のせいかな?」
「シルシキやお前たちのような貴族共は信用できん。金次第でどちらにもつく。」