あの日の記憶
「サイア様、こんな所にいらっしゃったんですね。」
数時間探し回った末、ようやくアイシャは屋敷から遠く離れた湖の岸辺でサイアの姿を見つけた。
「ん、アイシャ?どうかした?」
「読書中に失礼しました、って、また難しそうな本を読んでますね。」
「親父がうるさいのさ。それとこんなの難しくはない、つまらないだけださ。」
彼は苦笑しながら本を放り投げる。そう、この頃のサイア様はよく笑う人だった。
「そろそろお茶の時間ですからお探ししていたんですけど……。何かお好みのものはありますか?」
本来これはアイシャの仕事ではないのだが、当時のサイアは父をはじめとするアルレイ家の人々と不仲であり、ほとんどの時間をアイシャと彼が作った隠れ家で過ごしていた。
「そうだねえ……シェパーズパイ。」
「お言葉ですが、あれはティータイムに食べるものではありません。」
牛肉とパイ皮で作ったパイである。確かに主食として食べるのが普通だろう。
「じゃあ、それが夕食でいいよ。あんな奴らが出すものよりも、君が作ってくれたものの方がよっぽどおいしい。」
「またそんなことを言って。勉強以外でこの前屋敷ににお帰りになったのはいつですか?」
そう言いながらも、アイシャは顔がほころぶのを禁じ得ない。彼女は軽い足取りでテネシーの屋敷へと向かったのだった。
そして、その2年後ある夜。眠りについていたアイシャは何者かに乱暴に揺り起こされた。一瞬誰なのかわからなかったのも無理はない。その人影はアルレイ家の家長を示す漆黒のマントを身に着け、血に濡れた剣を手にしていたからだ。
「サイア様…なのですか。」
影は答えず、腰に差したもう一本の剣を引き抜いた。燃え上がった炎剣に照らされたその顔には、普段の明るさは微塵もない。
「私はここには2度と帰らない。アルレイ家の長子、サイア・アルレイについてきてくれないか?」
目の前の人影がサイアだとわかっても、アイシャはその場を動くことができなかった。誰か中身はまったく別の何者かが、サイア様の皮をかぶっているのではないか、そう信じたがっていた。彼女が答えずにいると、サイアは剣を収め、彼女に背を向けて歩き出した。
その背中は、とても寂しそうで。いけない、という衝動に駆られて彼女はサイアを呼び止めていた。振り向いた時、サイアはいつも通りの笑顔に戻っていた。やはり、サイアはサイアだったのだ。
「ありがとう、アイシャ。嬉しいよ。……これからもよろしく頼む。」
この笑顔を自分が守らなければ。サイア・アルレイという人間を見てあげられるのは、彼の父でも母でもなく自分だけなのだから。
アイシャはそこで目を覚ました。両手をマットレスについて起き上がりとしたが、右の手のひらから伝わる激痛にたまらず崩れ落ちた。その痛みにつられて記憶が一気に鮮明になる。
そうだ、自分は黒騎士に負けて腕を……
「右腕はまだ動かさないでください。魔術による治療で何とか切除だけは免れましたが、まだ動かしていいわけはありません。」
アイシャが顔を上げると、そこには彼女と同じくらいの年齢の少女が厳しい顔つきで立っていた。彼女は一礼して言う。
「私はエニマ・パーシス。ルレンサの文官です。アイシャ・テネシー様、まずは無事で何より。」
「サイア様、サイア・アルレイ様は無事ですか!」
自分の話をさえぎって言ったアイシャに、呆れ半分、面倒くささ半分のようにエニマは答えた。
「黒騎士と闘った後だと言うわりにはピンピンしていらっしゃいますよ。少しは静かにしてほしいものです。今は軍議に出ている最中ですが。あなたのことを大変気にかけていたようです。」
自分がここにいるという言うことは、サイア様はルレンサに力を貸すことにしたのだろう。となれば、次に気になるのは戦況である。エニマによると、街と味方ごと敵兵を焼き払うというサイアの作戦によって帝国軍は撤退を余儀なくされたらしい。その損害は大きく、作戦から3日目の夜になっても帝国軍は新しい動きを見せてはいないらしい。だが、完全に平地での戦いになる次の戦闘では耐えきれるかどうかは微妙ということだった。
「数で劣っているこちらが次の戦闘で勝利を納めるのは困難だと思われます。焦土作戦を取った上での迅速な撤退が必要であると進言します。」
軍議の場でサイアが言うが、それに同調するものはいない。当然だろう。自分たちの街を焼き払ってさっさと撤退しましょう、などという案にそう簡単に頷けるはずがないのだ。
「仮にそれが最善の策だとして、そう簡単にその手を打てるわけはないだろう。」
「アルレイの者だと言っても、言っていいことと悪いことがあるぞ!」
サイアに対する批判が殺到する。だが、サイアは腕を組んだまま自信に満ちた態度を崩さないで言い返した。
「なら、正面から帝国軍とやりますか。ミシェルに黒騎士、その他にも強力な将を多数擁する帝国軍と、兵数が劣っている状況で。」
一同言葉に詰まる。しかし、シンシアは毅然と言い切った。
「やりましょう。」
皆が一斉にシンシアの方に向き直る。信じられない、という視線、視線、視線。
「いかに相手が強大であろうとも、いつかは撃破しなければならない相手。それに、グランディアではすでに帝国軍と衝突しています。私たちだけが逃げ回るわけにはいかないでしょう。」
言い切った王女に、一同は何も答えずに押し黙る。その時、ドン、と言う音を立てて外から扉が
開かれた。
「何事だ!」
ゲンシンが立ち上がり問いただすよりも早く、伝令の兵士が言った。
「ご報告します。帝国軍に動きあり!進軍の準備かと思われます!」
部屋に緊張が走る。「私が確認してきます!」と先ほどサイアに強硬に反論した将が部屋を駆け出して行った。サイアは知る由もないことだが、彼の名はレイオン・リムロ。ボルテン将軍の一番弟子である。彼が部屋を出るのと入れ替わりに、エニマとアイシャが入ってきた。
「相手が動き出した以上、一刻の猶予もないわ。迎撃の準備を急いでちょうだい。」
翌日、ランセイアの南部、焼野原となった街跡でルレンサ軍とディストリア帝国軍は激突した。ルレンサ側はシンシア以下全将、帝国軍側もミシェル、黒騎士、ジェンを投入した総力戦だった。無論、戦闘に懐疑的だったサイアも出陣している。開戦後しばらくは勢いに勝るルレンサ側が有利に戦況を運んでいたが、昼過ぎには兵数差で帝国軍が戦場を掌握した。何よりジェンと彼女が率いる豹の手からシンシアを守るため、元々不足している将を常にある程度の数の将を彼女のそばに配置しておかなければならないのがルレンサ側の決定的なディスアドバンテージだった。そうした状況の中、シンシアのもとに信じられない情報が届けられる。
グランディア陥落の報である。