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雨はいつか止む


 その夜、病院を打ちつける雨は、この季節でいちばん激しかった。


 窓ガラスを叩く雨音が、静まり返った病棟に途切れることなく響いている。


 土屋希望は、ナースステーションの窓辺に立ち、暗い夜空を見つめていた。


 この病棟に配属されて、まだ数か月。


 あの日は、自分のことで精一杯だった。


 怒鳴られるたびに「私が悪い」と思い込み、患者が亡くなるたびに「私が救えなかった」と自分を責め続けた。


 患者の苦しみを、自分の苦しみにしてしまう。


 そんな看護しか、彼女は知らなかった。


 けれど今、その景色は少しずつ変わり始めていた。


 怒りしか見えなかった田中誠一は、最期に「ありがとう」と伝えてくれた。


 言葉が通じなかった李さんは、「笑顔は言葉より先に届く」と教えてくれた。


 治療を拒み続けた小林健太郎は、人にはそれぞれ受け入れるまでの時間が必要なのだと教えてくれた。


 心理学者の森川は、「患者を救いたいなら、まず自分を守りなさい」と静かに諭してくれた。


 そして希望は、ようやく気づき始めていた。


 看護師は、すべての命を救えるわけではない。


 すべての患者に好かれることもない。


 それでも、その人の人生に寄り添うことはできる。


 たとえ病気を治せなくても、不安を少しだけ軽くすることはできる。


 そのために、自分はここにいるのだと。


 ナースコールが静かに鳴った。


 希望は深く息を吸い、ゆっくりと振り返る。


 もう、雨の音は怖くなかった。


 あの日、自分を閉じ込めていた雨は、まだ完全には止んでいないのかもしれない。


 それでも——。


 雨は、いつか止む。


 そう信じられる自分が、そこにいた。



ナースステーションを出ると、同じく新人看護師の神谷美咲が廊下で立ち尽くしていた。


 まだ異動してきて一週間。


 希望が着けているものと同じ、新品の名札が胸元で小さく揺れている。


「土屋さん……」


 今にも泣き出しそうな顔だった。


「患者さんに怒られてしまいました」


 希望は歩み寄る。


「どうしたんですか?」


「採血が痛かったって……『新人なんか担当につけるな』って言われてしまって……」


 神谷は俯き、小さく呟いた。


「私……看護師に向いてないのかもしれません」


 その言葉に、希望は数か月前の自分を見た。


 田中誠一に怒鳴られた日。


 自分の未熟さばかり責めていた夜。


 香織を救えなかった後悔に押し潰されそうになっていた頃。


 希望は静かに笑った。


「ねえ、神谷さん」


「はい……」


「患者さんが怒る理由って、本当に私たちだけが原因なのでしょうか」


 神谷は顔を上げた。


「病気が苦しい人もいる」


「怖くて不安な人もいる」


「人生を失いそうで、どうしていいかわからない人もいる」


 希望はゆっくり続ける。


「だから、怒られたときに、自分を全部否定しなくていいと思う。もちろん反省は大事。でも、全部を背負わなくてもいいんですよ」


 その言葉は、いつか森川が希望へ伝えた言葉とよく似ていた。


 そして田中が最期に残してくれた言葉でもあった。


「……はい」


 神谷は小さく笑った。


 その笑顔を見て、希望も微笑む。


 人は、誰かから受け取った優しさを、また別の誰かへ渡していく。


 そうやって看護は受け継がれていくのかもしれない。




 ナースコールがまた鳴った。


 希望はゆっくりと顔を上げる。


 もう、雨の音は怖くなかった。


 患者を救えなかった夜も。


 怒鳴られて涙を流した日も。


 「悪魔」と呼ばれ、自分には価値がないと思っていた少女だった頃も。


 そのすべてが、今の自分をつくっている。


 病室の扉をノックする。


「失礼します」


 ベッドに横たわる患者へ、いつものように笑顔を向けた。


「おはようございます。どうされましたか?」


 患者も小さく微笑み返す。


 その笑顔を見た瞬間、希望は思った。


 私は、誰かの病気を治せるわけではない。


 死を止めることもできない。


 それでも、不安な夜に寄り添うことはできる。


 誰かが一人ではないと伝えることはできる。


 それが、私の看護だ。


 窓の外では、雨が上がっていた。


 朝日が病棟の廊下を優しく照らしている。


 希望は白衣の名札にそっと手を添えた。


 そこには、今日も変わらず名前が刻まれている。


土屋希望、新人看護師です。


 そう胸を張って言える自分に、ようやく出会えた。


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