治療拒否
李さんの件が落ち着いた頃、新たな患者が特別個室病棟に入院してきた。
小林健太郎、六十五歳。
日本を代表する自動車メーカーの社長だった。
社員数は数万人。
「伝説の経営者」とまで呼ばれた男だったが、膵臓がんが見つかり、この大学病院で治療を受けることになった。
しかし、その評判は病気になっても変わらなかった。
「気難しい」
「医者にも看護師にも容赦がない」
そんな噂が、入院初日から病棟中を駆け巡っていた。
希望は電子カルテを開き、小さく息を吸った。
担当看護師__土屋希望。
画面に表示された自分の名前が、いつもより重く感じた。
病室のドアをノックする。
「失礼します」
窓際では、小林が腕を組みながら外を眺めていた。
「小林さん、担当看護師の土屋です。今日からよろしくお願いいたします」
希望はできるだけ自然な笑顔を作った。
「検査や治療について分からないことがあれば、一緒に確認しながら進めていきますね」
すると小林は振り向きもせず言った。
「新人か?」
「……はい」
「若い看護師に何ができる」
冷たい一言だった。
「時間の無駄だ」
胸が締めつけられる。
それでも希望は表情を崩さなかった。
「精一杯担当させていただきます」
小林は鼻で笑った。
「期待してない」
希望は病室を出ると、もう一度カルテを見返した。
膵臓がん。
進行は早い。
抗がん剤治療。
疼痛コントロール。
採血。
点滴。
どれも治療には欠かせない。
(ちゃんと説明しよう。)
香織を救えなかった夜。
李に必死で寄り添った日々。
患者に寄り添う看護だけは、絶対に諦めたくない。
そう思いながら、採血道具を持って再び病室へ向かった。
「小林さん、採血をお願いします」
希望は椅子を引き寄せ、静かに説明を始めた。
「血液検査では、治療の効果や副作用、体の状態を確認できます」
「結果によって、お薬の量や治療方針も調整できますので――」
最後まで話し終える前に、小林が腕を引いた。
「やらん」
「……え?」
「そんな数字なんか信用できるか」
希望は戸惑いながらも続ける。
「ですが、治療には必要な検査で――」
バンッ。
机を叩く音が病室に響いた。
「何度も言わせるな!」
「俺はやらない!」
病室の空気が凍りつく。
それでも希望は震える声を押し殺した。
「点滴だけでも……」
「お前みたいな若造に俺の何が分かる」
「他の看護師を呼べ」
希望は何も言えなくなった。
自分の説明が悪かったのだろうか。
伝え方が足りなかったのだろうか。
病室を出た瞬間、足元が崩れるような感覚に襲われた。
その様子を見ていた主治医の佐野が静かに言った。
「土屋さん、一度代わりましょう」
「中村さん、お願い」
数分後、三年目看護師の中村彩花が病室へ入っていく。
希望は廊下から、その様子を見つめていた。
自分にはできなかったことを、先輩はどうやって乗り越えるのだろう。
中村は、穏やかな笑顔で小林に近づいた。
「小林社長、さすがの迫力ですね。うちの職員のほとんどが、社長の作った車で通勤してますよ」
彼女は、小林の経歴を褒め、彼の自尊心をくすぐった。
「採血、ちょっと痛みますけど我慢してくださいね。社長みたいな強い人なら、余裕ですよね?」
小林は、渋々笑い、「まぁ、仕方ないな」と腕を差し出した。中村は、手早く採血を終え、点滴もスムーズに開始。
「社長、治療は社長を筆頭に一緒に戦う感じでいきましょう。頼りにしてますよ」
小林は、初めて穏やかな表情を見せた。
「君、なかなかやるな」
希望は、中村の声かけに圧倒された。彼女の明るさ、患者の性格を掴む洞察力は、希望に欠けていた。
中村が病室を出ると、希望は深く頭を下げた。
「ありがとうございました……」
中村は採血で出たゴミをまとめながら、少し困ったように笑った。
「そんなに落ち込まなくていいよ」
「でも……」
希望は俯いたまま、小さく首を振った。
「私、ちゃんと説明したつもりだったんです。採血の必要性も、治療の意味も……」
「うん」
「それなのに、何一つ伝わりませんでした」
中村は少し考えるように廊下の窓へ目を向けた。
窓の外では、細かな雨が静かに降り続いている。
「土屋さん」
「はい」
「さっきの説明、間違ってなかったよ」
希望は驚いて顔を上げた。
「え……?」
「検査の目的も、治療の根拠も全部合ってた」
中村は優しく笑う。
「でもね」
「患者さんが聞きたいことと、私たちが伝えたいことは、必ずしも同じじゃないんだ」
希望は黙って耳を傾けた。
「小林さんは、自分が病気だってことを誰より分かってる。社長として何万人もの社員を率いてきた人が、突然『患者』という立場になった。命令する側だった人が、命令される側になったんだよ」
中村は病室のドアを見つめた。
「だから採血が嫌なんじゃない。点滴が嫌なんでもない。自分の思いどおりにならない現実が、一番苦しいんだと思う」
希望はその言葉を何度も心の中で繰り返した。
__思いどおりにならない現実。
そんなふうに考えたことはなかった。
中村は続ける。
「だから最初に必要なのは、説明じゃなくて安心なんだよ」
「『この人なら話を聞いてもいい』って思ってもらえたら、そのあとに説明はちゃんと届く」
希望は静かに頷いた。
「……私は、早く納得してもらおうって焦っていました」
「新人ならみんなそう」
中村は笑った。
「私だって一年目は説明書みたいな話し方しかできなかったもん」
その言葉に、希望は少しだけ肩の力が抜けた。
ナースステーションへ戻る途中、中村がふと思い出したように振り返る。
「でもね、土屋さん」
「はい」
「あなたには、私にはないものがあるよ」
「え……?」
「患者さんの話を、本当に最後まで聞こうとするところ」
希望は目を丸くした。
「それって、看護師には一番大事な力だから」
「技術や話し方は、経験で身につく」
「でも、人を大切に思う気持ちは、教えても身につかない」
中村は照れくさそうに笑った。
「だから、自信なくさなくていい」
その言葉は、希望の胸の奥へ静かに染み込んでいった。
けれど、心のどこかでは、まだ消えない声があった。
――もし、あの夜の私に、この力があったなら。
――香織さんは、助かっていたのだろうか。
希望は無意識に、胸ポケットに入れた名札を握りしめた。
雨はまだ降り続いていた。だが、その冷たい雨音の向こうで、希望は看護師として本当に学ぶべきものの輪郭を、少しだけ見つけ始めていた。




