パラレル公園
おじさんは、毎朝、同じ時間に公園のベンチに座っていた。灰色のジャンパーに、擦り切れたズボン。缶コーヒーを右手で包み込み、まるで何かを待っているように、噴水の止まった池を見ている。私は最初、それを不気味だと思った。なぜなら、私が来ると必ず顔を上げるからだった。目だけが動く。顔は笑っていないのに、口元だけが少し持ち上がっている。私は、その男に見張られている気がした。
おじさんは、毎朝、同じ時間に公園のベンチの隅っこで爪を研いでいた。オレンジのジャンパーに、擦り切れたジーンズ。トマトジュースを左手で包み込み、私が近づくと、「おう」と言った。最初は無視していたが、ある日、雨が降ってきたとき、男は黙って傘を差し出した。私は戸惑いながら、その傘の中へ入った。ビニール傘は古く、骨が一本曲がっていた。だが、その狭さが妙に安心できた。おじさんは、「若い頃は競輪選手になりたかった」と話し始めた。
おじさんは、毎朝、同じ時間に公園のベンチで寝転んでいた。青いのジャンパーに、擦り切れたズボン。私はその姿を見るたび、胸の奥がざらついた。なぜか分からない。ただ、腹が立つのだ。おじさんは私に笑いかける。私は会釈を返す。しかし、その帰り道、コンビニのガラスに映った自分を見て、突然、気づく。あの男は、私が老いた姿にそっくりなのだ。猫背、眠そうな目、無精髭。私は舌打ちし、ガラスを蹴りたくなる。
ある朝、おじさんは言った。
「君、最近、寝れてないだろ」
私は心臓が跳ねた。なぜ分かるのかと思った。ある朝、おじさんは言った。
「君、最近、女とやってないだろう」
私は笑った。図星だった。仕事を辞めてから、昼夜が逆転していた。誰にも言っていない。親にも隠していた。だから、なぜ分かったのか、不思議だった。ある朝、おじさんは言った。
「君、最近、痩せただろ」
その瞬間、私は殴りたくなった。何を知ったような口を利いているのだと思った。こいつは、人の人生を覗き見している。そう感じた。おじさんは缶コーヒーを飲み、「俺もそうだった」と言う。私は、その「俺も」が耐えられなかった。
私は、おじさんの首を想像する。細い。少し押せば折れそうだった。冬の朝、誰もいない公園。缶コーヒーを落とし、驚いた顔をするおじさん。私はそのまま池へ沈める。濁った水が波打つ。ニュースでは、「身元不明の男性」とだけ流れる。私は家へ帰り、カレーを温める。テレビを見ながら食べる。だが、スプーンを持つ手が震えている。私はそこで初めて、自分が本当に人を殺したのだと理解する。
私は、おじさんとラーメンを食べる。駅前の古い店だった。おじさんはチャーシューを一枚くれた。「若い奴は食え」と笑った。私は少し泣きそうになる。店を出ると、おじさんは、「また明日な」と言った。その「また明日」が、自分の人生にまだ続きがあるように聞こえた。私は帰宅し、久しぶりに風呂へ入る。鏡を見る。少しだけ、自分の顔がマシに見えた。
私は、おじさんの歩き方を真似している自分に気づく。駅の階段を下りるとき、片足を少し引きずる癖まで似てきた。私は恐怖する。あんな風になりたくない。何も成し遂げず、朝から公園にいるだけの老人。だが同時に、私は知っている。おじさんは私より穏やかだ。私より他人に優しい。私より世界に絶望していない。だからこそ、私は苛立つ。負けている気がするからだった。
雪の日の次の日、公園には誰もいなかった。その次の日、公園には誰もいなかった。そのまた次の日、公園には誰もいなかった。
ベンチに、缶コーヒーだけが置かれていた。冷たくなっていた。私は周囲を見回す。すると、白い霧の向こうに、おじさんの背中が見えた。私は走る。追いつき、その背中を押す。おじさんは振り返る暇もなく、凍った池へ落ちる。鈍い音がした。私は立ち尽くす。雪だけが降っている。
ベンチに、缶ジュースだけが転がっていた。冷たくなっていた。私は周囲を見回す。すると、白い木の向こうに、おじさんの背中が見えた。私は走る。「おーい!」と叫ぶ。おじさんは振り返り、「お、来たか」と笑う。その瞬間、私は、自分がこの人に会いに来ていたのだと理解する。
ベンチに、気配だけが残っていた。そこだけ何故か冷たくなっていた。私は周囲を見回す。すると、白い山の向こうに、おじさんの背中が見えた。私は立ち止まる。その背中は、小さく、頼りなく、そして妙に自分に似ていた。私は急に、自分の未来を見せられた気がして、吐き気を覚える。しかし、目を逸らせなかった。雪の中で、おじさんだけが、静かに存在していた。
おじさんは頭を掻いてはこう言っていた。「お前さんをみていると過去の私みたいに思えてくる。お前さんも私を未来の自分と思っているに違いあるまい。多分、それはどっちも合っている。お互いにそれ以上に干渉しないから平気なのだろうが、この公園は次元が歪んでいるんだ。お前の方向、私の方向へと歪んでしまっている。それを直すためには、お前は、私を忘れないといけない」
私は立ち去りながら考えたのだった。忘れるなんてことはできようか。明らかに未来の私がそこに生活していたのだ。恐らくはホームレスではない。近いところに家があるのだろう。毎朝、同じ時間に公園のベンチに座っていた。灰色のジャンパーに、擦り切れたズボン。缶コーヒーを右手で包み込み、まるで何かを待っているように、噴水の止まった池を見ている。まるで、私のようだ?うん?誰の話をしていたのだろうか。この公園に誰がいたのだろうか。わからない。公園にはいつも誰もいない。いつも決まった時刻にベンチに座っている私がいるだけだ。




