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その名前は、もう届かない
――王太子視点――
書類に、彼女の署名はなかった。
それだけで、胸の奥が重くなる。
私は机に肘をつき、額を押さえた。
「……一度、話がしたい」
独り言のように漏らした言葉に、
補佐官は、わずかに目を伏せた。
「すでに隣国に入られています。
商会の正式な客人として」
――追放されたはずの女の名が、
今は「歓迎される存在」として扱われている。
私は、ようやく理解した。
謝罪とは、
相手がそこにいて初めて成立するものなのだと。
断罪の場で、
彼女は一言も弁明しなかった。
怒らず、泣かず、縋らず。
あれは、諦めではない。
見限りだったのだ。
今さら何を言えばいい。
「国のためだった」?
「誤解していた」?
どれも、遅すぎる。
窓の外で、鐘が鳴る。
新しい政策の発表。
新しい聖女の祈り。
だが私は知っている。
彼女の名を呼んでも、
もう振り向く人はいない。
――王太子は、理解した。
そして同時に、
何も取り戻せないことも。




