濡れ衣で左遷されたので、冷徹上司と結託して「動かぬ証拠」で反撃します。
カツン、とヒールの音が静まり返ったフロアに響く。
「杉崎さん、本当にごめんなさいぃ……! 私、止めようとしたんですけどぉ……」
目の前で顔を覆って泣いているのは、同期入社の天道エリカだ。嘘泣きだということは、彼女の指の隙間から覗く乾いた瞳を見ればすぐに分かった。
けれど、それを見抜けない人間が、この場における最高権力者だった。
「言い訳は聞かんぞ、杉崎」
本城部長の低い声が、私――杉崎真昼の心臓を冷たく叩く。
「重要顧客リストのデータ消失に、あまつさえ改竄の痕跡。ログには君のIDが残っている。これ以上の証拠があるか」
「待ってください。その時間は私、外回りの営業さんのサポートで電話中でした。操作なんてできません」
「口答えをするな!」
ダンッ、とデスクが叩かれる。フロア中の視線が私に突き刺さる。侮蔑、憐れみ、そして好奇心。
エリカが「私の確認不足ですぅ」と殊勝に頭を下げる横で、私は唇を噛み締めた。
やっていない。絶対に。
私のIDを使って誰かが操作したのだ。そして、そのパスワードを知り得る位置にいて、私を陥れる動機がある人間は一人しかいない。
チラリとエリカを見ると、彼女は部長の背後で、口の端だけを吊り上げて笑っていた。
「処分が決まるまで、明日から地下の倉庫整理に回ってもらう。営業事務としてのアクセス権は剥奪だ」
「……部長、それは不当です」
「決定事項だ。出て行け」
終わった。
三年積み上げてきた信頼も、完璧に管理してきた顧客データも、たった一つの安っぽい嘘で崩れ去った。
荷物をまとめろという無言の圧力を感じ、私は震える手でデスクの私物を箱に詰め始めた。
エリカが小声で囁いてくる。
「ね、真昼ちゃん。あの席、私がもらうね。久我さんの隣、ずっと狙ってたんだぁ」
彼女の狙いはそこか。
営業部不動のエース、久我蓮。容姿端麗だが氷のように冷たく、仕事の鬼と呼ばれる男。私の席は彼の補佐的な位置にあった。
反論する気力もなく、私は段ボールを抱えて立ち上がる。
その時だった。
「――無様だな」
氷点下の声が降ってきた。
久我蓮だ。完璧に仕立てられたスーツを着こなし、書類の束を片手に私を見下ろしている。
彼もまた、私を軽蔑しに来たのか。悔しさで視界が滲む。
「……すみません、邪魔ですよね。すぐに消えますから」
私が通り過ぎようとした瞬間、久我の革靴が、私の進路を塞ぐように動いた。
「どこへ行く」
「倉庫です。ご存じでしょう」
「俺は承認していない」
は?
顔を上げると、久我は不機嫌そうに眉間を寄せていた。
「俺の補佐ができるのは、この部署で杉崎、お前だけだ。勝手にいなくなることは許さん」
周囲がざわつく。久我がこんな風に他人を――特定の個人を評価する発言をするなんて聞いたことがない。
エリカが慌てて割って入る。
「で、でも久我さん! 杉崎さんは不正をしたんですよ? そんな人が近くにいたら迷惑じゃ……」
「黙っていろ」
久我の鋭い一瞥に、エリカがヒッと息を呑む。
彼は私に向き直ると、誰にも聞こえないほどの低い声で囁いた。
「やってないなら、証明しろ。……手は貸す」
え?
驚く私の段ボールの隙間に、彼は素早く何かを滑り込ませた。
小さな黒いUSBメモリ。
彼は何事もなかったかのようにデスクに戻り、冷たく言い放つ。
「何をしている。とっとと荷物を置いて仕事に戻れ。引継ぎ書なんて作る必要はない」
心臓が早鐘を打つ。
これは、諦めなくていいということか。
私は段ボールをデスクに叩き置いた。
「……失礼しました。業務に戻ります」
エリカの舌打ちが聞こえた気がした。でも、もう怖くない。
私は必ず暴く。この泥沼の底にある真実を。
◆
その夜、残業する私の手元にあるのは、久我から渡されたUSBメモリだった。
中身を確認して震えた。『システム管理者権限キー』。これがあれば、通常は閲覧できない深層ログにアクセスできる。
なぜ彼がこんなものを? 疑問は尽きないが、今は使うしかない。
オフィスには私と久我、そしてわざとらしく残っているエリカの三人だけ。
「まだやるのぉ? 無駄な抵抗なのに」
エリカが私のデスクに寄りかかり、わざとらしくため息をつく。
「真昼ちゃんさ、素直に消えてよ。久我さんにも迷惑かかってるの分かんない?」
「業務中よ、天道さん」
「あっそ。……あーあ、手元が狂っちゃった」
バシャッ!
冷たい液体が私の手にかかる。エリカが持っていた甘ったるいカフェラテが、私のキーボードと書類の上にぶちまけられていた。
「きゃーごめんなさぁい! でもこれで仕事できないね?」
PCの画面がノイズを走らせて消える。
最悪だ。物理的な破壊工作に出てくるとは。
「あなたね……!」
私が立ち上がりかけた時、隣から長い手が伸びてきた。
「使え」
久我が自分のノートPCを開き、私の前にスライドさせたのだ。
「く、久我さん!? それはチーフの……」
「消毒済みだ。汚い菌はついていない」
エリカの方を見もせずに言い放つ。エリカの顔が屈辱で赤く染まる。
「それと天道。備品損壊の始末書を出せ。今すぐにだ」
「で、でもぉ、わざとじゃ……」
「作成が終わるまで帰るな」
有無を言わせぬ圧力。エリカは涙目で自分の席に戻っていった。
私は借りたPCに向き直る。ほんのりと、彼が使っている高そうなコロンの香りがした。
(落ち着け、私)
久我のPCはハイスペックで、解析ソフトの動作も速い。
私はUSBを挿し、消されたデータの復元と、操作ログの深層解析を始めた。
見つけた。
データが改竄された日時のアクセスログ。IDは確かに『M.Sugisaki』。
だが、IPアドレスが違う。これは社内Wi-Fiのものだ。私はその時間、有線LANを使っていた。
(でも、これだけじゃ弱い……IPの偽装だと言われたら……)
不安がよぎる。エリカは狡猾だ。言い逃れの準備はしているはず。
その時、画面の端にメッセージウィンドウが開いた。久我からだ。
『物理MACアドレスを追え。ルーターの接続履歴と照合しろ』
ハッとする。そうだ、どの端末から繋いだかという物理的な記録は偽装しにくい。
私は指を走らせる。
ルーターのログ。該当時刻にアクセスしていた端末のMACアドレス。それを社内の資産管理台帳と突き合わせる。
――出た。
端末名:『Sales-Note-105』。貸与者は、天道エリカ。
彼女は自分のPCを使って、私のIDでログインし、データを消したのだ。
完璧な証拠。
私は震える手でデータを保存し、顔を上げた。
久我と目が合う。彼はほんの少しだけ、口角を上げたように見えた。
「準備はいいか」
声には出さず、唇の動きだけで彼はそう言った。
私は深く頷く。
明日は、全社システム導入の最終確認会議。役員も出席する大舞台だ。
そこが、処刑場になる。
◆
翌朝の会議室は、張り詰めた空気に包まれていた。
長テーブルの上座には役員たち。本城部長が進行役を務め、エリカがアシスタントとしてプロジェクターの横に立っている。
私は末席、というかドアの近くのパイプ椅子に座らされていた。本来ならあそこに立つのは私だったのに。
「――以上が、新システムの概要です。なお、旧データの移行における不整合ですが……」
エリカが悲しげな表情を作る。
「担当者の不手際により一部消失しましたが、私が徹夜で復旧させましたぁ」
役員たちが感心したように頷く。
「ほう、天道くんか。よくやった。それに比べて……」
冷たい視線が私に向けられる。
今だ。
私は立ち上がった。
「その報告に、重大な誤りがあります」
会議室がざわめく。本城部長が色めき立つ。
「杉崎! 発言権などないぞ。つまみ出せ!」
「重要事項です。データ消失の原因は不手際ではありません。故意による破壊です」
「往生際の悪い……!」
部長が警備を呼ぼうと受話器に手を伸ばした瞬間、
「聞きましょう」
凛とした声が響いた。久我だ。
彼は悠然と立ち上がり、私の隣に来て立った。
「現場の責任者として、この報告には違和感がある。彼女の証言を聞くべきだ」
「く、久我が言うなら……しかし」
役員の手前、無下にはできない。その隙を見逃さず、久我は懐からリモコンを取り出した。
「念のため、情報漏洩を防ぐために外部ネットワークを遮断しました。この部屋からデータは持ち出せないし、外部からの操作も不可能です」
エリカの顔色がサッと変わる。逃げ道を塞がれたことに気づいたのか。
私は久我に促され、自分のPCをプロジェクターに接続した。
「これが、事件当日の本当のアクセスログです」
スクリーンに映し出されたのは、エリカのPCを示すMACアドレスと、そこから私のIDでログインされた記録。
「え……な、なにこれ? バグじゃないですかぁ?」
エリカが甲高い声を上げる。
「バグではありません。これはルーターの物理記録です。そしてここを見てください」
私は畳み掛ける。
「この操作が行われた時間の5分後、天道さんのPCから『データ削除ツール』のダウンロード履歴があります。復旧作業をしたのではなく、消した張本人だという証拠です」
会議室が静まり返る。
エリカは脂汗を流しながら、引きつった笑みを浮かべた。
「ち、違います! 杉崎さんが私のPCを勝手に使ったのよ! そう、罠です!」
苦しい言い訳。だが、ここで折れるわけにはいかない。
「いいえ。その時間、私は外回りの営業担当と通話中でした。オフィスの監視カメラにも、私が電話をしている姿と、あなたが自席でPCを操作している姿が映っているはずです」
私がそう言うと、エリカはその場にへたり込んだ。
部長が真っ赤な顔で怒鳴る。
「天道! これはどういうことだ!」
「ち、ちが……私はただ、真昼ちゃんが偉そうだから、ちょっと困らせてやろうと……」
「それが会社にどれだけの損害を与えるか分かっているのか!」
役員たちの視線も、称賛から軽蔑へと一瞬で変わった。
エリカは震えながら、救いを求めるように久我を見た。
「く、久我さん……助けて……私、久我さんのために……」
久我は氷のような瞳で彼女を見下ろした。
「俺のため? 俺の有能な補佐を陥れ、業務を停滞させたのがか?」
「だ、だって、あんな地味な女より私の方が……」
「目障りだ。消えろ」
その一言で、勝負は決した。
エリカは泣き叫びながら、入ってきた警備員に連れ出されていった。本城部長も管理責任を問われ、青ざめている。
「……すまなかった、杉崎くん」
役員の一人が私に頭を下げた。
「君のような優秀な社員を失うところだった。処分の撤回と、今回の功績に対する正当な評価を約束しよう」
私は深く一礼した。
「ありがとうございます。……ですが、この解決は私一人の力ではありません」
隣を見る。久我はいつもの涼しい顔に戻っていた。
◆
騒動が落ち着いた夕方。
私は久我に呼び出され、屋上のベンチに座っていた。
「ありがとうございました、久我さん。あのUSBがなければ無理でした」
「……お前が優秀だからだ。俺は道具を渡したに過ぎない」
彼は缶コーヒーを私に手渡すと、少し気まずそうに視線を逸らした。
「それに、俺が困る」
「え?」
「お前がいなくなると、俺の仕事が回らない。……コーヒーの淹れ方も、書類のまとめ方も、お前以外じゃ調子が狂う」
それは、仕事上の利便性の話だろうか。
少しだけ落胆しかけた時、彼の手が不意に私の髪に触れた。
驚いて見上げると、久我の耳が微かに赤い。
「それと、他の部署に行かれると……目が届かなくなる」
「目が届く?」
「……お前が黙々と頑張っているのを見るのが、悪くないと思っていると言っているんだ。察しろ」
心臓が跳ねた。
あの冷徹な久我チーフが? 私を?
「あの、それって……」
「次の人事異動で、お前を俺の専属補佐にする申請を出した。もう逃がさん」
彼は強い瞳で私を見つめ、不器用に笑った。
「覚悟しておけ。公私ともに、こき使ってやるからな」
その言葉に含まれた甘い響きに、私は熱くなった頬を隠しながら頷いた。
「……はい、喜んで。久我チーフ」
冤罪から始まった最悪の日々は、思いがけない溺愛の日々の始まりに変わったのだった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
「スッキリした!」「久我さん最高!」と思っていただけたら、
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