混沌(3)
【セラフィナ・フォン・オルディナシス】
やばいね・・・もう魔力が残っていない。
肩で息をしながら、セラフィナは自分の内側を探った。いつもならば満ちているはずの魔力が、底をついている。
でも、全くあの悪魔にはダメージが入っていないように見える。魔力を限界まで注ぎ込んだ攻撃を何度も叩き込み、体の全てを削り切るほど戦い続けた。それでも悪魔はそこに立っている。装甲に走った僅かな亀裂を除けば、ほとんど無傷と言っていい。
しかも、こっちは左腕の骨がダメになっている。戦闘の熱の中で痛みを感じる余裕すらなかったが、今になって鋭い痛みが左腕全体を貫いている。力を入れようとしても入らない。剣を握る右手だけで、何とか体勢を保っている状態だ。
早く、ルーベルト来てくれ。
そうしないと多分私は此処でアリアと仲良く魔物に変化するかも。
自嘲気味にそう思いながらも、セラフィナは折れた左腕をぶら下げたまま、ぎりぎりの意地で剣を構え続けた。
「アレレ?セラフィナチャン?ニブクナッタネ。ウツワカドウカ、タシカメテクレルノ?」
セラフィナは口の中の血を床に叩き付けた。それは公爵家の令嬢らしからぬ行動だった。この瞬間だけ、セラフィナは一人の戦士となった。
「うっせ。」
「ソウカ、ソウカ。ソレデモ、タツノカ」
「当たり前よ」
セラフィナは荒い息をつきながら、それでも剣を下ろさなかった。
左腕が使えない。魔力は底をついている。
それでも、倒れるわけにいかない。アリアが後ろにいる。
あの子を守らなければならない。
セラフィナは血の滲んだ唇を噛み締め、悪魔を真っ直ぐに睨み続けた。
「セラフィナ・・・さん・・・」
背後からアリアの小さな声が聞こえた。
「黙ってて。動かないで」
セラフィナは視線を前に向けたまま、静かに言った。
「で、でも・・・」
「大丈夫。まだ立ってるから」
嘘だ。全然大丈夫じゃない。
左腕は動かない。魔力はない。体中が悲鳴を上げている。
だが、それをアリアに悟らせるわけにはいかなかった。
悪魔がゆっくりと近づいてくる。焦らない。急がない。
まるで、こちらがもう終わりだと分かっているかのように。
「オワリダ、セラフィナ」
「まだよ」
「ナニガ、マダダ。オマエハモウ、タタカエナイ」
「・・・そうね。確かに、一人じゃ無理かもしれない」
セラフィナは静かに答えた。
「デハ、オトナシク・・・」
「でも、一人じゃないから」
「待たせた」
誰かが飛び込んできた。ルーベルトだ。遅れて響いてくる足音が、ここまで全力で駆け抜けてきたことを物語っている。
全力で走ってきたのだろう。
息が乱れている。
それだけの距離を、それだけの速さで駆け抜けてきたのだ。普通の人間ならば、その場に膝をついていてもおかしくない有様だった。
何なら、ルーベルトの職業は魔法使いだ。普通の魔法使いなら、此処までの身体能力を出せないだろうに。彼は自身の魔力を消費して、身体能力を底上げするという荒業を行って、ここまで来たのだ。でも、それは相当な耐力と精神力が必要だ。
それでも、その目は冷静だった。
飛び込んできた瞬間から、ルーベルトの視線は既に戦場全体を素早く捉えていた。悪魔の位置、セラフィナの状態、室内の地形、瓦礫の散らばり方。乱れた息とは裏腹に、その瞳は驚くほど静かに、冷静に、全ての情報を処理していた。
「セラフィナ、怪我の状態は?」
「左腕が折れてる。魔力は空」
「分かった。下がって」
「はいよ」
ルーベルトの声は穏やかだったが、有無を言わせない強さがあった。
セラフィナはゆっくりと後退し、アリアの隣に並んだ。
「セラフィナさん、腕が・・・」
「気にしないで。今はルーベルトに集中して」
アリアは不安そうな顔をしていたが、セラフィナの言葉に頷いた。
「ルーベルト・・・ちょっと待って」
「何?」
「あの悪魔、装甲が異常に硬い。魔力を込めた攻撃じゃないと効かない。そして、核がどこにあるか、まだ分かってない」
「核の場所か」
「魔力感知で探せる?」
「やってみる」
ルーベルトは魔力感知を発動させた。
悪魔の内部の魔力の流れを丁寧に探っていく。表面を流れる魔力だけを見るのではない。もっと深く、もっと細かく。悪魔の体内を巡る魔力の一筋一筋を、指でなぞるように丁寧に追っていった。どこに魔力が集中しているのか。どこに流れの澱みがあるのか。あの分厚い装甲の内側で、魔力はどのように循環しているのか。
「・・・あった」
「どこ?」
「胸部の中心。装甲が最も厚い部分だ」
「なるほどね。だから今まで効かなかったのか。そこに向けて、全力で攻撃を集中させれば・・・」
「うん。倒せると思う」
ルーベルトは剣に魔力を込め始めた。
その魔力の量が、みるみる増していく。
「オマエガ・・・ルーベルトカ?」
悪魔がルーベルトを見た。それまで瀕死のセラフィナを獲物として見定めていた視線が、ゆっくりとルーベルトへと向けられた。
「そうだよ」
「オモシロイ、マリョクヲ、モッテイル」
「光栄だね。でも、それで終わりにする」
ルーベルトが踏み込んだ。
地面を蹴る音が鋭く響く。一歩目で間合いを詰め、二歩目で体勢を整える。魔力感知で得た情報を全て頭の中に叩き込みながら、最適なルートへ向かっていく。
悪魔の体格、重心の位置、魔力の流れ。そして何より、セラフィナが命がけで刻んだあの僅かな傷跡。全ての情報が瞬時に処理され、答えが弾き出される。正面からの攻撃は無意味だ。この悪魔の装甲を真っ向から突き崩せるほどの力は、今の僕にはない。
悪魔の装甲の継ぎ目。
そこを狙えば、少しでも効率よくダメージを与えられる。
「はぁっ!」
魔力を込めた一撃が、悪魔の装甲に叩き込まれた。
先ほどセラフィナがつけた亀裂に向かって、精確に。
衝撃が、腕全体に伝わってきた。
今までとは明らかに異なる手応えだった。弾き返されるのではなく、確かに食い込んでいく感覚。亀裂がじわりと広がり、装甲の内側へと刃が届いていくのが分かる。悪魔の体内を流れる魔力が、初めて大きく乱れた。
「グッ・・・」
「効いてるね」
ルーベルトは即座に連撃を放つ。引いた剣を、間髪入れずに再び叩き込む。最初の一撃で生まれた手応えが、次の攻撃への確信へと変わっていた。迷いは一切ない。考える必要もない。体が、魔力が、全て同じ一点を向いている。
一撃、また一撃。右から、左から、下から、角度を変えながら剣を叩き込み続ける。
同じ箇所を狙い続けることで、亀裂が少しずつ、しかし確実に広がっていくのが分かった。一撃ごとに手応えが増していく。
「コノォ・・・」
悪魔が激しく腕を振るった。その一振りで周囲の空気が圧縮され、衝撃波となって広がっていく。直撃すれば、それだけで体が砕けるような一撃だ。
ルーベルトは素早く後退して回避した。荒い息を整えながら、ルーベルトは連撃で生まれた亀裂の状態を確認しようと悪魔を見据えた。装甲の傷は確実に深くなっている。魔力の乱れも、先ほどより明らかに大きい。
「さすがに速い。でも、仲間が傷ついた分、ちゃんと返すよ」
ルーベルトの目は静かだった。
怒りでも、焦りでもない。
ただ、静かな決意。この悪魔を倒す。それだけだ。
華々しい覚悟でも、悲壮な決意でもない。ただ淡々と、しかし揺るぎなく、その一点だけがルーベルトの芯に根を張っていた。
剣を握り直す手に、力が込められた。
次の瞬間には、再び踏み込んでいた。
「コノチカラ・・・ドコカラクル」
「仲間から、かな?セラフィナは骨が折れても立ち続けた。アリアは恐怖の中で生き続けた。リュートは今も別の敵と戦ってる」
ルーベルトは剣を構えた。
「だから、僕が倒す。それだけのことだよ」
「キレイゴトヲ・・・」
「綺麗事で十分だよ」
ルーベルトが再び踏み込んだ。
魔力を最大限に込めた一撃が、亀裂の中心へと叩き込まれる。セラフィナが命を削って刻み込み、ルーベルト自身が連撃で広げ続けたあの亀裂。その中心へと、光を帯びた剣先が吸い込まれるように迫っていった。
「グアアアアアアア!!」
装甲が大きく砕けた。連撃で広げ続けた亀裂が、ついに限界を超えた。魔力を最大限に込めた一撃がその中心を貫いた瞬間、まるで堰が決壊するように、分厚い装甲が内側から爆ぜた。
胸部の核が、露わになる。
「今だ!」
「分かってる!」
ルーベルトは瞬時に魔力を核へと集中させた。考える間もなかった。核が露わになったその瞬間、体が先に動いていた。好機は一瞬だ。悪魔が体勢を立て直す前に、全てを終わらせなければならない。
剣先が核へと届いた瞬間、眩い閃光が室内を白く染め上げた。衝撃が腕を伝い、肩を貫き、全身を揺さぶる。魔力と魔力がぶつかり合い、激しい奔流となって四方へと核は弾け飛んだ。
「アア・・・アアア・・・」
悪魔の動きが完全に止まった。悪魔は崩れるように倒れた。
その様子を見ながら、ルーベルトはセラフィナとアリアがいる所に向かって行った。
「やっと終わった?」
「多分ね」
「腕は?」
「まだ痛い。てか、ルーベルトって魔法使いだよね?何でこんな戦士みたいな動きができるのよ」
「う~ん・・・わかんない」
「分かんないって・・・あなたね。でも、まあいいか。助かったし」
セラフィナは呆れたように息を吐きながら言った。
「それより、腕を治さないと」
ルーベルトはセラフィナの左腕を恐る恐る確認した。明らかに、おかしな方向に曲がっている。
「・・・これは、ひどいね」
「見れば分かるわよ。」
「治癒魔法、僕はあまり得意じゃないけど・・・応急処置くらいはできる」
「じゃあお願い」
ルーベルトは慎重に治癒魔法を発動させた。骨が少しずつ、元の位置に戻っていく。
「・・・痛い?」
「当たり前でしょ。骨折れてんのよ」
「なんか、当たり強くない?」
ルーベルトは丁寧に治癒魔法を続けた。しばらくして、腕の歪みが少しずつ解消されていくのが分かった。
「とりあえず、これで動かせるくらいにはなったと思う。完全に治すには、ちゃんとした治癒師が必要だけど」
「ありがとう。何とか動く」
セラフィナは左腕をゆっくりと動かした。
鋭い痛みはあるが、先ほどよりはずっとマシだ。
「セラフィナさん・・・大丈夫ですか?」
アリアが不安そうに覗き込んでいた。
「大丈夫。戦士ならよくあることよ」
「よくあることじゃないよ・・・それ以前に公爵家のご令嬢が最前線で戦っていること自体、可笑しいけど」
ルーベルトが静かにツッコミを入れた瞬間、後ろで物音がした。
悪魔がまた立ち上がったのだ。しかし、何か様子が変だ。
「まだ生きていたか・・・」
悪魔は口を開いた。
「捕食の頂点」




