通話の向こうの自分
夜のオフィスは、電話の呼び出し音だけが規則正しく響いていた。
篠原悠真は、片手にペン、片手に受話器を持ち、淡々とクレームを処理している。
声は自分のものだが、感情は失われ、ただ口を動かすだけの機械のようだった。
「はい、恐れ入りますが、再度ご確認いただけますでしょうか……」
窓の外では冷たい雨が打ちつけ、街灯の光が水滴に反射している。
その光景すら心に届かず、孤独だけが胸を覆う。
帰宅し、テレビをつけるが音はほとんど耳に入らない。
冷蔵庫のランプが点滅するだけの部屋で、悠真はベッドに沈む。
ふと、昨日の自分の行動や選択が頭をよぎる。
――このままでいいのか、俺は本当に満足しているのか。
スマホが震えた。非通知。
手が無意識に伸び、着信を押す。
「……もしもし」
低く眠そうな声。
しかし聞き覚えがある。耳慣れた、自分の声。
「……悠真、元気か?」
「……」
「昨日の夜、コンビニ寄っただろ。あの弁当、あんまり美味くなかったな」
確かに自分は昨夜コンビニで弁当を買い、美味しくなかったと思った。
どうやって知ったのか――いや、そんなことを考える余裕もない。心臓が跳ねた。
「冗談だろ……」
悠真は笑おうとして、声が震えた。
しかし向こうの声は落ち着き払っている。
「冗談じゃない。俺だ。あのとき音楽を諦めなかった俺だ」
胸の奥で微かにざわつく感情が芽生える。
――「俺の人生は、本当にこれでよかったのか」
答えは返ってこない。ただ、通話の余韻が部屋の空気に影を落とした。
⸻
翌日、悠真は声を無視しようとした。
しかし昼休み、スマホが震える。非通知。
「……またお前か」
声は自分そのものだが、どこか遠く、届きにくい。
胸の奥に小さな痛みが走る。
向こうの悠真は淡々と、しかし鮮明に語る。ステージの話、楽曲の完成の過程、知らないはずの出来事。
心の中で、昨日までの日常と記憶が少しずつ揺らぐ。
デスクの位置が微妙に変わり、メール文面も違って見える。
同僚の呼び方や微妙な表情も、何か違う。
⸻
数日通話が続いた。自分と話すというのは不思議な感覚で、一番の理解者を得たかのようだった。
「なあ、悠真。もし俺がそっちに行ったら……俺も眠れるかな?」
「どういうことだよ。」
「俺の世界は、静かじゃない。いつも誰かの声がして、光が強すぎて……眠れない。」
その声には疲労が滲んでいた。
「ライブが終わっても歓声が残る。寝ても、脳の奥で鳴ってるんだ。
……お前の世界は、夜がちゃんとあるんだな。」
悠真は答えられなかった。
相手の言葉が、まるで自分の喉を通って出てきたように感じたからだ。
「俺はな……成功した。でも、そのぶん、いろんなものを捨てた。家族も、恋人も、友達も。音を選んだ代わりに、静けさを全部失った。」
言葉が途切れる。
通話の向こうで、息を震わせるような小さな笑い声が混じる。
「お前が羨ましいよ。誰にも見られず、誰にも求められず、ただ生きて、眠って、朝を迎えられる。」
悠真は無意識に、窓の外を見た。
街灯の光が遠く、静かな雨音が夜を包む。
自分にとって何の変哲もない光景が、向こうの悠真にとっては、もう取り戻せない“穏やかな世界”だったのだ。
「なあ、悠真。」
向こうの声が低く、少し震えていた。
「もし、俺がそっちへ行ったら……俺も眠れるかな?」
悠真は答えられなかった。
胸の奥がひどく痛んだ。
その声が、自分自身の喪失のように聞こえたから。
「……俺は、そんなつもりじゃ――」
そう言いかけたとき、スマホの画面が一瞬、暗転した。
次の瞬間、壁の時計の針が一拍遅れたように止まり、部屋の空気がわずかに歪んだ。
鏡に映る自分の顔が、向こうの悠真の表情に重なり始めていた。
悲しみを滲ませたまま、こちらを見ている。
「怖がらないでくれ。」
向こうの声は優しかった。
「お前の世界を奪いたいわけじゃない。ただ……一度でいい、静けさを感じたいんだ。」
涙が一筋、鏡の中の“もう一人”の頬を伝った。
その涙が本当に鏡の中なのか、自分の頬なのか、もう分からなかった。
スマホを握る手が震える。
「お前は、俺か?」
悠真が問うと、向こうは静かに笑った。
「そうだ。俺は、お前が諦めた夢そのものだ。
でも、夢の中にいると、もう“生きる”って感覚がないんだよ。」
通話が途切れたあと、部屋の中には静けさが戻った。
だがその静けさは、もう自分のものではないように感じた。
――まるで、向こうの悠真がこの空間のどこかに立っているようだった。
悠真はその夜、初めて理解した。
向こうの自分は怪物ではない。
ただ、夢の光に焼かれて、もう眠れなくなった人間なのだと。
⸻
夜、部屋は静寂に包まれ、時計の秒針だけが音を立てる。
スマホが震える。悠真は恐る恐る通話ボタンを押す。
「……悠真」
声は自分そのものだが、微妙に揺れている。
鏡を見ると、自分の顔が向こうの悠真の表情を帯びている。
唇の端がわずかに上がり、瞳がこちらを覗き込む――恐怖と違和感が胸を突き抜ける。
心臓が高鳴る。息が浅くなる。
「怖がるな……俺はお前を消すつもりじゃない。ただ……少しだけ安らぎを借りたいんだ。」
鏡の中の笑みは微妙にずれ、手を伸ばすと鏡の向こうの手も追う。
記憶や日常が霧のように揺れ、向こうの悠真の存在で上書きされていく感覚。
過去の夜、自分が選ばなかった夢、音楽を諦めた日の孤独……
それらが一瞬で思い出となり、痛みとなる。
光が瞬き、蛍光灯が黒く滲む。
悠真は悟る――境界はもう、揺らいでいる。
⸻
午前零時。非通知の着信。
「……悠真」
鏡を見ると、向こうの悠真の表情が自分の顔に重なる。
手を伸ばすと、鏡の向こうも同時に追う。
自分が他人に操られる感覚に胸が締め付けられる。
「入れ替わろう……」
囁きが胸を貫く。悠真は叫ぶ。
「俺は俺だ!」
しかし、記憶と感覚は霧の中で溶け、体の座標がわからなくなる。
次に目を開けたとき、鏡に映るのは向こうの悠真の笑顔。
悠真の意識は霧に漂い、現実世界にはもう存在していない。
⸻
朝日が差し込む。部屋は静かで、すべてが平穏に見える。
だが家具や匂いの微かな違和感が、悠真の不在を示す。
鏡に映るのは向こうの悠真の顔。
笑みの奥に深い哀しみが潜んでいる。
ギターケースだけが、悠真の存在の痕跡として残る。
窓の外、雨音が静かに響く。
悠真の意識は霧の中で揺れ、かすかな声だけが響く。
「ここに、いた……」
誰にも届かない。
しかし確かに存在していた――それが、この物語の静かで切ない余韻だった。
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