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通話の向こうの自分

作者: 愛知
掲載日:2025/10/12

夜のオフィスは、電話の呼び出し音だけが規則正しく響いていた。

篠原悠真は、片手にペン、片手に受話器を持ち、淡々とクレームを処理している。

声は自分のものだが、感情は失われ、ただ口を動かすだけの機械のようだった。


「はい、恐れ入りますが、再度ご確認いただけますでしょうか……」


窓の外では冷たい雨が打ちつけ、街灯の光が水滴に反射している。

その光景すら心に届かず、孤独だけが胸を覆う。


帰宅し、テレビをつけるが音はほとんど耳に入らない。

冷蔵庫のランプが点滅するだけの部屋で、悠真はベッドに沈む。

ふと、昨日の自分の行動や選択が頭をよぎる。

――このままでいいのか、俺は本当に満足しているのか。


スマホが震えた。非通知。

手が無意識に伸び、着信を押す。


「……もしもし」


低く眠そうな声。

しかし聞き覚えがある。耳慣れた、自分の声。


「……悠真、元気か?」


「……」


「昨日の夜、コンビニ寄っただろ。あの弁当、あんまり美味くなかったな」

確かに自分は昨夜コンビニで弁当を買い、美味しくなかったと思った。

どうやって知ったのか――いや、そんなことを考える余裕もない。心臓が跳ねた。


「冗談だろ……」


悠真は笑おうとして、声が震えた。

しかし向こうの声は落ち着き払っている。

「冗談じゃない。俺だ。あのとき音楽を諦めなかった俺だ」


胸の奥で微かにざわつく感情が芽生える。

――「俺の人生は、本当にこれでよかったのか」


答えは返ってこない。ただ、通話の余韻が部屋の空気に影を落とした。



翌日、悠真は声を無視しようとした。

しかし昼休み、スマホが震える。非通知。


「……またお前か」


声は自分そのものだが、どこか遠く、届きにくい。

胸の奥に小さな痛みが走る。

向こうの悠真は淡々と、しかし鮮明に語る。ステージの話、楽曲の完成の過程、知らないはずの出来事。


心の中で、昨日までの日常と記憶が少しずつ揺らぐ。

デスクの位置が微妙に変わり、メール文面も違って見える。

同僚の呼び方や微妙な表情も、何か違う。



数日通話が続いた。自分と話すというのは不思議な感覚で、一番の理解者を得たかのようだった。

「なあ、悠真。もし俺がそっちに行ったら……俺も眠れるかな?」


「どういうことだよ。」


「俺の世界は、静かじゃない。いつも誰かの声がして、光が強すぎて……眠れない。」

その声には疲労が滲んでいた。

「ライブが終わっても歓声が残る。寝ても、脳の奥で鳴ってるんだ。

 ……お前の世界は、夜がちゃんとあるんだな。」


悠真は答えられなかった。

相手の言葉が、まるで自分の喉を通って出てきたように感じたからだ。


「俺はな……成功した。でも、そのぶん、いろんなものを捨てた。家族も、恋人も、友達も。音を選んだ代わりに、静けさを全部失った。」


言葉が途切れる。

通話の向こうで、息を震わせるような小さな笑い声が混じる。

「お前が羨ましいよ。誰にも見られず、誰にも求められず、ただ生きて、眠って、朝を迎えられる。」


悠真は無意識に、窓の外を見た。

街灯の光が遠く、静かな雨音が夜を包む。

自分にとって何の変哲もない光景が、向こうの悠真にとっては、もう取り戻せない“穏やかな世界”だったのだ。


「なあ、悠真。」

向こうの声が低く、少し震えていた。

「もし、俺がそっちへ行ったら……俺も眠れるかな?」


悠真は答えられなかった。

胸の奥がひどく痛んだ。

その声が、自分自身の喪失のように聞こえたから。


「……俺は、そんなつもりじゃ――」

そう言いかけたとき、スマホの画面が一瞬、暗転した。

次の瞬間、壁の時計の針が一拍遅れたように止まり、部屋の空気がわずかに歪んだ。

鏡に映る自分の顔が、向こうの悠真の表情に重なり始めていた。

悲しみを滲ませたまま、こちらを見ている。


「怖がらないでくれ。」

向こうの声は優しかった。

「お前の世界を奪いたいわけじゃない。ただ……一度でいい、静けさを感じたいんだ。」


涙が一筋、鏡の中の“もう一人”の頬を伝った。

その涙が本当に鏡の中なのか、自分の頬なのか、もう分からなかった。


スマホを握る手が震える。

「お前は、俺か?」

悠真が問うと、向こうは静かに笑った。

「そうだ。俺は、お前が諦めた夢そのものだ。

でも、夢の中にいると、もう“生きる”って感覚がないんだよ。」


通話が途切れたあと、部屋の中には静けさが戻った。

だがその静けさは、もう自分のものではないように感じた。

――まるで、向こうの悠真がこの空間のどこかに立っているようだった。


悠真はその夜、初めて理解した。

向こうの自分は怪物ではない。

ただ、夢の光に焼かれて、もう眠れなくなった人間なのだと。



夜、部屋は静寂に包まれ、時計の秒針だけが音を立てる。

スマホが震える。悠真は恐る恐る通話ボタンを押す。


「……悠真」


声は自分そのものだが、微妙に揺れている。

鏡を見ると、自分の顔が向こうの悠真の表情を帯びている。

唇の端がわずかに上がり、瞳がこちらを覗き込む――恐怖と違和感が胸を突き抜ける。


心臓が高鳴る。息が浅くなる。

「怖がるな……俺はお前を消すつもりじゃない。ただ……少しだけ安らぎを借りたいんだ。」


鏡の中の笑みは微妙にずれ、手を伸ばすと鏡の向こうの手も追う。

記憶や日常が霧のように揺れ、向こうの悠真の存在で上書きされていく感覚。


過去の夜、自分が選ばなかった夢、音楽を諦めた日の孤独……

それらが一瞬で思い出となり、痛みとなる。


光が瞬き、蛍光灯が黒く滲む。

悠真は悟る――境界はもう、揺らいでいる。



午前零時。非通知の着信。


「……悠真」


鏡を見ると、向こうの悠真の表情が自分の顔に重なる。

手を伸ばすと、鏡の向こうも同時に追う。

自分が他人に操られる感覚に胸が締め付けられる。


「入れ替わろう……」


囁きが胸を貫く。悠真は叫ぶ。

「俺は俺だ!」


しかし、記憶と感覚は霧の中で溶け、体の座標がわからなくなる。

次に目を開けたとき、鏡に映るのは向こうの悠真の笑顔。

悠真の意識は霧に漂い、現実世界にはもう存在していない。



朝日が差し込む。部屋は静かで、すべてが平穏に見える。

だが家具や匂いの微かな違和感が、悠真の不在を示す。


鏡に映るのは向こうの悠真の顔。

笑みの奥に深い哀しみが潜んでいる。

ギターケースだけが、悠真の存在の痕跡として残る。


窓の外、雨音が静かに響く。

悠真の意識は霧の中で揺れ、かすかな声だけが響く。

「ここに、いた……」


誰にも届かない。

しかし確かに存在していた――それが、この物語の静かで切ない余韻だった。

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