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私の生徒は劣等生ではない ~教育係がつけた真の成績表~

作者: 藍沢 理
掲載日:2025/10/04

 評議会議事堂は、黄金宮殿の東翼にある。


 高い天井、石造りの円形ホール。中央の演壇を取り囲むように、三段の階段状の席が配置されている。国王陛下が崩御されてから三日、今日ここで王位継承会議が開かれることになった。


 議場の中央、演壇の前に三人の王子が並んで立っていた。第一王子フリードリヒ、第二王子ヴィルヘルム、そして第三王子レオンハルト。


 私の机には、オットー・シュタインと名札が置かれている。議場の隅、教育係専用の席だ。五十歳を過ぎた体に固い木の椅子は厳しいが、今日という日のために、この席を確保した。


 貴族たちの視線は、当然のように最初の二人に注がれていた。フリードリヒは堂々としていた。三十二歳、軍事的才能に長け、貴族からの支持も厚い。ヴィルヘルムは知的な雰囲気を纏っていた。三十歳、財政に明るく、商人ギルドとの繋がりが強い。


 そしてレオンハルト――誰も見ていない。見られているとすれば、嘲笑の対象として、憐憫の眼差しで、軽蔑の視線で。


 二十歳になったばかりの彼は、何も言わず、ただそこに立っていた。表情を消し、何も考えていないような空っぽの目で。十年前から変わらない、あの演技を続けながら。


 議場の後方からざわめきが聞こえてきた。


「第三王子殿下が王位継承の候補とは、笑えん」

「悪質な冗談か? 一度として及第点を取ったことのない劣等生だぞ」


 そんな中、前方の席に座る一人の貴族――エーリヒ子爵が、僅かに眉をひそめていた。四十代半ば、元軍人の彼は、じっとレオンハルトを見つめている。あの男は何かに気づいているのかもしれない。


 議長が重々しく立ち上がった。白い髭を蓄えた老貴族。ハインリヒ伯爵だ。


「では、王位継承会議を開始する。国王陛下の崩御に伴い、我々は新たな王を選出せねばならない。候補者は三名。第一王子フリードリヒ殿下、第二王子ヴィルヘルム殿下、第三王子レオンハルト殿下」


 三人目の名前を読み上げた時、わずかに笑い声が漏れた。


「各王子の教育記録を確認する。まずは第一王子――」


 私は手を挙げた。視線が一斉にこちらへ向くと、議長が首を傾げた。


「オットー教授。何か?」

「発言を許可していただきたい。第三王子殿下の教育記録について、重大な報告がある」

「重大な報告? 何だそれは」

「十年間守ってきた、殿下の秘密です」


 私は演壇へ向かって歩き出した。石畳の床に革靴の音が響く。階段を上り、演壇に立つと、議場全体が見渡せた。三段の席に座る貴族たち、中央の三人の王子、そして――第二王子ヴィルヘルムが、僅かに身を乗り出していた。


「私は、第三王子殿下の専任教育係を務めてきた。十年間、殿下の教育に携わり、その成長を見守ってきた。そして私は、十年間、ある秘密を守ってきた」


 ざわめきが広がった。


「第三王子殿下の真実を」


 議場が静まり返った。



 母の部屋。その扉の前に僕は立っていた。


 夜の十時を過ぎている。廊下には誰もいない。月明かりが窓から差し込んで、石畳の床を照らしていた。中から声が聞こえてくる。侍女長の声だ。


「第三王妃様は、危険な立場におられます。第一王妃様の派閥が、力を増しています。もし第一王子が王位を継ぐことになれば……」

「わかっています。私は、ただ……レオンハルトが無事に育ってくれれば、それでいいのです」


 母の声は震えていた。僕はそっと扉から離れた。足音を立てないように自室へ戻り、部屋に入って扉を閉める。ベッドに座り膝の上で拳を握りしめた。


 母が危険だ。理由はわかる。王位継承の争い、権力闘争、第一王妃様による邪魔者の排除。もし僕が優秀だと示せば、第一王子や第二王子の脅威になる。そうなれば、母が標的にされるだろう。


 決めた。母を守るために、僕は馬鹿になろう。誰からも脅威と思われない愚かな王子に。そうすれば、母は安全だ。


 翌日の深夜、オットー先生の書斎を訪ねた。


「先生、僕は馬鹿になります」


 先生は驚いた顔をしたが、理由を話すと理解してくれた。先生は二冊の帳簿を取り出した。赤い革表紙と黒い革表紙の、二冊の帳簿を。


「わかった。ただし、条件がある。一冊は公式記録として提出する『劣等生』の成績。もう一冊は、私だけが保管する『真実』の成績だ。お前の本当の実力を記録しておく。いつか、必要な時が来るかもしれない」

「お願いします、先生」


 これで準備は整った。明日から、僕は愚かな王子になる。母のために。



 昨晩、私の部屋にレオンハルトが訪れたときは驚いた。まだ十歳だというのに、賢い子だ。


「母を守るために馬鹿になる、か……」


 最初の授業は第三教室での歴史だった。私は黒板に年表を書き、初代国王について説明した後、生徒たちに問いかけた。何人かの生徒が手を挙げた。レオンハルトも手を挙げている。私は彼を指名した。


「レオンハルト殿下、答えてください」

「えっと……カール大公?」


 教室が静まり返った。


「違うぞ。カール大公は三代前の公爵だ」

「あ、ごめんなさい。忘れました」


 彼は申し訳なさそうに座った。周りの生徒たちが小さく笑う。見事な演技だった。



 その夜、レオンハルトが尋ねてきた。私の書斎で、彼は自作のノートを広げた。びっしりと書き込まれた文字、図表、年表。彼の目は好奇心に満ちて輝いていた。


「先生、初代国王フリードリヒ一世が七つの諸侯を統合した手法について、もっと詳しく知りたいんです」


 私は正直、驚いた。彼はまだ十歳だというのに。


「お前……昼間の授業、完全に理解していたのか」

「はい。でも、もっと深く学びたいんです」


 彼は身を乗り出した。


「特に、東方の商業ギルドとの同盟について。あの時代の経済構造が、政治にどう影響したのか知りたいです」


 私は二冊の成績表を開いた。赤い表紙の公式記録には歴史三十点と記し、黒い表紙の真実の記録には、満点に加えて「独自研究により教科書を超えた理解」と記載した。


 レオンハルトが帰った後、私は書斎の窓から夜空を眺めていた。第三王子殿下……彼は頭がよすぎる。


 どうしたものかと思案していると、扉がノックされた。娘のマリアだ。二十五歳。もう嫁ぎ先を探す年齢なのだが、良縁に恵まれない。


「お父様」

「どうした、こんな時間に」

「……社交界で、また言われました」


 マリアの目が潤んでいた。


「お前は『第三王子、教育係の娘』だって。『愚かな王子を教えているなんて、さぞ無能な教師なのでしょうね』って……お父様、どうして第三王子の教育係を辞めないの? あの方は馬鹿なんでしょう? お父様まで、笑われるのよ」


 私は何も言えなかった。レオンハルトの秘密は明かせない。しかし、娘を傷つけているのも事実だ。


「すまない、マリア。私の選択だ。もう少し、我慢してくれ」

「……わかりました」


 マリアは部屋を出ていった。私は椅子に座り、頭を抱えた。レオンハルトの母を守るために、私の娘が傷ついている。これで良かったのだろうか? しかし――約束は約束だ。守り抜く。



 春のある日、エーリヒ子爵が初めて教育院を訪れたのは、レオンハルトが十二歳の春だった。戦術学の授業を見学したいと言ってきたのだ。


 訓練場で地図を広げ、仮想の戦場を想定させる。私は生徒たちに問いかけた。


「敵軍が東から攻めてきた。どう対処する?」


 生徒たちが考える。レオンハルトは地図を見て、首を傾げた。


「えっと……守りを固める?」

「どこに?」

「この辺……かな?」


 彼が指差した場所は、戦術的に最悪の位置。兵站(へいたん)が断たれる場所だった。


「そこは補給路が断たれる場所だぞ。もっと考えろ」

「すみません……」


 そのとき、エーリヒ子爵の目が訝しげに光っていた。


 授業が終わった後、子爵が私に近づいてきた。彼は訓練場を見回してから、声を潜めた。


「オットー教授、少し良いか。第三王子殿下のことだが……あの方は、本当に愚かなのだろうか?」


 心臓が跳ねた。


「と、おっしゃいますと?」

「目だ。あの目は、愚か者の目ではない。私は軍人として、多くの兵を見てきた。愚かな者、賢い者、臆病者、勇者。目を見れば、わかる。第三王子殿下の目は……何かを隠している目だ」


 まずい。この男は勘が鋭い。


「子爵、それは――」

「ただの勘だ。証拠もない。だが、私は忘れんぞ。いつか真実が明らかになる日を待とう」


 そう言って子爵は去っていった。私は冷や汗を拭う。危なかった。しかし、演技を見抜く者が現れた。レオンハルトに伝えなければならない。さらに巧妙に演じる必要がある。


 その夜、深夜の書斎で、レオンハルトに子爵のことを話した。


「わかりました。以後気をつけます。次の授業では、徹底的に愚か者を演じます」

「しかし、やりすぎると不自然だぞ」

「わかっています。バランスが大切ですね」


 十二歳の少年とは思えない、冷静な判断だった。


 レオンハルトは「思い出した」とばかりにノートを開く。そこには、完璧な戦術分析が記されていた。補給路の確保、地形の利用、敵の心理分析。すべてが的確で、軍事教官でさえ唸るような内容だった。


「先生、今日の戦術問題ですが……これなら、あの戦場で勝てます」


 レオンハルトが微笑む。私は黒い成績表に記した。「戦術学、満点。独自の軍事理論を構築。天性の才を感じる」と。



 第二王子、ヴィルヘルムは、弟のレオンハルトを観察していた。


 十五歳になった弟は、相変わらず王宮の恥と呼ばれている。教師たちは諦めた様子で、貴族たちは嘲笑していた。


 ――何かがおかしい。


 冬の夜、図書室で財政の書類を読んでいた時のことだ。扉が開いて、レオンハルトが入ってきた。


「あ、兄上。こんばんは」


 レオンハルトは慌てた様子で頭を下げた。


「ああ、レオンハルト。勉強か?」

「はい……でも、難しくて……」


 弟は本棚の前で立ち止まった。何かを探しているようだが、見つからない様子で首を傾げている。


「何を探している?」

「えっと……歴史の本……どこだったかな」


 ヴィルヘルムは立ち上がって、本棚から一冊を取り出した。


「これか?」

「あ、ありがとうございます、兄上」


 レオンハルトは本を受け取り、ぱらぱらとページをめくってゆく。彼はハッとした。一瞬だけ、弟の目に鋭い光が宿ったのだ。理解している目。知性ある者の目。しかし次の瞬間、また空虚な表情に戻っていた。


「難しいですね……また今度にします。失礼しました、兄上」


 弟は図書室を出ていった。


 ヴィルヘルムは椅子に座り直した。今の目は、何だったのか? 気のせいだろうか?


 ――気のせいではない。あれは、理解している者の目だ。


 ヴィルヘルムは本棚の前に立つ。レオンハルトが最初に手を伸ばしかけた場所。そこには、高度な軍事戦術の書物が並んでいた。歴史の本は、もっと下の段にある。


 弟は最初、軍事書に手を伸ばそうとしていたのではないか? そして私に気づいて、慌てて歴史の本を探すふりをした――


「まさか……な」


 ヴィルヘルムは首を振った。ありえない。レオンハルトは劣等生だ。教師たちが口を揃えて言っている。成績は最悪で、一度も及第点を取ったことがない。


 しかし、あの目は……


 ヴィルヘルムは深く息を吸った。兄のフリードリヒには言えない。証拠もない疑念を口にすれば、笑われるだけだ。


 それでも――心のどこかで、ヴィルヘルムは確信していた。弟には隠し事がある、と。



 十六歳の春、レオンハルトは経済学の試験を白紙で提出した。


 教師たちは嘆き、貴族たちは笑った。


 しかしその夜、彼は五十ページの経済改革案を私に託した。税制改革、貿易振興、インフラ整備、教育投資。すべてが具体的で、実現可能性が高い内容だった。


「先生、これを預けます。いつか、必要な時が来るかもしれません」


 これは王の仕事だ。レオンハルトは、すでに真の王になる準備をしていた。私は黒い成績表に記した。「経済学、満点を超える理解。王国の未来を見据えた実践的改革案」と。


 翌日、私は娘のマリアと昼食を取っていた。王宮の中庭に面した小さな食堂で二人きりだ。


「お父様。私もう慣れました」

「慣れた?」

「社交界で笑われることに。最初は辛かったけれど……お父様が第三王子の教育係を続けるのには、きっと理由があるんだと思うようになりました」


 マリアは紅茶のカップに口を付ける。


「お父様は、三十年間、誇り高い教育者でした。そんなお父様が、理由もなく愚かな王子の教育係を続けるはずがない。だから、私は信じています。いつか、お父様が正しかったとわかる日が来ると」


 娘は一呼吸置いて微笑む。


「ただし。その日が来たら、教えてくださいね。私も一緒に笑いたいから」


 私はようやく言葉を見つけた。


「ありがとう、マリア。約束する」


 その夜、書斎でレオンハルトにそのことを話した。彼は深く頭を下げた。


「先生の娘さんに、申し訳ないです。僕のせいで……」

「いや、マリアは理解してくれた。お前のは気にしないでいい。私の選択だ」


 私は彼の背中を軽く叩く。


「レオンハルト。お前は母を守るために戦っている。私は教育者として、お前を守る。マリアは父を信じてくれている。それで良いんだ」


 レオンハルトの目には、深い感謝の色が浮かんでいた。


「ありがとうございます、先生」



 私は演壇に立ち、議場を見渡した。


「では、証拠をお見せしましょう」


 懐から、二冊の帳簿を取り出した。赤い革表紙と黒い革表紙。議場が息を呑む。私は両手に、それぞれの帳簿を掲げた。


「これが、第三王子殿下の成績表です」

「成績表? それなら我々も見ている。全科目で――」

「二冊あります。赤い表紙は、公式記録として提出されたもの。黒い表紙は、真実の記録です」


 議場がざわめいた。


「どういう意味だ?」

「二冊の成績表とは? 不正があったのか?」


 私は赤い帳簿を開いた。


「赤い成績表。十歳の春、歴史三十点、数学二十五点、戦術二十点。十一歳。歴史二十八点、数学二十二点、戦術十八点。十二歳から十九歳まで、すべて同様。赤点、落第寸前、歴史的な低得点」


 議場は静まり返っている。


「皆様がご存知の、第三王子殿下の成績です」


 私は赤い帳簿を閉じて、黒い帳簿を開く。


「黒い成績表。十歳の春、歴史満点、数学満点、戦術満点。十一歳。歴史満点に加え、独自研究により教科書を超えた理解。数学満点に加え、独創的な三つの別解を提示。戦術満点に加え、独自の軍事理論を構築」


 ざわめきが広がってゆく。私はページをめくり続けた。


「十二歳から十九歳まで――すべて満点。首席レベル。天才的な成績」


 議場が爆発した。


「そんなことが可能なのか?」

「不正だろう! 証拠を示せ!」


 その時――第二王子ヴィルヘルムが立ち上がった。


「待て。オットー教授。それは……本当なのか?」

「はい、殿下」


 第二王子、ヴィルヘルムは、弟レオンハルトへ顔を向ける。


「やはり……そうだったのか。私は……気づいていた。いや、気づきかけていた。十五歳の冬、図書室で弟に会った時。あの目は、愚か者の目ではなかった。しかし、私は疑念を押し殺した。証拠もなく、教師たちも皆、弟を劣等生だと言っていたから」


 ヴィルヘルムは深く息を吸った。


「だが、本当は……心のどこかで、わかっていたんだ」


 彼はレオンハルトに向き直った。


「弟よ、許してくれ。私はお前を見誤っていた」


 レオンハルトは、何も言わなかった。ただただ、そこに立っていた。私は議長を見ながら口を開く。


「証拠をお見せしましょう。議長、問題を出してください。歴史、数学、戦術、外交、経済、すべての分野から」


 議長は戸惑いながらも頷いた。


「では……歴史から。エルデンライヒ王国と東方諸国の関係について説明せよ」


 レオンハルトが答えてゆく。淡々と、しかし明確に。初代国王の外交政策から、現在に至るまでの変遷。商業ギルドとの関係。文化交流の歴史。全て完璧だった。


 議場が静まり返った。


「次は数学。この方程式を解け」


 議長が黒板に、複雑な方程式を書いた。レオンハルトは黒板の前に立ち、チョークを手に取った。数分後、完璧な解が黒板に記されていた。しかも、三つの異なる解法で。


「戦術。この地図を見て、最適な防衛戦略を述べよ」


 レオンハルトは地図を一瞥し、即座に答えた。地形の分析、補給路の確保、兵の配置、天候と季節の考慮。その戦術は、軍事教官の息をのむ音が聞こえるくらい高度なものだった。


 エーリヒ子爵が立ち上がる。


「やはり……私の勘は正しかった。十二歳の時、私は第三王子殿下の目を見て、直感した。あのお方は、何かを隠していると」


 子爵はレオンハルトに向かって深々と頭を下げた。


「殿下、疑っていたことをお許しください。そして――お見事ございました」


 レオンハルトは、次々と問題に答えていった。外交、五ヶ国語での演説、各国との関係構築の方法。経済、王国の財政問題とその解決策、税制改革の具体案。すべてが完璧だった。


 最後の問題が終わった時、議場は静寂に包まれていた。



 レオンハルトは、深く息を吸った。


「十年間、私は『劣等生』を演じました。理由は――母を守るためです。第一王妃様は権力者です。もし私が優秀だと示せば、第一王子や第二王子の脅威になる。そうなれば、母、第三王妃が、危険にさらされる。だから私は、権力闘争の駒にはなりたくありませんでした。脅威にならないよう、愚者を演じたのです」


 議場の空気が変わった。貴族たちの表情が、軟化していく。レオンハルトは、私へ目をやる。


「愚者を演じつつ、私は学び続けました。深夜のオットー先生だけが、私の真の教師でした。先生だけが、私の秘密を守ってくれました」


 視線が私に集まったので、二冊の成績表を高く掲げた。


「第三王子殿下は、私が三十年間で教えた中で、最も優秀な生徒です。いや、優秀という言葉では足りません。殿下は、希に見る天才です。しかし、それ以上に、この十年間、誰にも認められずとも、母のために耐え続けた。その忍耐力、愛情、そして知性。これ以上の王の資質があるでしょうか」


 議場が揺れた。貴族たちがざわめいている。第一王子フリードリヒは、顔を青くしていた。第二王子ヴィルヘルムは深く頷いていた。


 エーリヒ子爵が再び立ち上がった。


「では――第三王子殿下こそが、真に王位にふさわしい、ということだな?」

「そうです」


 私は断言した。議長が重々しく口を開いた。


「評議会は、三日間の審議を経て、決定を下す」



 三日後、評議会は新国王を選出した。僕だった。圧倒的多数の賛成票だった。


 戴冠式の日。レオンハルト一世として、僕は王冠を受けた。大聖堂に鐘の音が響き渡る。やっとだ。これでもう、誰も母に手出しができない。


 式の後、僕は真っ先に母の元へ向かった。第三王妃エミーリアの居室。控えめだが温かみのある部屋だ。


 扉を開けると母が立っていた。涙を流しながら。


「レオンハルト……」

「母上。私は王になりました……十年間、母上を守るために、愚か者を演じてきました。母上を危険にさらさないために」


 エミーリアは息子の頭に手を置く。


「ありがとう……私のために……そんなに苦しんでいたなんて……」

「母上が無事なら、それで良かったんです」

「もう、大丈夫よ。あなたは王になった。もう誰も、私たちを脅かすことはできない」


 母は僕を強く抱きしめた。



 戴冠式の後、私は娘のマリアと共に、中庭にいた。マリアが私の手を力強く握った。


「お父様は正しかった!」

「ああ。そして、お前も正しかった。信じてくれてありがとう」


 マリアが涙を拭う。


「これから、社交界に行くのが楽しみです。『第三王子の教育係の娘』ではなく『国王陛下の恩師の娘』として」


 国王陛下の恩師……おもわず頬が緩む。その時、後ろから声がかかった。振り返るとレオンハルトが立っていた。すでに王冠を被っている。


「オットー先生」

「陛下」


 私は頭を下げようとしたが、レオンハルトが手を上げて制した。彼が差し出したのは、新しい帳簿だった。黒い革表紙。開くと、そこには――


「オットー・シュタイン。王立教育院教授。評価、最優秀教師」


 私は目を見張った。


「これは……」

「先生の成績表です。十年間、私を支えてくれた先生への、私からの評価です」


 その隣のページには、続きがあった。


「マリア・シュタイン。評価、最も誇り高き娘。父を信じ、耐え続けた勇気に敬意を表する」


 マリアが驚いて声を上げた。レオンハルトが娘に向き直る。


「マリア。あなたも、苦しんでいたはずです。私のために。申し訳ありませんでした」


 マリアは涙を流しながら深く頭を下げた。


「いいえ、陛下。私は父を信じて良かったです」



 その夜、私の書斎に、もう一人の訪問者があった。王の兄、ヴィルヘルムだった。


「オットー教授、少しいいか」

「もちろんです、殿下」


 ヴィルヘルムは書斎に入り、椅子に座った。彼は窓の外を眺めながら口を開いた。


「私は……弟を見誤っていた。いや、薄々気づいていたのかもしれない。でも、認めたくなかった。弟が私より優秀だということを。しかし、今はわかる。弟こそが、真の王だ。私は弟を支えよう。王の兄として」


 彼は立ち上がった。


「教授、一つ教えてくれ」

「何でしょう」

「弟は……十年間、孤独ではなかったか?」

「孤独でした。しかし、母への愛が、彼を支えました」

「そうか。これからは、私が支える。もう、弟を一人にはしない」


 そう言って、彼は書斎を出ていった。



 半年後。


 国王レオンハルト一世は、次々と改革を実施していた。税制改革、貿易振興、教育投資。すべて、彼が十六歳の時に書いた改革案に基づいている。王国は変わりつつあった。民衆の暮らしが、少しずつ良くなっている。


 ある日の午後、私の書斎に、レオンハルトが訪れた。彼は真っ直ぐに私を見据えた。


「先生、これからも教えてください」

「もう教えることなど、何もないだろう」

「いいえ。学びに終わりはありません。王になっても、私は先生の生徒です」


 私は思わず笑ってしまった。


「それなら、また深夜授業をするか」

「はい。お願いします」


 窓から差し込む光が、机の上の三冊の帳簿を照らしていた。赤い表紙、黒い表紙、そしてもう一冊の黒い表紙。


 嘘と真実、演技と本質。この十年、レオンハルトはやり切った。しかし、国王になった今、未来へ向けてやらなければならないことが山積みでもある。


 心配はしていない。彼は母を守ったときと同じく、国王という重責も必ずやり切るだろう。


 私の生徒は、決して劣等生ではないのだから。

 彼は最高の生徒なのだから。



(了)

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― 新着の感想 ―
え?第一王妃は第三王子の真実を知った後に何もしてこなかったの? 執念深い悪人なら正式に王位に就く前に暗殺を仕掛けるでしょ? 又は国王になってからだって母親を嫌がらせで暗殺する可能性も高いよね 国王に即…
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