私の生徒は劣等生ではない ~教育係がつけた真の成績表~
評議会議事堂は、黄金宮殿の東翼にある。
高い天井、石造りの円形ホール。中央の演壇を取り囲むように、三段の階段状の席が配置されている。国王陛下が崩御されてから三日、今日ここで王位継承会議が開かれることになった。
議場の中央、演壇の前に三人の王子が並んで立っていた。第一王子フリードリヒ、第二王子ヴィルヘルム、そして第三王子レオンハルト。
私の机には、オットー・シュタインと名札が置かれている。議場の隅、教育係専用の席だ。五十歳を過ぎた体に固い木の椅子は厳しいが、今日という日のために、この席を確保した。
貴族たちの視線は、当然のように最初の二人に注がれていた。フリードリヒは堂々としていた。三十二歳、軍事的才能に長け、貴族からの支持も厚い。ヴィルヘルムは知的な雰囲気を纏っていた。三十歳、財政に明るく、商人ギルドとの繋がりが強い。
そしてレオンハルト――誰も見ていない。見られているとすれば、嘲笑の対象として、憐憫の眼差しで、軽蔑の視線で。
二十歳になったばかりの彼は、何も言わず、ただそこに立っていた。表情を消し、何も考えていないような空っぽの目で。十年前から変わらない、あの演技を続けながら。
議場の後方からざわめきが聞こえてきた。
「第三王子殿下が王位継承の候補とは、笑えん」
「悪質な冗談か? 一度として及第点を取ったことのない劣等生だぞ」
そんな中、前方の席に座る一人の貴族――エーリヒ子爵が、僅かに眉をひそめていた。四十代半ば、元軍人の彼は、じっとレオンハルトを見つめている。あの男は何かに気づいているのかもしれない。
議長が重々しく立ち上がった。白い髭を蓄えた老貴族。ハインリヒ伯爵だ。
「では、王位継承会議を開始する。国王陛下の崩御に伴い、我々は新たな王を選出せねばならない。候補者は三名。第一王子フリードリヒ殿下、第二王子ヴィルヘルム殿下、第三王子レオンハルト殿下」
三人目の名前を読み上げた時、わずかに笑い声が漏れた。
「各王子の教育記録を確認する。まずは第一王子――」
私は手を挙げた。視線が一斉にこちらへ向くと、議長が首を傾げた。
「オットー教授。何か?」
「発言を許可していただきたい。第三王子殿下の教育記録について、重大な報告がある」
「重大な報告? 何だそれは」
「十年間守ってきた、殿下の秘密です」
私は演壇へ向かって歩き出した。石畳の床に革靴の音が響く。階段を上り、演壇に立つと、議場全体が見渡せた。三段の席に座る貴族たち、中央の三人の王子、そして――第二王子ヴィルヘルムが、僅かに身を乗り出していた。
「私は、第三王子殿下の専任教育係を務めてきた。十年間、殿下の教育に携わり、その成長を見守ってきた。そして私は、十年間、ある秘密を守ってきた」
ざわめきが広がった。
「第三王子殿下の真実を」
議場が静まり返った。
*
母の部屋。その扉の前に僕は立っていた。
夜の十時を過ぎている。廊下には誰もいない。月明かりが窓から差し込んで、石畳の床を照らしていた。中から声が聞こえてくる。侍女長の声だ。
「第三王妃様は、危険な立場におられます。第一王妃様の派閥が、力を増しています。もし第一王子が王位を継ぐことになれば……」
「わかっています。私は、ただ……レオンハルトが無事に育ってくれれば、それでいいのです」
母の声は震えていた。僕はそっと扉から離れた。足音を立てないように自室へ戻り、部屋に入って扉を閉める。ベッドに座り膝の上で拳を握りしめた。
母が危険だ。理由はわかる。王位継承の争い、権力闘争、第一王妃様による邪魔者の排除。もし僕が優秀だと示せば、第一王子や第二王子の脅威になる。そうなれば、母が標的にされるだろう。
決めた。母を守るために、僕は馬鹿になろう。誰からも脅威と思われない愚かな王子に。そうすれば、母は安全だ。
翌日の深夜、オットー先生の書斎を訪ねた。
「先生、僕は馬鹿になります」
先生は驚いた顔をしたが、理由を話すと理解してくれた。先生は二冊の帳簿を取り出した。赤い革表紙と黒い革表紙の、二冊の帳簿を。
「わかった。ただし、条件がある。一冊は公式記録として提出する『劣等生』の成績。もう一冊は、私だけが保管する『真実』の成績だ。お前の本当の実力を記録しておく。いつか、必要な時が来るかもしれない」
「お願いします、先生」
これで準備は整った。明日から、僕は愚かな王子になる。母のために。
*
昨晩、私の部屋にレオンハルトが訪れたときは驚いた。まだ十歳だというのに、賢い子だ。
「母を守るために馬鹿になる、か……」
最初の授業は第三教室での歴史だった。私は黒板に年表を書き、初代国王について説明した後、生徒たちに問いかけた。何人かの生徒が手を挙げた。レオンハルトも手を挙げている。私は彼を指名した。
「レオンハルト殿下、答えてください」
「えっと……カール大公?」
教室が静まり返った。
「違うぞ。カール大公は三代前の公爵だ」
「あ、ごめんなさい。忘れました」
彼は申し訳なさそうに座った。周りの生徒たちが小さく笑う。見事な演技だった。
*
その夜、レオンハルトが尋ねてきた。私の書斎で、彼は自作のノートを広げた。びっしりと書き込まれた文字、図表、年表。彼の目は好奇心に満ちて輝いていた。
「先生、初代国王フリードリヒ一世が七つの諸侯を統合した手法について、もっと詳しく知りたいんです」
私は正直、驚いた。彼はまだ十歳だというのに。
「お前……昼間の授業、完全に理解していたのか」
「はい。でも、もっと深く学びたいんです」
彼は身を乗り出した。
「特に、東方の商業ギルドとの同盟について。あの時代の経済構造が、政治にどう影響したのか知りたいです」
私は二冊の成績表を開いた。赤い表紙の公式記録には歴史三十点と記し、黒い表紙の真実の記録には、満点に加えて「独自研究により教科書を超えた理解」と記載した。
レオンハルトが帰った後、私は書斎の窓から夜空を眺めていた。第三王子殿下……彼は頭がよすぎる。
どうしたものかと思案していると、扉がノックされた。娘のマリアだ。二十五歳。もう嫁ぎ先を探す年齢なのだが、良縁に恵まれない。
「お父様」
「どうした、こんな時間に」
「……社交界で、また言われました」
マリアの目が潤んでいた。
「お前は『第三王子、教育係の娘』だって。『愚かな王子を教えているなんて、さぞ無能な教師なのでしょうね』って……お父様、どうして第三王子の教育係を辞めないの? あの方は馬鹿なんでしょう? お父様まで、笑われるのよ」
私は何も言えなかった。レオンハルトの秘密は明かせない。しかし、娘を傷つけているのも事実だ。
「すまない、マリア。私の選択だ。もう少し、我慢してくれ」
「……わかりました」
マリアは部屋を出ていった。私は椅子に座り、頭を抱えた。レオンハルトの母を守るために、私の娘が傷ついている。これで良かったのだろうか? しかし――約束は約束だ。守り抜く。
*
春のある日、エーリヒ子爵が初めて教育院を訪れたのは、レオンハルトが十二歳の春だった。戦術学の授業を見学したいと言ってきたのだ。
訓練場で地図を広げ、仮想の戦場を想定させる。私は生徒たちに問いかけた。
「敵軍が東から攻めてきた。どう対処する?」
生徒たちが考える。レオンハルトは地図を見て、首を傾げた。
「えっと……守りを固める?」
「どこに?」
「この辺……かな?」
彼が指差した場所は、戦術的に最悪の位置。兵站が断たれる場所だった。
「そこは補給路が断たれる場所だぞ。もっと考えろ」
「すみません……」
そのとき、エーリヒ子爵の目が訝しげに光っていた。
授業が終わった後、子爵が私に近づいてきた。彼は訓練場を見回してから、声を潜めた。
「オットー教授、少し良いか。第三王子殿下のことだが……あの方は、本当に愚かなのだろうか?」
心臓が跳ねた。
「と、おっしゃいますと?」
「目だ。あの目は、愚か者の目ではない。私は軍人として、多くの兵を見てきた。愚かな者、賢い者、臆病者、勇者。目を見れば、わかる。第三王子殿下の目は……何かを隠している目だ」
まずい。この男は勘が鋭い。
「子爵、それは――」
「ただの勘だ。証拠もない。だが、私は忘れんぞ。いつか真実が明らかになる日を待とう」
そう言って子爵は去っていった。私は冷や汗を拭う。危なかった。しかし、演技を見抜く者が現れた。レオンハルトに伝えなければならない。さらに巧妙に演じる必要がある。
その夜、深夜の書斎で、レオンハルトに子爵のことを話した。
「わかりました。以後気をつけます。次の授業では、徹底的に愚か者を演じます」
「しかし、やりすぎると不自然だぞ」
「わかっています。バランスが大切ですね」
十二歳の少年とは思えない、冷静な判断だった。
レオンハルトは「思い出した」とばかりにノートを開く。そこには、完璧な戦術分析が記されていた。補給路の確保、地形の利用、敵の心理分析。すべてが的確で、軍事教官でさえ唸るような内容だった。
「先生、今日の戦術問題ですが……これなら、あの戦場で勝てます」
レオンハルトが微笑む。私は黒い成績表に記した。「戦術学、満点。独自の軍事理論を構築。天性の才を感じる」と。
*
第二王子、ヴィルヘルムは、弟のレオンハルトを観察していた。
十五歳になった弟は、相変わらず王宮の恥と呼ばれている。教師たちは諦めた様子で、貴族たちは嘲笑していた。
――何かがおかしい。
冬の夜、図書室で財政の書類を読んでいた時のことだ。扉が開いて、レオンハルトが入ってきた。
「あ、兄上。こんばんは」
レオンハルトは慌てた様子で頭を下げた。
「ああ、レオンハルト。勉強か?」
「はい……でも、難しくて……」
弟は本棚の前で立ち止まった。何かを探しているようだが、見つからない様子で首を傾げている。
「何を探している?」
「えっと……歴史の本……どこだったかな」
ヴィルヘルムは立ち上がって、本棚から一冊を取り出した。
「これか?」
「あ、ありがとうございます、兄上」
レオンハルトは本を受け取り、ぱらぱらとページをめくってゆく。彼はハッとした。一瞬だけ、弟の目に鋭い光が宿ったのだ。理解している目。知性ある者の目。しかし次の瞬間、また空虚な表情に戻っていた。
「難しいですね……また今度にします。失礼しました、兄上」
弟は図書室を出ていった。
ヴィルヘルムは椅子に座り直した。今の目は、何だったのか? 気のせいだろうか?
――気のせいではない。あれは、理解している者の目だ。
ヴィルヘルムは本棚の前に立つ。レオンハルトが最初に手を伸ばしかけた場所。そこには、高度な軍事戦術の書物が並んでいた。歴史の本は、もっと下の段にある。
弟は最初、軍事書に手を伸ばそうとしていたのではないか? そして私に気づいて、慌てて歴史の本を探すふりをした――
「まさか……な」
ヴィルヘルムは首を振った。ありえない。レオンハルトは劣等生だ。教師たちが口を揃えて言っている。成績は最悪で、一度も及第点を取ったことがない。
しかし、あの目は……
ヴィルヘルムは深く息を吸った。兄のフリードリヒには言えない。証拠もない疑念を口にすれば、笑われるだけだ。
それでも――心のどこかで、ヴィルヘルムは確信していた。弟には隠し事がある、と。
*
十六歳の春、レオンハルトは経済学の試験を白紙で提出した。
教師たちは嘆き、貴族たちは笑った。
しかしその夜、彼は五十ページの経済改革案を私に託した。税制改革、貿易振興、インフラ整備、教育投資。すべてが具体的で、実現可能性が高い内容だった。
「先生、これを預けます。いつか、必要な時が来るかもしれません」
これは王の仕事だ。レオンハルトは、すでに真の王になる準備をしていた。私は黒い成績表に記した。「経済学、満点を超える理解。王国の未来を見据えた実践的改革案」と。
翌日、私は娘のマリアと昼食を取っていた。王宮の中庭に面した小さな食堂で二人きりだ。
「お父様。私もう慣れました」
「慣れた?」
「社交界で笑われることに。最初は辛かったけれど……お父様が第三王子の教育係を続けるのには、きっと理由があるんだと思うようになりました」
マリアは紅茶のカップに口を付ける。
「お父様は、三十年間、誇り高い教育者でした。そんなお父様が、理由もなく愚かな王子の教育係を続けるはずがない。だから、私は信じています。いつか、お父様が正しかったとわかる日が来ると」
娘は一呼吸置いて微笑む。
「ただし。その日が来たら、教えてくださいね。私も一緒に笑いたいから」
私はようやく言葉を見つけた。
「ありがとう、マリア。約束する」
その夜、書斎でレオンハルトにそのことを話した。彼は深く頭を下げた。
「先生の娘さんに、申し訳ないです。僕のせいで……」
「いや、マリアは理解してくれた。お前のは気にしないでいい。私の選択だ」
私は彼の背中を軽く叩く。
「レオンハルト。お前は母を守るために戦っている。私は教育者として、お前を守る。マリアは父を信じてくれている。それで良いんだ」
レオンハルトの目には、深い感謝の色が浮かんでいた。
「ありがとうございます、先生」
*
私は演壇に立ち、議場を見渡した。
「では、証拠をお見せしましょう」
懐から、二冊の帳簿を取り出した。赤い革表紙と黒い革表紙。議場が息を呑む。私は両手に、それぞれの帳簿を掲げた。
「これが、第三王子殿下の成績表です」
「成績表? それなら我々も見ている。全科目で――」
「二冊あります。赤い表紙は、公式記録として提出されたもの。黒い表紙は、真実の記録です」
議場がざわめいた。
「どういう意味だ?」
「二冊の成績表とは? 不正があったのか?」
私は赤い帳簿を開いた。
「赤い成績表。十歳の春、歴史三十点、数学二十五点、戦術二十点。十一歳。歴史二十八点、数学二十二点、戦術十八点。十二歳から十九歳まで、すべて同様。赤点、落第寸前、歴史的な低得点」
議場は静まり返っている。
「皆様がご存知の、第三王子殿下の成績です」
私は赤い帳簿を閉じて、黒い帳簿を開く。
「黒い成績表。十歳の春、歴史満点、数学満点、戦術満点。十一歳。歴史満点に加え、独自研究により教科書を超えた理解。数学満点に加え、独創的な三つの別解を提示。戦術満点に加え、独自の軍事理論を構築」
ざわめきが広がってゆく。私はページをめくり続けた。
「十二歳から十九歳まで――すべて満点。首席レベル。天才的な成績」
議場が爆発した。
「そんなことが可能なのか?」
「不正だろう! 証拠を示せ!」
その時――第二王子ヴィルヘルムが立ち上がった。
「待て。オットー教授。それは……本当なのか?」
「はい、殿下」
第二王子、ヴィルヘルムは、弟レオンハルトへ顔を向ける。
「やはり……そうだったのか。私は……気づいていた。いや、気づきかけていた。十五歳の冬、図書室で弟に会った時。あの目は、愚か者の目ではなかった。しかし、私は疑念を押し殺した。証拠もなく、教師たちも皆、弟を劣等生だと言っていたから」
ヴィルヘルムは深く息を吸った。
「だが、本当は……心のどこかで、わかっていたんだ」
彼はレオンハルトに向き直った。
「弟よ、許してくれ。私はお前を見誤っていた」
レオンハルトは、何も言わなかった。ただただ、そこに立っていた。私は議長を見ながら口を開く。
「証拠をお見せしましょう。議長、問題を出してください。歴史、数学、戦術、外交、経済、すべての分野から」
議長は戸惑いながらも頷いた。
「では……歴史から。エルデンライヒ王国と東方諸国の関係について説明せよ」
レオンハルトが答えてゆく。淡々と、しかし明確に。初代国王の外交政策から、現在に至るまでの変遷。商業ギルドとの関係。文化交流の歴史。全て完璧だった。
議場が静まり返った。
「次は数学。この方程式を解け」
議長が黒板に、複雑な方程式を書いた。レオンハルトは黒板の前に立ち、チョークを手に取った。数分後、完璧な解が黒板に記されていた。しかも、三つの異なる解法で。
「戦術。この地図を見て、最適な防衛戦略を述べよ」
レオンハルトは地図を一瞥し、即座に答えた。地形の分析、補給路の確保、兵の配置、天候と季節の考慮。その戦術は、軍事教官の息をのむ音が聞こえるくらい高度なものだった。
エーリヒ子爵が立ち上がる。
「やはり……私の勘は正しかった。十二歳の時、私は第三王子殿下の目を見て、直感した。あのお方は、何かを隠していると」
子爵はレオンハルトに向かって深々と頭を下げた。
「殿下、疑っていたことをお許しください。そして――お見事ございました」
レオンハルトは、次々と問題に答えていった。外交、五ヶ国語での演説、各国との関係構築の方法。経済、王国の財政問題とその解決策、税制改革の具体案。すべてが完璧だった。
最後の問題が終わった時、議場は静寂に包まれていた。
*
レオンハルトは、深く息を吸った。
「十年間、私は『劣等生』を演じました。理由は――母を守るためです。第一王妃様は権力者です。もし私が優秀だと示せば、第一王子や第二王子の脅威になる。そうなれば、母、第三王妃が、危険にさらされる。だから私は、権力闘争の駒にはなりたくありませんでした。脅威にならないよう、愚者を演じたのです」
議場の空気が変わった。貴族たちの表情が、軟化していく。レオンハルトは、私へ目をやる。
「愚者を演じつつ、私は学び続けました。深夜のオットー先生だけが、私の真の教師でした。先生だけが、私の秘密を守ってくれました」
視線が私に集まったので、二冊の成績表を高く掲げた。
「第三王子殿下は、私が三十年間で教えた中で、最も優秀な生徒です。いや、優秀という言葉では足りません。殿下は、希に見る天才です。しかし、それ以上に、この十年間、誰にも認められずとも、母のために耐え続けた。その忍耐力、愛情、そして知性。これ以上の王の資質があるでしょうか」
議場が揺れた。貴族たちがざわめいている。第一王子フリードリヒは、顔を青くしていた。第二王子ヴィルヘルムは深く頷いていた。
エーリヒ子爵が再び立ち上がった。
「では――第三王子殿下こそが、真に王位にふさわしい、ということだな?」
「そうです」
私は断言した。議長が重々しく口を開いた。
「評議会は、三日間の審議を経て、決定を下す」
*
三日後、評議会は新国王を選出した。僕だった。圧倒的多数の賛成票だった。
戴冠式の日。レオンハルト一世として、僕は王冠を受けた。大聖堂に鐘の音が響き渡る。やっとだ。これでもう、誰も母に手出しができない。
式の後、僕は真っ先に母の元へ向かった。第三王妃エミーリアの居室。控えめだが温かみのある部屋だ。
扉を開けると母が立っていた。涙を流しながら。
「レオンハルト……」
「母上。私は王になりました……十年間、母上を守るために、愚か者を演じてきました。母上を危険にさらさないために」
エミーリアは息子の頭に手を置く。
「ありがとう……私のために……そんなに苦しんでいたなんて……」
「母上が無事なら、それで良かったんです」
「もう、大丈夫よ。あなたは王になった。もう誰も、私たちを脅かすことはできない」
母は僕を強く抱きしめた。
*
戴冠式の後、私は娘のマリアと共に、中庭にいた。マリアが私の手を力強く握った。
「お父様は正しかった!」
「ああ。そして、お前も正しかった。信じてくれてありがとう」
マリアが涙を拭う。
「これから、社交界に行くのが楽しみです。『第三王子の教育係の娘』ではなく『国王陛下の恩師の娘』として」
国王陛下の恩師……おもわず頬が緩む。その時、後ろから声がかかった。振り返るとレオンハルトが立っていた。すでに王冠を被っている。
「オットー先生」
「陛下」
私は頭を下げようとしたが、レオンハルトが手を上げて制した。彼が差し出したのは、新しい帳簿だった。黒い革表紙。開くと、そこには――
「オットー・シュタイン。王立教育院教授。評価、最優秀教師」
私は目を見張った。
「これは……」
「先生の成績表です。十年間、私を支えてくれた先生への、私からの評価です」
その隣のページには、続きがあった。
「マリア・シュタイン。評価、最も誇り高き娘。父を信じ、耐え続けた勇気に敬意を表する」
マリアが驚いて声を上げた。レオンハルトが娘に向き直る。
「マリア。あなたも、苦しんでいたはずです。私のために。申し訳ありませんでした」
マリアは涙を流しながら深く頭を下げた。
「いいえ、陛下。私は父を信じて良かったです」
*
その夜、私の書斎に、もう一人の訪問者があった。王の兄、ヴィルヘルムだった。
「オットー教授、少しいいか」
「もちろんです、殿下」
ヴィルヘルムは書斎に入り、椅子に座った。彼は窓の外を眺めながら口を開いた。
「私は……弟を見誤っていた。いや、薄々気づいていたのかもしれない。でも、認めたくなかった。弟が私より優秀だということを。しかし、今はわかる。弟こそが、真の王だ。私は弟を支えよう。王の兄として」
彼は立ち上がった。
「教授、一つ教えてくれ」
「何でしょう」
「弟は……十年間、孤独ではなかったか?」
「孤独でした。しかし、母への愛が、彼を支えました」
「そうか。これからは、私が支える。もう、弟を一人にはしない」
そう言って、彼は書斎を出ていった。
*
半年後。
国王レオンハルト一世は、次々と改革を実施していた。税制改革、貿易振興、教育投資。すべて、彼が十六歳の時に書いた改革案に基づいている。王国は変わりつつあった。民衆の暮らしが、少しずつ良くなっている。
ある日の午後、私の書斎に、レオンハルトが訪れた。彼は真っ直ぐに私を見据えた。
「先生、これからも教えてください」
「もう教えることなど、何もないだろう」
「いいえ。学びに終わりはありません。王になっても、私は先生の生徒です」
私は思わず笑ってしまった。
「それなら、また深夜授業をするか」
「はい。お願いします」
窓から差し込む光が、机の上の三冊の帳簿を照らしていた。赤い表紙、黒い表紙、そしてもう一冊の黒い表紙。
嘘と真実、演技と本質。この十年、レオンハルトはやり切った。しかし、国王になった今、未来へ向けてやらなければならないことが山積みでもある。
心配はしていない。彼は母を守ったときと同じく、国王という重責も必ずやり切るだろう。
私の生徒は、決して劣等生ではないのだから。
彼は最高の生徒なのだから。
(了)
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