2.公女、夫と継子に会う
わたしを武骨な城の貴賓室に招き入れた狂戦公カトランが、
「アデール様。……貴女を妻として扱うつもりはない」
と、仰られたときのことだ。
頭が真っ白になり、思考が渦巻いた末、顔が燃えるように赤くなった。
新しい家族と今度こそは上手くやりたいと緊張していたわたしは、目の前にいる男性と夫婦になるのだということを、完全に失念していたのだ。
結婚だというのに。
それも、ますます恥ずかしい。
こんなわたしだから、姉や兄から〈無粋〉と蔑まれ、母からは嫌われたのだろう。
後ろから、侍女のザザにつつかれ、我に返った。
カトランは印象的な左頬と右目の下にある傷跡を歪め、怪訝な視線でわたしを見ている。いや、睨んでいると言ってもいいかもしれない。
痛々しく見える傷跡を除けば、目鼻立ちは整い、艶のある黒髪もあわせて美男子と言っていい。
それだけに、真っ赤な瞳から放たれる視線の冷たさが、より一層に際立つ。
けれど、その視線にわたしを完全に拒絶したり蔑む色はなく、一定の距離感を保ちながらも、なんらかの関係を結ぼうという意志が感じ取れた。
たとえそれが、母女大公の権勢に配慮してのことであったとしても、わたしは小さく安堵した。
「しょ、承知しました」
「……夫人としての待遇は約束します。ただ、今はまだ家政らしきものも復旧できていません。それも、いずれはお任せせざるを得ないでしょう」
「それも、承知いたしました」
敵国に面した最前線の城。それも奪還したばかりで、武骨な兵士しか見当たらない。
家政と言われても、すぐに出来ることは思い当たらない。大公家で家政と言えば、社交だったからだ。
「ただ……、カトラン様。ひとつ、お願いがあります」
「私に敬称など不要です」
「わ、わたしもです!」
「……は?」
「……わたしにも、敬称は不要です」
「……貴女は大公家の公女。辺地の子爵に過ぎない私とは、身分が違います」
「つ、つ、つ、妻でなくとも……、か、家族にはなるのですよね?」
膝の上に置いた手を、知らず堅く握り締めていた。
カトランは、険しく眉を寄せる。
「……そういうことになります」
「なら、わたしにも敬称は不要です。ア、アデールとお呼びください」
トントンッと、カトランは椅子の肘掛を指で弾いた。
飾り気のない椅子。けれど、ローズウッド製の肘掛は磨き込まれ、大切に使われてきた気配がする。
「分かりました。……意志を尊重します、アデール」
「あ、ありがとう。……カ、カトラン」
緊張の対面を終え、わたしに用意された部屋へと、厳つい顔付きをした兵士が案内してくれる。
戦場になった城なのに、廊下には塵ひとつ落ちてはおらず、丁寧に清掃された跡が窺えた。
「あ~あ、初夜はなしかぁ~」
「え、ええっ!? ザザ!? ……い、いきなり、何を言い出すのよ?」
この城にメイドなど女性の使用人がいないことが分かり、仲の良かった雑貨屋の娘ザザに頼み込んで、どうにか侍女になってもらった。
「ご無事にお済みになられましたか? とか、言えると思ってたんだけどなぁ~」
長身のザザがおどけて言う明るいボヤキが面白かったのか、先を歩く兵士が「がはははっ!」と豪快に笑った。
「カトラン様は禁欲的なお方です。王都育ちの侍女様では、物足りないかもしれませんがね」
「あら? アデールの夫に、私が物足りないも何もないわよ?」
「おや? 侍女様は、カトラン様の愛妾になりに来たんじゃないんですか?」
「バカ。そんな訳ないじゃない。王都をどんなところだと思ってるのよ?」
「ザ、ザザは、わたしの友だちなのよ。無理を言って、付いて来てもらったの。……だから、わたしを呼び捨てにしても気にしないでね?」
と、わたしが口を添えると、兵士は「なるほど」と笑った。
「あ、そっか~っ! あははっ。早速、やっちゃった。ごめんね、アデール様!」
悪びれることなく謝るザザが気に入ったのか、マルクと名乗った兵士も、厳つい顔に満面の笑みを浮かべて大笑いした。
わたしは、こんなに笑顔に囲まれるのはいつ以来のことだろうと、小さく涙を拭う。
マルクが表情を改めた。
「ただ、アデール様。ここは、つい先日まで敵国の手にあった城。……まだまだ、城の皆の気は張り詰めております。ご不快に思われることがあっても、どうかご容赦くださいませ」
「承知しました。マルク殿の忠告、しかと胸に刻んで、慎重にふる舞いましょう」
そして、部屋に入り、簡素なソファに身体を沈めた。クッションは堅いけれど、肌触りは悪くない。
キチンと手入れされているソファだ。
隣にある自分の部屋から戻ったザザが、呆れたような表情で、わたしの隣に腰を降ろした。
差し込む夕陽が、ザザの栗毛色の髪を照らして美しい。
「殺風景なお城ねぇ~。これならまだ、ウチの雑貨屋の方が賑やかだったわよ?」
「ふふっ。……わたしは気に入ったわ」
「あら、そう?」
ギラギラした宝石と虚栄の母の城より、書類の山でゴチャッとした父の政館より、余計なものが何もないこの城の方が、よほど居心地がいい。
なにもないから、きっと、満たすことも出来るのだと、夕陽を見詰めた。
Ψ
晩餐の支度が出来たと、マルクに呼ばれ食堂に向かった。
カトランのはす向かいの席、わたしの向かいには、カチコチに緊張した金髪の少年が座っていた。
「……パトリスです」
と、暗い表情で自公紹介をしてくれた。
その透んだグリーンの瞳の奥には、まるで干上がった大地が水を求めるような、切実な飢えが宿っているようにも見えた。
飢えているのは、単に愛情だろうか、それとも……?
「よろしくね、パトリス。わたしのことはアデールと呼んでね。……母と呼ぶ必要はないわ」
カトランの眉がピクリと動いた。
パトリスは、カトランの甥。
兄であり先代子爵の息子で、カトランが養子にしている。
「は、はいっ! ……アデール」
「はい。パトリス」
この子は、わたしと同じ。母親に捨てられたのだ。
実際に会う前から、書類上の確認だけで、わたしはこの6歳の少年に対し、思い入れを募らせた。
母親の代わりを誰かが務めることはできないと、わたしが一番よく知っている。
――母と呼ばなくていい。
わたしの言葉に、すこし喜色を浮かべて見えたのも、やむを得ないことだ。
ただ、わずかでも和やかな空気が流れたのはここまでだった。
わたしを歓迎するはずの晩餐なのに、会話は一切ない。
謹厳な空気が流れる。
これが〈武門の家〉ということかと、新鮮な驚きを感じつつ、食事を口に運んだ。