1.公女、自らの結婚を知る
初夏の日差しが降り注ぐ野原に、敷物を敷いて、腰を降ろす。
息子がはしゃいで駆け、夫が追う。
小鳥がさえずり、遠くからは川のせせらぎも聞こえる。
わたしの夢だった、家族での和やかなピクニック。波乱もわだかまりもない、ただ穏やかに過ぎる時間。
沈黙でさえ、心地いい。
「継母上! 今日のサンドイッチには、何が挟んであるのですか!?」
と、後ろから継子パトリスが抱きつく。
「こら~っ、重たいでしょう!?」
「だって、継母上のサンドイッチ、待ちきれないんだもん!」
じゃれ合うわたしたちを横目に、空を見上げる夫。
血みどろの狂戦公、カトラン・ガルニエ。
王国に轟く武名に等しく、悪名も鳴り響くわたしの夫。
「……貴女のおかげだ。アデール」
「えっ……?」
と、お茶を淹れる手を止め、カトランの傷だらけの顔を見た。
「アデールのおかげで、……俺たちは家族になれた」
「ふふっ。それは、どうでしょう……?」
「アデールが諦めなかったから、こんな日を迎えることができた」
湧き上がる温かい気持ちに、頬をゆるめてしまいながら、手元に視線を落とす。
こんなに満たされたピクニックに出かけることができるだなんて、母から政略結婚を命じられた時には、夢にも思わなかった。
Ψ Ψ Ψ
手元のカップに、メイドがお茶を注ぐ。
琥珀色の液体から昇る湯気でさえ、冷たく凍え、震えているように見えた。
半年ぶりの家族そろっての食事だというのに、なんの会話もなかった。
豪勢な広間には冷たい沈黙が満ち、わたしの呼吸を浅くさせる。
「アデール……」
と、母がわたしの名を呼んでくれたのが、いつ以来のことであったか思い出せない。
あれは、母が大公位に即位する前のことだったのではないか。王都に家族で移り住む前。今から10年以上も前のこと……。
「……アデール。聞いておるのか?」
「はっ、はい! お母様!」
「……結婚の支度は、整ったか?」
「え……? け、結婚ですか……?」
言葉を交わすことすら何年ぶりか分からない。その母の口から突然出た〈わたしの結婚〉という話題に、動転した。
手が震え、カップを取れない。咄嗟に言葉を継ぐことも出来ない。
わたしは、母に嫌われている。
原因は分かっている。
それは、母の中では取り返しがつかないらしく、わたしも諦めかかっていた。
なのに、母がわたしのことを気にかけてくれていることが、……嬉しい。
ようやく言葉を絞り出した。
「よ、嫁入り修行のことでしょうか? マナーや社交術でしたら、ひと通り……」
「ぷっ」
と、姉が吹き出した。その横では兄も、わたしを嘲笑う失笑を漏らしている。
正式な社交デビューすら母に差し止められているわたしが『社交術』などと口走ったのが可笑しかったらしい。
姉と兄は、社交界で名を馳せている。広い交友関係と、濃密な恋愛遍歴は、いつも王都で注目の的だ。
立ち並ぶメイドたちも、姉と兄に追従し、わたしに侮蔑の笑みを向ける。
結婚について何も聞かされてないわたしは、父の顔色をそっと窺う。けれど、寡黙な父の表情は変わらない。
姉と兄が、ニヤニヤと嘲笑うような視線をわたしに向けた。
そして、自分の結婚なのにわたしだけが何も聞かされてなかったのだと気が付き、愕然とした。
王国最大の権門、ランベール大公家。
王都社交界の女帝、わたしの母、女大公ブランディーヌ・ランベールを頂点に、権勢は王家をも凌ぐ。
その栄華を象徴する贅を尽くした煌びやかな大広間で、浅い呼吸をさらに浅くする。
姉のファネットが、ニタニタと笑いながら母の方に身体をだらしなく傾けた。
フリルの多い濃い紫色のドレスは胸元が大きくあいていて、わたしに豊かな谷間を見せつけてくるよう。
間延びした声は、男性ばかりでなく、まるで母まで誘惑しようとするがごとくに甘く響いた。
「お母様ぁ~? この〈使用人の娘〉は何も分かってないようですわぁ。とっくに社交界では皆が知っているというのにぃ~」
「ジュスト。グズグズするな。アデールをただちに送れ。すでに王の裁可もある。妾に恥をかかせる気か」
「ははっ」
と、父のジュストが、母の命令に末席から応えた。
出自の低い父を、母はいつも使用人扱いする。先代大公の祖父が可愛いひとり娘の将来を思い、有能な父を婿にした。
姉や兄にとって自分たちは女大公の公子と公女で、わたしは〈使用人の娘〉だ。
同母同父だというのに。
「……ガルニエ子爵だ。すぐに行け」
と、母が、嫌悪感を露わにした声で告げた名が、わたしの結婚相手だと気付くのに、しばらく時間がかかった。
――ガルニエ子爵と言えば……。
姉が、クスクスとわたしを見下す笑い声を忍ばせる。
「無粋なアデールにはピッタリじゃない? ……狂戦公への輿入れだなんてぇ?」
「まったく姉上の言う通りだ! 戦ばかりで社交に顔すら見せない、貴族とは思えない野蛮さ! 不粋で野暮!」
と、兄は、さも嫌そうに顔を歪め、わたしから顔を背けた。
「敵も味方もかまわず斬り込む〈血みどろの狂戦公〉! ……げにも厭わしい。アデール、ちゃんと血を拭いてやれよ?」
大袈裟に身震いして見せる兄に、姉が手を叩いて笑った。
やがて、母が無言で席を立ち、皆で立って退出を見送る。
姉が出て行き、兄は両手にメイドの腰を抱いて機嫌よく出て行った。
父が再び椅子に腰を降ろしたので、わたしも座り直す。
「カトラン・ガルニエ子爵。アデール、お前の結婚相手だ」
父の抑揚のない声が、ふたりきりになった大広間に空々しく響いた。
「……先代子爵だった兄君を、戦場で後ろから刺し殺したっていう……」
「ただの噂だ」
父が寡黙で、話の要点しか口にしないのは昔からだ。
けれど、昔はその周りに笑顔があった。
母の明るい笑い声。はしゃぐ兄と、意地っ張りな姉。
物心のついたわたしの最初の記憶は、家族5人でのピクニック。大公領の風光明媚な野原。雨上がりだったのか虹が出ていたような気がする。寡黙な父の膝の上で、わたしも皆と笑っていた。
以来、一度もない。
母が即位し、すべてが変わった。だけど、幼いわたしはそれに気が付かなかった。
「お父様と仲良くして」
そのひと言が、母の勘気に触れた。
母の城を追い出され、父の住まう政館に部屋を移された。
そして今、悪名高い〈血みどろの狂戦公〉のもとへと追い払われようとしている。
「ガルニエ子爵は、大変な武功をあげた」
「……え?」
「アデールの婚儀は、大公家にとって益のあることだ」
それが、父からの祝福なのか、慰めなのか何なのか、わたしには分からなかった。
そして、父も席を立つ。
しばし天井に描かれた天体図を茫然と見上げてから、わたしも、無数の宝石が埋め込まれた瀟洒な椅子に手をかけた。
絢爛豪華を極めた大広間を、ひとり出る。
半年ぶりの登城が、母女大公の城の見納めになった。
王都では悪名ばかりが囁かれる〈血みどろの狂戦公〉とは、どんな人物なのだろう。新しい家族は、わたしを受け入れてくれるだろうか。不安ばかりが募る。
けれど、母の命令を拒むことはできない。
慌ただしい嫁入り支度をひとりで整え、わたしは北の辺地へと旅立った。