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夢のピアノ  作者: 皐月裕
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終夢

 幸樹には、芸術の良し悪しなどわからないし、知識もない。夢野と付き合うまでは全く興味を持っていなかったものだ。

 夢野とは高校時代からの付き合いで、彼女は三年間ずっと図書委員だった。幸樹は本を読むといえば、漫画かスポーツが題材に使われている有名作を流し読みするぐらいだったから、趣味の話はお互いにあまりしてこなかった。

 思えば、夢野が大学の文学部に進み、自分は体育学科へスポーツ推薦で入ったころから、久しぶりに会っても会話が少なくなっていたような気がする。

 今夢野がどんなことに興味を持って、大学でどんなことを勉強しているのか、幸樹は知らなかった。

 だから、久しぶりのデートの行先に美術館を提案された時、幸樹はメールを見て怪訝な顔をしてしまった。

 彼女が小説や詩が好きなことはよく知っていたが、美術やアート作品に興味を持っているなんてことは聞いたことがなかった。

 正直幸樹はどう返事をするべきか迷った。美術館に行って、会話が弾む予感がしない。いや、会話がなくても平気な場所に、彼女は行きたいのかもしれない、そんな邪推もした。

 結局、他に行きたい場所が浮かばず、幸樹は人がごった返す東京駅で待ち合わせをして、二カ月ぶりに彼女と会った。

 夢野はピンク色のニットに、膝丈の黒いスカート姿だった。黒髪を肩にかけている姿は少し新鮮だった。高校ではずっと一つに結わいていたし、外で会う時も結わき髪姿の時が多かった。

 久しぶりに会う彼女が、少し大人びて見えたのは、大学で歳の近い男子とばかりつるんでいたせいかもしれない。

 夢野はあまり笑わないほうだし、大声を出すこともないし、男子友達独特のバカ騒ぎもしない。

 静かにぽつりぽつりと話をしながら歩くと、すぐに美術館に着いた。美術館に入ってからは、ほとんど会話がなかった。彼女が絵に見入っていたから、幸樹は邪魔にならないように、声をかけなかったし、特に言える感想のようなものもなかった。

 夢野は展示室を一通り見終えた後、気に入ったのか、最初の展示室へ行き、ふらふらとある一点の絵の前をうろついた。絵の前のソファが空くと、すぐに腰を掛けて、じっと絵を見ていた。

 幸樹は一緒になってその絵を見た。その絵は芸術に興味がない幸樹にも、綺麗だと思える絵だった。ぱっと見た感じでは、写真のようにみえるぐらいに細かく描きこまれていて、ただ上手だ、とぼんやりとした感想を幸樹は抱いた。

 夢野はしばらく絵をじぃと見ていた。こんなに何かを集中して見ている彼女を見たのは、ミステリー映画を見に行った時以来だ。

 幸樹は彼女が目を伏せてから、しばらくした頃、声を掛けた。


「ごめんね、付きあわせて」

 幸樹ははっとして顔を上げた。ぽつりと夢野がしゃべりだした。

「つまらなかったよね。私黙ってたし」

 夢野がこっちを向く。どこか真剣みを感じる視線に、幸樹は首を振った。

「いや、別に」

 つまらなくはないよ。あまり楽しいとも思わなかったけど。でもそれは、俺が単に詳しくないからってだけだから。夢野が楽しければそれでいいよ、と幸樹は言おうか迷った。

 変に聞こえないだろうか。言いつくろっているように聞こえないだろうか。

「そう? あ、お腹空いてない?」

 夢野は首を傾げて、聞いてきた。幸樹がカフェ・オレしか頼んでいないのを思い出して、聞いてくれたみたいだ。

「いや、朝遅かったから」

 遅めの朝食は寮の定食だった。そのおかげで時間は昼過ぎだが、お腹は空いていない。

 夢野は再びティーカップを覗き込んだ。

「ねぇ、どの絵がよかった?」

 夢野の質問に、幸樹はしばらく考え込んだ。


 幸樹はきっと答えないだろう。夢野はそう思っていた。質問をしたのは意地悪と出来心。

 後ろを着いてきただけの幸樹は、絵を見ても何も思わないのか、夢野の感想にも生返事だったし、絵を見ている時間も夢野に合わせていて、夢野が足早に絵の前から立ち去ってみても、幸樹は立ち止まらなかった。

 夢野は冷めたベルガモットティーを口に含んだ。冷めても爽やかな香りは変わらない。なんとなしに夢野は再び窓の外を眺めた。足早に人々が通り過ぎて行く。梅雨前の晴れた日、長袖の人が多い中、半袖で歩いている人もちらほらといる。スーツ姿の男性たちがどことなく暑そうに見えてきた。

「点描画」

 隣から聞こえて来た声に、夢野は振り返った。幸樹が口元に手を当てながら、続けた。

「あのなんちゃら港ってタイトルのやつ」

「『コンカルノー港』?」

 タイトルを言うと、幸樹はそう、それと頷いた。タイトルまでは覚えられなかったらしい。

「点描画って、あんなに細かいんだなって思ったよ。シールで作るのは違って、近くで見てもグラデーション? が綺麗っていうか」

「シールって、高校の時の?」

 夢野は外を眺めながら話す幸樹の横顔を見た。

「うん。みんなで赤とか黄色とかの丸シール使って点描画作るやつ。文化祭で何回かやったよな」

 夢野は高校時代の思い出に、懐かしさが込み上げた。

「桜と校舎、だったよね」

 部活動に入っていなかった夢野は、クラスでやった喫茶店の裏方と、学年全体でやった点描画が、文化祭の思い出だ。

「そうそう。間違えると、シール剥がすの大変でさ……あれを本当に点でやるんだから、すごいよな。時間もだけどさ、根気とか、そこまでやる情熱とかが」

 幸樹も思い出に浸るように、目を細めた。それから話は『コンカルノー港』のことに変わった。

「どうやって描いたのかとか、俺にはわかんないけど、たぶん普通に絵具で同じ風景を描くこともできたわけだろ? それをわざわざ点単位で描こうってのがすごいよ」

 幸樹は素直にそう思っているようだった。まっすぐな姿勢と、感心している時の素直な褒め言葉は、出会ったころと変わっていなかった。

 どこか熱のこもった、率直な感想は、幸樹がちゃんと絵を見ていたとわかる。

 つまらなくて黙っていたわけでも、興味を持っていなかったわけでもない、幸樹は幸樹なりの視点で絵を見ていて、同じ時間夢野の隣にいた。夢野の傍にいたのはマルシャルじゃない。

 夢野は高校のころから、彼は仲間内でも口数が少ないほうだったことを思い出した。

「……その方法でしか、表せないことがあったんじゃないかな」

 ポール・シニャックが点描画で港を描いた理由も、彼が黙って夢野について来てくれた理由も、その方法でしか表せないことだったとしたら。夢野は寒気がした。自分は今までなんてことを考えていたんだろう。

「たぶん、そうなんだろうな。俺には詳しいことはわかんないけどさ」

 幸樹は落ち着いたトーンで言った。

 詳しいことはわからない。幸樹が言うように、点描画で描かれた理由を、夢野も知らない。

でも、幸樹のことは、今傍にいてくれる人のことは知ることが出来る。

「今日、楽しかった?」

 夢野はさきほどとは真逆の質問をした。

「ん? ああ、なんか、たまにはいいかもな」

 ぼーとしていたのか、幸樹は一瞬きょとんとしてから、微笑んだ。

「絵なんて普段見る機会ないし、ゆっくり過ごせた感じがした」

 体育学科で学びながら、身体を動かしている幸樹にとって、こうしてゆっくり歩きながら絵を見ることは、確かに縁遠い感じがする。

 幸樹の声色に、偽りや夢野に対する遠慮は感じなかった。夢野はじんわりと、胸の内が温かくなる感じがした。


 夢野はベルガモットティーを飲み干した。

「今度は、幸樹の行きたい所に行こう?」

 幸樹を見る。ん? と幸樹は不思議そうに首を傾げた。

「夢野が行きたいとこでいいよ。特に行きたいとこないし」

 夢野は小さく首を振った。

「連れて行って欲しいの。どこでもいいよ」

 幸樹は頭を掻いて、少し困ったように笑った。

「じゃあ、考えとく」

「うん」

「なんか、ごめんな。俺、美術とかわかんないから、あんまり話せなくて」

「ううん。楽しかった」

 夢野は身支度を整えた。

「いこっか」

 外は朗らかな陽気で、暖かそうだ。どこかを目的もなくぶらぶら散歩するのも、いいかもしれない。ゆっくり話ができるように。


 外に出ると、春の穏やかな日が射していた。眩しさに手をかざす。

「夢野」

 声に振り返る。夢野は目を見張った。

 美術館の階段下に幸樹が立っている。その後ろ、階段の上に彼らがいた。灰色っぽい黒髪に、口髭を生やした男性と、日傘を差した淡い色のドレスを着た女性。

「夢野?」

 目の前に幸樹が立つ。二人の姿は見えなくなった。

「どうした?」

 不思議そうに眉根を寄せる幸樹の顔。心配してくれているのだろう、その顔は子犬のような愛らしさがある。

 夢野は首を振った。

「なんでもない」

 夢野は幸樹の手を取った。

 彼らがゆるく手を振っている。

 幸樹は戸惑いながらも、着いて来てくれる。夢野は彼の隣をゆっくり歩きながら、微笑んだ。

 夢の中で聴いたピアノが頭の中で鳴っていた。

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