始夢
高層ビルばかりの絵に描いた都会という印象を受ける街並みの中に、四角い輪郭の美術館が建っている。
行列に並んで、ぼんやりとしていると、入口の脇に白い像がそびえ立っているのに気がついた。
出迎えてくれたのは大きな両翼を華奢な肩から生やした勝利の女神だった。細い体にしなやかな服をまとっている。固い彫刻のはずなのに、彼女の体、髪、服、月桂樹の輪っかさえも柔らかそうに見える。
入場券を買って、展示コーナーへ向かう。休日ということもあってか、館内は賑わっていた。女性が多く、中でも年配の方が多い。
順路通りに進み、なんとなく展示物を見る。目当ての絵画が置かれているのは、意外と初めの方の部屋だった。
モネの『睡蓮』達は思っていたよりも、ぼんやりとした輪郭で描かれていた。夕暮れの淡い色合いをした池が映える『睡蓮』、花の咲いた『睡蓮』、蓮の葉が群生する『睡蓮の池』が横並びに展示されている。有名な画家の代表作とあってか、絵の前にたどり着くのには少し時間が掛かった。
夢野が一番の楽しみにしていたのが、モネの『睡蓮』達だった。芸術に明るくない夢野でも知っている『睡蓮』だが、どの『睡蓮』が、何年の『睡蓮』かは知らない。けど、そんな知識がなくても楽しめるのが、芸術のいい所だと思っているので、細かいことは気にせずに鑑賞する。
企画展のサブタイトルに印象派展と付けられている通り、『睡蓮』達は写実的ではなかった。はっきりとした線や色で描かれたイラストに慣れている夢野には、どことなくぼんやりとしているようにも見えた。
どの作品も睡蓮は柔らかく、それでいて一つ一つ暖かい、冷たいなどの違う印象を受ける。
夢野は脳裏に『睡蓮』達を焼き付け、ゆっくりと歩を進めた。
同じモネの『黄昏、ヴェネツィア』の淡い色彩の空と海が美しい。
ギュスターブ・モローの『化粧』には艶やかさと清廉さが共存している。
ピカソの抽象的な絵を、難しいなと思いながらプレートの解説を見て回り、気に入ったのは『馬』だった。白馬がひっくり返っているシュールな印象を受ける小さな絵だ。
ポール・シニャックの淡く細やかな点描画『コンカルノー港』には、船旅からの帰還を喜ぶ晴れやかな気持ちが浮かぶ。
巨大な古代美術品が並ぶガラスケースに入れられた『聖猫』は、長い胴体に鋭い目つきで、今にもしゃべりだしそうだ。
題名が描かれた日付になっている、ザオ・ウーキーの『07.06.85』は、深海を抜き取ったような深い青と真っ白な砂が濃淡の表情豊かな面立ちで、美術館の白い壁に掛けられていた。
美術館を一通り見終わると、昼時になっていた。夢野は空腹なのも構わずに、ふらふらとモネの作品が飾られている部屋へ行った。
どの部屋にも一つか二つの一人掛けソファが置かれている。入り口から見える場所に置かれた黒革のソファには、間接照明の光を反射する金髪の女性が座っていた。
その目の前には、木製の豪奢な飾り彫りがされた額に納められた、一目惚れの人がいる。
彼はこの美術館の作品の中でも、異質な空気を持っていた。最初に見た時も、鮮烈な印象を受けたが、数多ある他の作品に心を動かされた後でも、彼の魅力は際立っていた。
彼の前に立ち、じっと見つめる。一度目は心を奪われたように放心して、しばらく身動きが取れなかったが、今は少し冷静に彼の姿を眺めることができる。
金髪の女性が去った後、夢野は代わるようにソファへ腰かけた。深く座り込み、彼の横顔を見上げる。
彼の名前は、マルシャル。パリの邸宅でピアノを弾いている。ベージュを基調とした部屋のカーテン、壁、絨毯には赤い草花のリレーフが描かれ、壁に掛けられている小さな絵はささやかで、趣味がいい。
白い木枠の窓から穏やかな光が差し込み、彼と黒いグランドピアノを優しく包んでいる。彼は線の細い体にグレーのスーツを着こみ、首元には黒と赤のスカーフを巻いている。黒く光沢のある鍵盤の奥に、彼の細い手と白く輝く鍵盤が、一緒に映りこんでいる。
ピアノの上には、開かれている楽譜以外に、三冊の本が積まれている。彼は音楽家、積まれた本のよれ具合からも勉強熱心なのがわかる。
黒い木枠に赤いベロア生地、ふかふかのクッションをはめ込んだ椅子は、彼が腰かけている他に一脚、壁際に寄せて置かれている。
彼の前から、観客がいなくなると、遠くから徐々に音が聞こえてきた。じっとしていると、それははっきりと耳に響く、上質な音楽になった。柔らかで繊細だが、荘厳なピアノの音が、彼の手元から流れ出してくる。
休憩をするために設けられた――夢野にとっては彼を眺めるためだけの――小さなソファが、夢野一人のためだけに開かれた演奏会の特等席に変わる。彼の傍に置かれたもう一脚の椅子のように。
音に身を任せて、体から力を抜くと、彼のいる部屋が左右上下に広がり、夢野の座るソファを含めて、小さく展示室をくりぬいた。彼の繊細だが、激しい指の動きで、旋律が生み出され、夢野の耳をくすぐる。体の感覚がぼんやりとして、夢の中にいるような心地がした。
「お嬢さん」
演奏を終え、マルシャルがこちらを向いた。低く響く声が心地よい。夢野は彼の髭の生えた顔をまじまじと見た。マルシャルは口角を軽く上げて、細い目をさらに細めた。ゆったりとした優雅な動作で椅子から立ち上がり、マルシャルが手を差し伸べてきた。
「カフェでお茶でもいかがですか?」
うさんくさくなく、朗らかで自然なトーンで、マルシャルが囁いた。ぼうっとした頭で夢野は頷き、マルシャルの細く白い手に、自分の小麦色の手を乗せた。思っていたよりも強い力で、ソファから引き上げられる。
部屋を出て階段を降り、勝利の女神の前を通り過ぎ、ティールームへ二人で入る。入口近くの、大きな窓から外が見える席に腰かけ、夢野はホットケーキとベルガモットティー、彼はカフェ・オレを頼んだ。
暖かいカフェで何を話すでもなく、彼と隣り合わせに座っていると、頼んだものが運ばれてきて、よい香りが辺りに広がった。分厚く丸いホットケーキには、はちみつとホイップクリームが付けられ、大きな白いポットにベルガモットティーがたっぷりと入っている。彼の席には、二杯分のコーヒーとホットミルクが入った白い容器、空のカップが運ばれて来た。
「いただきましょうか」
彼が先にカフェ・オレに口をつけた。夢野はカップにベルガモットティーを注ぎ、慎重に口をつけた。既に蒸し時間を測られたベルガモットティーは少し苦味があり、仄かに柑橘の香りがする。猫舌に優しい温度だった。
ホットケーキにはちみつをかけ、ナイフを刺すと思ったよりしっかりした弾力があった。ホイップクリームも塗り、口に運ぶ。甘さが口に広がり、忘れていた空腹感が急激に戻って来た。夢野は彼のことも気に掛けつつ、ホットケーキをひたすら頬張った。
「夢野」
ホットケーキは綺麗に平らげ、ベルガモットティーは後一杯分がポットに入っている。夢野は一息ついた。声に振り返ると、マルシャルはどこにもいなかった。
隣の席でカフェ・オレに角砂糖を入れていたのは、フランスで育った渋くて豊かな口髭に覆われた顔を持つ音楽家、マルシャルではなく、彼とは正反対と言っていいような、童顔でいつも不機嫌そうな表情をしている男だった。
「幸樹?」
夢野は目を瞬かせ、彼氏を見た。幸樹は眉根をひそめて、軽く溜息をついた。
「大丈夫か? なんか、ぼーっとしてたみたいだけど」
「……うん、大丈夫」
あの力強い手は、幸樹の白い手と酷似している。夢野よりも白い肌、ぱっちりとした大きな目、柔らかい黒髪、そういう所を見ると幸樹は夢野よりも女性的だ。マルシャルの灰色に近い黒髪は太くて硬そうだったし、手の白さも、元の肌色のせいだろうと考えると、マルシャルが幸樹よりも男性的であったのは確かだ。
「すげぇ勢いで食ってたもんな……絵、そんなに面白かったのか?」
幸樹は退屈そうでも、楽しそうでもない声色で言い、カップの縁を小さく噛んだ。カッカッと陶器から軽い音がする。彼が手持無沙汰な時にする悪癖だ。
彼は元から口数が少ない方で、外出している時はもっと喋らなくなる。会話がないせいでよそ見をした隙に、はぐれたことも一度や二度ではない。
「うん……素敵だったよ」
夢野はどうしても、モネの『睡蓮』が見たくて、彼を引っ張って来たのだが、同じ部屋で出会った、ギュスターヴ・カイユボットの『ピアノを弾く若い男』に目を奪われた。描かれている男は、作者の歳の離れた弟、マルシャル・カイユボット。
初めは写真かと思ってしまったほど、彼ははっきりとそこにいた。夢野が彼を見つめている間、幸樹は話しかけてこなかったし、美術館を回っている間も、ほとんど会話はなかった。今だって、「そうか」と言ったきりカフェ・オレの入ったカップを眺めて黙っている。
マルシャルの存在感は確かにすごいものだったと思う。けれど、夢野が見たのは幻だ。マルシャルはここにはいないし、夢野の傍にいたのはずっと幸樹だった。
紳士的なマルシャルは、夢野が創りだした妄想の産物に過ぎなかった。空腹が満たされれば消えるような儚いもの。
夢野はマルシャルを見たのは、幸樹への不満からではないかと不意に思い至ってしまった。
確かに会話が少ないことについては不満がある。決してつまらないとか、そういった不満ではない。
付き合い始めた頃はお互いに緊張していて会話が少なかったが、付き合ってから三年経った今では、会話そのものをどうしていたのかも分からず、なんとなく無言で過ごしてしまっている。夢野は危機感を抱いていた。
カップにわずかに残っていたベルガモットティーを飲み、窓の外を眺める。舗装された白い道はよく晴れた春の日差しを反射し、街をさらに明るい印象にしている。日傘を差す女性が通り過ぎた後を追うように、グレーのスーツを着こなした男が悠然と歩いて行った。
「ねぇ」
夢野はぽつりと、小さく呼びかけた。
幸樹は夢野が見たという素敵な白昼夢の話を辛抱強く聞いた。途中で何度も「俺に不満があるってことか?」と不安を覚えたが、聞いているとそうでもなさそうだった。
「それでね、彼さっき外に出て行ったのよ、日傘を差した女の人を追って……素敵ね、あんな風に『絵になる』みたいな二人って」
夢野はポットに残っていたベルガモットティーをカップに移し、両手でカップを包み込むように持ってどこかを見ていた。
幸樹は彼女の話をどこまで現実として捉えたらいいのか、わからないと思いながら、真剣に返すことにした。
「まぁ……『絵になる』っていうほどの見た目ではないけど」
要するにそのマルシャルとやらの振る舞いが素敵で、綺麗な女性と並んでいる姿に憧れたんだろう。
自分はピアノも弾けないし、上品な話し方で接したり、常に細かく気を遣ったりなんて出来ない。見た目も長年運動部にいた割には日焼けしない性質で色白だし、筋肉はあるがあまりたくさんはつかないのか、細身なほうだ。たくましくもない、かといってか細くもない、中途半端な体型だ。おまけに顔はどちらかと言えば童顔。とても『絵になる』容姿ではない。
「そう、だね」
夢野は言葉に詰まりながら言うと、ズッと珍しく音を立ててティーを飲んだ。
否定されるとも、されないとも考えていなかったが、肯定されたのが我ながら少しショックだったみたいだ。言葉が出てこない。
元々口下手で、学生の頃から夢野が率先してしゃべってくれていたので、それに甘えているうちに口下手は悪化したようでもある。
今日のように夢野に黙り込まれると、話題に困る。何を話したらいいかわからないし、そもそも会話を求められているのかも、幸樹にはよくわからなかった。
二杯目のカフェ・オレを飲んでしまってからは、手持ちぶさたになって、窓の外を眺めるしかなかった。夢野を横目で見ると、ティーカップを眺めるようにうつむいて黙っている。