最終話 あなたに出会えてよかった
年末年始は、七瀬の担当クラスは普段以上に増え、お正月からリモートレッスンにスタジオレッスンと多忙を極めている。
彼女がこのスケジュールを組んだ当時は、まだ宗吾と付き合っていたので、年末年始は実家に戻ってスタジオ通いをするつもりだったそうだ。
実家に帰ると言えば、いくら予定を詰め込んでも文句を言われないから――というのが七瀬の考えた切ない理由だった。
陣はびっしり入った七瀬のスケジュールを見て、目を回した。
「長期休暇は書き入れ時だもんねえ。なになに、元日からリモートで朝の目覚めヨガ、腸活ヨガお正月バージョン、スタジオでワークショップにパワーヨガ……」
「実家に帰るつもりだったから、詰めるだけ詰めちゃったの! ごめんなさい」
これまでは、この手のことで毎度毎度、恋人から詰められていたのだろう。陣が嫌な顔をすることはないとわかっているだろうに、条件反射で申し訳なさそうな顔をする。
自分だって繁忙期は仕事で詰め詰めになるから、七瀬が忙しくしていてもまったく文句はないのだが、不安が募った。
「いや、仕事なんだから謝ることなんてなんにもないけど……俺が七瀬の体力についていけなくなりそう!」
もうすぐ七瀬が二十六歳、陣は今年で三十路に突入する。普段から毎日体を動かしまくっている七瀬と比べて、陣の体力が劣るのは当然のことなのだが……。
この一週間くらい毎朝一緒に走っているが、もちろん陣の方が先に息が上がって、途中からウォーキングになる。
七瀬もそれに付き合ってくれているが、彼女のワークアウトの邪魔をしているみたいで、少々自己嫌悪中だった。
学生時代はバスケをやっていたし、今でも時間を見つければ七瀬の早朝クラス以外にもジムに通ったりはしており、そこまで体力がないとは思っていなかったのだが、本物の講師を前に現実をまざまざと知ることになった。
「俺、七瀬のランニングの邪魔になってるよね……」
「最初は毎日じゃなくて、一日おきくらいに筋肉を休めつつ進めた方が効果的なんだよ。体力は日々の訓練を積み重ねればついていくものだから、焦りは禁物」
「でも、まだ五時台は外が真っ暗だし、七瀬ひとりで走らせるのは心配なんだ。俺が勝手に護衛のつもりでいるんだけど、護衛の方が体力なかった!」
苦笑したら、七瀬が目を細めて笑う。
「心配してくれてありがとう。継続すれば持続時間はあとからついてくるものだし、一緒に歩くの、楽しくない? 私、陣とたくさんおしゃべりしながら歩くの、すごく好き」
七瀬が前向きな言葉をくれるのも当然なのだが、心の底からそう言ってくれるから、ますます彼女にのめりこんでいく。
「まあでも、これまで自分を甘やかせすぎたから、ここはビシッと気を引き締めて、七瀬のクラス全部受講します!」
――という宣言の下、年末から七瀬のクラスを余すところなく受講した結果、正月は筋肉痛による寝正月へと変更を余儀なくされたのだった……。
――正月休みは七瀬にみっともない姿をさらしてしまったが、別件ではしっかり七瀬にいいところは見せておいたので、その情けなさと相殺になっていることと信じている。
年が明けて、年末から継続していた懲罰委員会の方針が決定し、大楠沙梨は重大なセキュリティ違反による解雇が決定した。
そして、上司である朝倉宗吾だが――こちらはパスワードの漏洩はあくまで「盗まれた」の主張なので、そこはグレーのままだったが、前回のヒアリングの日に本社ロビーで起こした騒ぎが問題視され、こちらも解雇が決定していた。
だが、これはあくまで会社の問題であり、七瀬とは関係のない話だ。それに、彼女の不安はそこではなく、宗吾による日常の待ち伏せである。
でも、これはあの騒動の翌日には不安は取り除かれていた。
――宗吾の父親は、メガバンクの青山支店の支店長である。
そして、陣の個人口座がその支店に存在し、陣は青山支店のVIP客なのだ。
クリスマスイブ当日、事の次第を聞かされた支店長が陣の専務室にすっ飛んできて、息子の非礼をカーペットに頭をこすりつける勢いで詫びた。
VIP客が、支店長の息子のせいで口座を引き上げるなどと言い出したら、支店長の地位を揺るがすほどの大問題だ。
「うん、まあ僕はいいんですけどね。ただ、ご子息の元恋人の女性が、彼から相当なモラハラを受けておりまして。彼女は弊社で招聘したワークショップ講師なのですが、弊社ロビーでご子息から口汚く罵られました。言い添えておきますが、彼女には客観的に見てなんの非もありません。僕への暴言や侮辱は目を瞑るにしても、彼女へのセクハラまがいの暴言は看過できません。それに、つきまといのような行為も確認しています。彼女がとても怯えていまして、これが続くようなら警察への通報も辞さない――」
「もっ、申し訳ございません! 愚息はすぐに自宅に連れ戻し、再教育をさせていただきます!」
「そう願えるかな。それで今後、彼女の前に故意に姿を現さないこと、街中でばったり会っても無視すること、これも付け加えさせてもらえるとうれしいね」
「仰せの通りにいたします! ですからどうぞ、警察は……」
「わかっていただければいいんです。それと、どうもご子息は女性を使用人か何かのように思っている節がありそうですので、ご家庭でももう一度、その辺の意識改革もお願いできますか。今後の彼のためにも。こんな時代ですしね」
――この脅しがたっぷり効いたようで、宗吾の恵比寿のマンションは即日解約された。
父親の弁解の中で知ったのだが、どうやらこのマンションは父親が家賃をすべて支払っていたらしい。
七瀬からは、前の家賃七万円をそのまま宗吾に渡していたと聞いているが、その七万円はどうやら父の手には渡っていなかった様子だ。
そのことはあえて七瀬には伝えなかったが、あまりにケチすぎてちょっと悲しくなってしまった。
部屋を引き払う際、陣も同行し、残った荷物を選別したのだが、七瀬の個人的なもの以外、宗吾との思い出のありそうなものは大半捨ててしまった。
『結果を手放す』が彼女の口癖ではあるが、このバッサリ感に陣は自分の気持ちも引き締めたものだ。
もうダメだと思ったら、七瀬の切り替えはめちゃくちゃ早い。
自分が手放される側にならないよう、たゆまぬ努力が必要そうだ。
◇
順調な同棲生活は一年を経て、今年の六月には結婚式が控えている。
陣との生活は本当に穏やかで、今まで否定されたり嫌な顔をされてきたことも、彼は快く受け入れ、後押ししてくれる。
顔色をうかがう必要もないし、怒声に怯えることもない。
だから、七瀬も毎日笑顔でいられるし、彼にやさしくありたいと思う。
こんな心穏やかな生活があったことに、毎日感動しているほどだ。
そこで、ずっと目標だった二度目のインド渡航を結婚前に実現させたいと言い出したのだが――。
「ずっと行きたいって目標立ててたもんな。もちろん行っておいでよ。でも、結婚したら行けないとか、そんなふうには考えないでね。俺との結婚を、枷と思ってほしくないから」
家柄が家柄なので、そちらのしがらみも多いことを心配しているのだろう。
でも陣なら、七瀬に背負いきれない分はきっと助けてくれる。今まで、一人で放り出されて困った状況に置き去りにされたことは一度もないから。
「うん、そんな心配はしてないよ。でも、今まで自由にさせてもらった分、結婚したらちゃんと三門社長の妻としても役に立ちたいし。三門社長の妻は放蕩なんで言われたらいやだもん」
陣は現在、グループ専務取締役から、子会社である帝鳳不動産の社長に就任しているのだ。
「そんなの、気にしなくていいのに」
「気にしてるわけじゃなくて、ただ、私がそうしたいと思ってるだけ。陣はいつも私に見返りなしでやさしさをくれるから、私も同じように陣に尽くしたいと思ってるだけだよ」
そう言って、陣のくれた指輪が光る左手で彼の手を握りしめた。
「私ね、あなたに出会えて、本当によかった――」
「俺こそ、こんなに愛おしいと思える君に出会えて、本当に幸せだ。でもこの幸せの結果は、手放すことにならない?」
そんな陣の問いかけに、七瀬は噴き出した。
「『幸せな結婚』を目指す過程と行為を大事にするんです。結婚してハッピーエンドじゃないですから。そこからも人生は続いていくから。あなたとなら、その過程もきっと楽しく過ごしていけると思うから――」
陣の肩に手を置き、七瀬からくちづける。
それに応えて彼の手が七瀬の腰を抱き寄せ、甘く重なるキスをくれる。
人生の時間をこの人と共有できる喜びをキスに込めて、七瀬は目を閉じた。




