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第32話 窮鼠、猫を噛み……

 明らかに顔色が悪くなった宗吾に、グループ本部長が報告内容を淡々と告げ、間違いないか確認していく。

 だが、宗吾は聞いているのかいないのか、放心して一点を見つめたままだった。


 恋人をめぐって対立している男が、まさか自分の会社の上層部の――創業家の人間だったなんて、陣が逆の立場だったら、絶対に経験したくないとは思う。


 ここは仕事の場なので個人的な事情はおくびにも出さないが、七瀬という恋人がありながら、年末に大楠沙梨と旅行するというクソな計画に、はらわたが煮えくり返ったのは言うまでもない。

 もっとも、そのおかげで七瀬を恋人にすることができたのだから、陣としても胸中は複雑だ。


「……大楠さんは、ネットワークの設定変更をかけられる管理者権限を持っておらず、朝倉マネージャーのアカウントを使ってログインしたとのことですが、彼女にパスワードを教えたのですか?」


「いえ……」


「大楠さんは朝倉マネージャーから教わったと言っていましたが、違うと言うのなら、なぜ彼女がパスワードを知っていたのでしょう」


「それは……わかりませんが、ソーシャルエンジニアリングを使って取得した可能性も……」


 あえてカタカナ語を使い、こちらを混乱させようとしているのだろうか。だとしたら、さすがに舐められすぎだろう。

 本部長に代わって、陣が身を乗り出す。


「つまり、彼女が朝倉マネージャーの心理や行動を利用して、情報を引き出した、と?」


 たとえば、信頼できる同僚や管理者を装ったメールを送信し、ログイン情報を入力するように促すフィッシングだったり、肩越しののぞき見などなど、方法はさまざまだが、相手の信頼を得て情報を引き出す手法のことだ。


 陣が問いかけたら、それまで混乱した様子だった宗吾が目を上げた。昏い情念を湛えたような目に、危険なものを感じる。


「――方法は知りません。彼女に聞いてください。なぜ私が、一部下の旅行の予約に協力するため、自ら倫理規定違反を犯さなくてはならないのですか。何のメリットもないことです」


「大楠さんが旅行の予約をしていたのは知っているんですね。その旅行は、誰と一緒に行くのか聞いていますか?」


「さあ」


 ここで陣は用心深くなった。月曜日の自社ヒアリングでは、大楠沙梨が彼との旅行予約をしていたことを認識していたと報告を受けている。


「そうですか。彼女は、朝倉マネージャーとお付き合いをしていて、あなたと旅行すると言っていましたし、月曜日はあなたもそれを肯定されていたと思いますが……」


「あのときは混乱していて、自分でも何を言っていたのかよく覚えていません。昨日一日、自宅でこの件についてじっくり考えていたのですが、これは意図的に仕掛けられた罠である――そういう結論に至りました」


「罠?」


 一同がざわつく中、宗吾が立ち上がって会議室中を見回した。


「大楠さんが何を言っているのか、詳しくは存じ上げておりません。ですが、私は彼女とお付き合いはしていません。大楠さんの研修担当でしたので多少は親しいですが、個人的な付き合いはないです。私には一緒に暮らしている恋人がいますので」


 そして宗吾は、まっすぐ陣を見据えた。


「ところがそこにおられる三門専務が、私から恋人を奪うために罠をしかけたのです」


「は……?」


 全員の視線が陣の上に集まる。


「それは、どういうことでしょう」


 本部長は陣と宗吾を交互に眺めて、理解不能という顔をしている。


「実のところ、私は大楠さんからストーカーに近い行為を受けていました。弁当を作ってこられたり、週末に呼び出されたり。自分が育てた後輩ということもあって、彼女にはほかの社員よりやや親しくしすぎた部分があり、その点は非常に反省しています。つい一年前まで学生だった大楠さんに、社会人としての距離感などを教育すべき私が、それを教えられなかったことは悔やんでも悔やみきれません」


 そうきたか。陣は背筋を伸ばして座り直した。


「これはプライベートな話になってしまうので恐縮ですが……私が三年近く同棲している恋人は、この近所のヨガスタジオで講師をしています。三門専務はそのスタジオに通われているそうですが、彼女に恋心を抱いたのでしょう。ところが、彼女には私という恋人がいる。しかも帝鳳の子会社に勤めている平社員だ。手っ取り早く私を失脚させるために、三門専務が大楠さんをそそのかしたと、そのようにしか考えられません」


 開いた口が塞がらない類の妄言だが、事情を知らない人から見たら、まったくの嘘だとは思えないかもしれない。


「三門専務……?」


 一同の問いかけるような視線を受けて、陣は首を横に振った。


「完全な虚偽です」


 動揺する理由はひとつもない。陣はまっすぐ宗吾の顔を見たまま断言した。


「ではなぜ、私の恋人は現在、三門専務の自宅にいるのですか?」


「朝倉マネージャー、履き違えないでください。今回のイレギュラーと、プライベートはまったく別の問題です。いや、別問題と言えない部分もありますが、それをここで話して困るのは、僕よりむしろ朝倉マネージャーの方じゃないですか?」


「それは立場を利用した脅しですか? パワハラだと思います」


 立場の弱さを逆手にとって脅迫するのは、逆パワハラな気もするが……。


「いいえ、パワハラではなく事実です」


「そうでしょうか。先週、帝鳳本社(ここ)で組合のワークショップが開催されましたよね、ヨガの。その講師こそ私の恋人の鈴村七瀬で、三門専務が指名したんですよね? それは利益相反や倫理規定違反になるのではないでしょうか」


「論点がずれてますね。それとこれも別問題でしょう」


 そこで言葉を切り、陣は左右を見回した。この話を続けていいかの確認だ。

 明快な返答はなかったが、続けるよう促す空気があったので、陣は口火を切った。


「では、講師派遣の件について明確にお答えしておきます。僕は鈴村先生を指名で呼んではいません。組合にヨガのワークショップ開催の要望がかなりあると聞いていたので、参考までに近隣の『シャンティ』というヨガスタジオを紹介はしました。以前……二、三年ほど前になると思いますが、そのスタジオから講師を招聘した実績があったので。最終的に選定したのは組合です。組合に問い合わせていただいて構いません。そして、実際に講師を決定したのはスタジオ側です」


「…………」


「補足すると、僕がそのスタジオに通うようになったのは、このワークショップがきっかけでした。当時の講師はアメリカに渡ってしまいましたが、いい講師が多いスタジオなので、ご興味があればみなさんもどうぞ」


 淀みなくきっぱり言い切ると、宗吾はそれ以上なにも言えなくなったようで、悔しそうに押し黙った。

 他の面々も虚を衝かれたようにしんとしている。


「ここで疑念が残るのも問題ですので、朝倉マネージャーの言うことが虚偽であることをはっきり伝えさせてもらいます。僕に後ろ暗いところは何一つありませんから」


 陣が七瀬と知り合ったのは、件のヨガスタジオであること。

 彼女の恋人がアストラルテックの社員であることは、月曜日に秘書の木崎から報告を受けるまで知らなかったこと。

 そもそも七瀬が宗吾と別れるきっかけとなったのは、宗吾自身のモラハラと、大楠沙梨との浮気であること。


「十二月五日は、九州へ出張と鈴村先生に嘘を言い、大楠さんと表参道を歩いていたそうですね。先週の土曜日は、先生が地方ワークショップに行っている隙に、大楠さんを自宅に招いていたとか。これ以上は、この場に無関係の鈴村先生のプライバシーにも関わるので、詳細はお伝えしません。みなまで言わなくとも、朝倉マネージャーの心には覚えのあることばかりでしょう? 僕がたびたび鈴村先生と居合わせたのは、僕も彼女も青山を拠点にしているから。偶然です」


 宗吾はそれでも怯むまいと、平常心を装って陣をにらみつけている。


「でも、すべて三門専務が言っているだけのことですよね。何の証拠もない」


「それを言ったら、朝倉マネージャーの言っていることも証拠はないですね。ただ、大楠さんがお弁当を作ったのも週末に誘ったのも、すべて朝倉マネージャーから快諾を得ていると聞いています。これも」


 陣は資料の中から数枚の紙を取り出し、宗吾の前に置いた。


「これは業務メールの中で、朝倉マネージャーと大楠さんの私的会話をしているものです。お弁当の感想や、表参道でのデートの出来事、旅行の日程候補、その他もろもろ……。とてもストーカーをされているとは思えない内容ばかりですが」


「――私は何度も彼女に警告したんです。業務中にやることではないと。メールは……社内で和を乱すのはよくないと考え、適当に相槌を打ってましたが、業務外の時間に注意はしていました。公私の区別はつけるようにと……」


 そのときだった。バンッと扉が開き、恐ろしい形相をした沙梨が飛び込んで来たのだ。


「大楠さ――」


 もう帰らせたはずの彼女がいることに、その場の全員が呆気に取られた。

 彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔で宗吾の元へ歩み寄ると、驚き固まる彼の頬を力任せに平手でひっぱたいた。


「宗吾さんが呼ばれたって聞いて、擁護しようと思ってきたのに、この嘘つき! 客先に外出した後、直帰って嘘ついてホテル誘ったのどこの誰よ!? 彼女は相手してくれないからってお泊まりデートも二回したし、年末だって旅行しようって……スイート取ったのに、このクソ男――!」


 突然の闖入騒ぎで、もはやヒアリングどころではなくなった。

 数人がかりで沙梨と宗吾を引き離し――宗吾は一方的に叩かれまくっていただけだが――、収拾がつかぬまま、うやむやのうちに中止と相成ったのだった。

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