第29話 あの頃の再来
午前六時。アラームの音で目を覚ましたとき、ベッドの隣はもぬけの殻だった。部屋に視線を巡らせたが、やはり彼女の姿はない。
「七瀬さん……?」
昨晩、七瀬があんまり悲しげに、声もなく泣いていたから、子供をなだめるような感覚で一緒に眠ったのだが……。
元の自宅から荷物を引き上げに行った後、部屋から出てきた七瀬は明らかに表情を曇らせていて、泣き出すのを必死にこらえている様子だった。
何があったかは聞いていない。ただ、ショックを受けている様子だったので、根掘り葉掘り聞き出して余計な心労を増やしたくなかった。
必要があれば、七瀬から話してくれるだろう。
ベッドに入った頃には涙は落ち着いていたが、あの明るい七瀬が心細そうに縋ってくるのだ。自分のベッドにお招きし、安心させるように抱きしめて一晩中髪を撫でていた。
相手は意中の女性なので、ベッドであんなに密着されていたら、理性がもろくも吹き飛ぶシチュエーションではあったが、傷心の七瀬に何かするという発想には至らなかった。
第一、他の男のことで沈んでいる七瀬に手を出して、自分とのことをネガティブな記憶と紐づけられでもしたら、目も当てられない。
七瀬とは明るく平和なお付き合いを希望しているので、彼女が全面的に自分に心を寄せてくれるのを待つつもりだ。
それはそうと、昨日のこともあって七瀬が不安定になっているかもしれない。
姿が見えないことに一抹の不安を抱えながら寝室を出たが、カーテンを開け放ってあるリビングにも七瀬はいなかった。
(まさか、出て行った……?)
恋人宣言をしてからその日のうちに同棲開始というのは、七瀬が心配していたとおり、やや性急なきらいがあるのはわかる。
でも、これまでの経過を見る限り、恵比寿のマンションには帰せないし、昭島にあるという実家に戻るのは、仕事を軸に考えるとあまり現実的ではない。
片道一時間半の通勤が苦にならない人もいるだろうが、火曜木曜の朝、七瀬は南青山で七時半からのクラスを受け持っているのだ。七時にスタジオ入りするにしても、五時半には電車に乗っていなければならない。
自宅から会社が徒歩圏内の陣には、移動だけでそれだけ時間を無駄にするのは考えられなかった。
そんな時間があるなら、あと十分でも長くベッドにいたい――。
自分の価値観を元に同棲を強行してしまったが、一晩経って七瀬の気が変わってしまったのなら。
そんな心配をしたときだ。玄関扉が開く音がした。
急いで駆けつけてみると、トレーニングウェア姿の七瀬が、息を弾ませて戻ってきたところだった。
「あ、陣さんおはようございます!」
「七瀬さん、どこに……?」
「毎朝、三十分ほどランニングしてるんです。青山公園、一度走ってみたかったんですよね。近いし景色もよくて、すごくよかったです! あ、鍵は勝手にお借りしちゃいました。ごめんなさい」
昨晩の沈んだ顔などどこへやら、頬を紅潮させた七瀬は上機嫌だ。
この様子には拍子抜けしたが、この切り替えの早さが彼女の明るさの秘訣なのだろう。
もちろん、切り替えるために、内心ではめまぐるしい葛藤があったのだとは思うが。
「一日中レッスンで動き回るのに、こんな朝早くから?」
「体のエンジンがかかって快適なんです。私、生活が朝方なので、陣さんの生活とずれてたらごめんなさい。でも、陣さんも朝早い方ですよね。毎週、早朝クラスを受けに来てくださってるくらいですし」
まっすぐ陣の目を見てにこにこ笑う七瀬を見ていたら、どうにも言葉にならない大きな感情の塊が生まれた。
思わず、玄関で靴を脱ごうとしていた七瀬を思いっきり抱きしめる。
「じ、陣さん……っ、私、汗かいてて――」
いきなり抱きしめられて七瀬があたふたしているが、そんな様子も愛しくてたまらない。
「七瀬さんずるい。そんな楽しいことをしてるなら、俺も誘ってよ」
これは多大なる機会損失だ。一緒にランニングをするというスペシャルイベントが足元に転がっていたのに、気づかずのうのうと寝て過ごしてしまったとは……。
「陣さんも、一緒に走ってくれるんですか……?」
驚いたように七瀬が言うので、全力で首を縦に振った。
「今日は帰りにスポーツ用品店に寄ってくるから! ウェア買ってくる! 七瀬さんも一緒に行かない?」
「えっ、行きたいです! あ、でも……夜は十八時四十分から南青山スタジオでクラスがあって……」
リビングに戻りながら誘ってみると、なぜか七瀬は申し訳なさそうだが、予定をすり合わせる作業すら陣には楽しい。
「じゃあお昼は? うちの休憩時間、十一時五十分から」
「その時間なら空いてます」
「オッケー、じゃあランチして買い物行こう。ちょっとあわただしくなっちゃうけど」
「わ、すごく楽しみです!」
待ち合わせ場所を決めたときの、七瀬のうれしそうな顔。自分との待ち合わせをこんなにも喜んでくれるなんて、こっちもうれしい。
あの朝倉宗吾という男、こんなにかわいい恋人を蔑ろにするなんて、いったいどこが不満だったのだろう。
「あ、朝食、今日は私が作りますね」
「いいからシャワー浴びておいで。ワンパターンのトーストでよければ俺が準備しとくから」
「でも、ここでお世話になるたび、いつも陣さんに用意してもらってて申し訳ないです」
「昨日までは七瀬さんはお客さんだったから、それは当然でしょ。それに、七瀬さんに腕を振るってもらおうにも、大した食材もなくてね。今度、一緒に買い物行った後にお願いするよ。時間のあるときに、生活のルールなんかもゆっくり話そう」
「――陣さん」
七瀬が急に真顔になって向き直ったので、少し身構えつつ次のアクションを待ったのだが、彼女は「大好きです」と、背伸びして陣の頬にキスをした。
「陣さんが恋人になってくれて、とてもうれしいです! シャワーお借りしますね!」
自分からキスしておいて照れたのか、七瀬は逃げるように洗面室に行ってしまった。
彼女の唇が触れた頬に手を当て、しばし呆然と立ち尽くしていた陣だが、猛烈に頬が赤らんでいるのを感じて、思わずその場にしゃがみこんだ。
「中高生か……!」
二十九歳、冬。
三十路手前で青春時代の再来を予感し、久しく忘れていた甘酸っぱい感覚に悶絶するのであった。