第22話 恫喝してしまいました
日曜は一日中、熱に浮かされて記憶がところどころ飛んでいたが、陣の家にいることに無意識のうちに安堵感を覚えていたのか、ゆっくり休むことができた。
そのおかげか、朝、目を覚ましたら熱は引いていたし、咳などの症状もない。今日のクラスを休講にせずに済みそうだ。
時計に目をやると、午前六時。月曜だから陣は出勤だろう。自宅に戻れそうなコンディションになっていて本当によかった。
カーテンを開けて白々と夜が明けていく空を眺めながら、陣から告白されたことを改めて思い返し――顔を手で覆った。
成り行きとはいえ、陣には迷惑をかけ通しの挙句、まさかあんなことになるなんて――。
(深夜テンション、怖い……!)
彼のやさしい言葉がうれしくて、ありがたく受け止めはしたが、冷静になってみると、七瀬の人生において屈指の事件だ。
自宅でショッキングな場面に出くわし、ふらふらになって青山に向かったのは、心の奥底で七瀬も陣に惹かれていたからなのかもしれない。
あのお店に行けば陣がいて、困った自分を助けてくれる――。
そんな甘えで、陣の時間を盗むことになってしまったのではないかと不安にも思ったが、それを口にしたらきっと彼は否定するだろう。
雪降る夜、七瀬のために走り回ってくれた陣を愛おしく思う。
やさしくされるとうれしいから、自分も人にやさしくありたい。そういう穏やかな関係こそ、七瀬の憧れるものなのだ。
もう宗吾の元には戻れない。戻りたくない。彼の傍に行くことは、自分を痛めつけることと同じだから。
「七瀬さん、起きてますか?」
そのときノックの音とともに、ドアの向こうから陣の声が聞こえてきた。
「あっ、はい! おはようございます」
駆け寄ってドアを開けたら、スウェットを着た寝起きの陣の姿。
いつもはワックスで毛束感を出している髪は、まだ整えていない状態なのでぺたんとしていて、普段よりも幼く見える。
そんな姿にきゅんとしてしまい、頬を赤らめた。
「おはようございます。具合はどうですか?」
「おかげさまで、もうすっかり良くなりました。お世話をおかけしました」
照れた顔を隠すために頭を下げたら、陣の手が七瀬のおでこに触れた。大きくてしっとりした手に、ドキドキが止まらなくなる。
「熱は下がったみたいですね。よかった。汗もかいたでしょうし、調子がよかったらシャワーでも浴びてきてください。その間に朝食の準備をしておきますから」
「何から何までありがとうございます。では、お言葉に甘えて……」
先日からずっと陣には助けられてばかりで、何も返せていない。宗吾のことがどうなるか不透明なままだが、恩はあとでまとめて返そう。
シャワーを浴びてさっぱりし、身支度を整えてリビングに行くと、今日もコーヒーのいい香りに包まれていた。
今日はカウンターではなく、ソファセットのほうに朝食が用意されていた。
ライ麦パンのサンドイッチとサラダ、湯気の立つポタージュ、淹れたてのコーヒー。
「え……っ、手作りなんですか!?」
思わず声を上げてしまう豪華な朝食だ。でも、陣は首を横に振って笑った。
「さすがにここまで手の込んだものは。下に早朝営業のパン屋があるので、ちょっと行って買ってきました」
「あのっ、お代を――」
「気にしないでください。実はこれ、お詫びも兼ねているので……」
「お詫び?」
珍しく陣が歯切れ悪く笑い、ソファに腰を下ろした七瀬にスマホを差し出した。
「え、私のスマホ……ですか?」
「昨晩、七瀬さんの様子を見に行ったら鞄の中でずっと鳴ってました。七瀬さんが起きてしまうから、電源を消そうとしたんですね。そしたら……」
言われて電源を入れてみたら、一目でドン引きするほどの着信履歴が残されていた。
たどっていくと、最初のほうは陣からの電話で、土曜の夜に七瀬を捜してくれたときのものだ。
陣からの不在着信は五件だったが、翌晩の宗吾からの着信は、二分おきくらいに一時間ほど続いており、SNSにも、胸騒ぎがするような内容のメッセージがたくさん残されていた。一目見て、画面を閉じてしまう類の。
実際に七瀬は読まずに、アプリを閉じた。留守電の通知もいくつかついている。たぶん聞かない方がいいだろう。
「あんまり着信がしつこく続いたので、つい出てしまいまして……」
「えっ、宗吾さんと話したんですか!?」
陣と宗吾の会話なんて想像もつかないが、宗吾が失礼なことを言ったのではないかと心配になった。
「ハイ……。ほんの十数秒だったと思いますが、つい非暴力に反して、彼を恫喝してしまいました」
「ど、恫喝?」
おおよそ陣のイメージから遠い文言である。
「七瀬さんを帰らせるつもりはない――と。ほんと、すみません」
どう反応すればいいのかわからなかったが、七瀬は苦笑した。
「陣さんがそんなことを言うくらいだから、宗吾さん、いきなり怒鳴りつけてきたんじゃないですか?」
「それはその通りなんですが、え、ちょっと待って下さい。怒鳴るのが普通のことなんですか!?」
「いつもというわけではないですが……」
電話を取った瞬間に怒鳴られるのは決して皆無ではないから、いつも通話ボタンを押す前は、無意識のうちに心に盾を作って用心していた。
電話口の声が普通のトーンだったときは、ほっと胸をなで下ろすのだ。
「……信じがたい」
陣のような穏やかな人には想像もできないだろう。七瀬も、二年半に亘って慣らされてきた異常にようやく気が付いた。
陣はため息をつき、空気を変えるようにサンドイッチを勧めてくれた。
「スープが冷める前に食べちゃいましょう」
「はい。いただきます」
両手を合わせてありがたくサンドイッチにかぶりつく。
彼の家に来るたびにごちそうになっていて、本当に申し訳なく思うが、こんなふうに食事が準備されているなんて感動ものだ。
「おいしいです! もしかして、先日ごちそうになったトーストも、ここのパン屋さんですか?」
「ええ。近所なのでもう常連なんですよ」
「すてきですね」
ゆっくり談笑しながらの朝食はとても平和で、これが毎日の光景だったら――なんて夢想をしてしまった。
「それで七瀬さん」
食事を終え、コーヒーのマグカップをテーブルに置いた陣が、重々しく口を開く。
「昨晩、彼と少しだけ話して思ったんですが――まあこれは、彼を挑発してしまった俺の責任でもありますが、やっぱり家に戻るのは危険です」
言われるまでもなく、自宅に戻るのは恐怖だ。
このスマホに残された履歴を見れば、陣の対応はたぶん関係ないだろう。彼が電話を取らなければ、さらに通知が増えていただけの話だ。
そして、昨日の状態で七瀬がこれを見たら、気持ちが折れていたかもしれない。自分が電話を受けていたらと思うと、心が淀んだ。
「彼がまっとうなら――浮気する時点でまっとうじゃないですが――七瀬さんがケリをつけてくるまで待つつもりでしたが、あれは男から見ても引きました。そんな危険な場所にみすみす帰すなんて、人のすることじゃない」
猛獣の檻かなにかみたいな言われように、七瀬は苦笑した。
でも、笑っている場合ではないのだ。
「でも一度はちゃんと話をしないといけません。彼は、私が何を見聞きしたかも知らないので、そこはきちんと伝えます。宗吾さんがどうしたいのかも、私がどう思っているのかも、今後のことも、腹を割って話せるといいんですけど……」
「話すのは必要だと思いますが、二人きりはダメです。話すのは人目のある所にして、ケリがつくまではこの家に戻ってきてください。そして、ケリがついたらこの家に来てください」
七瀬は目をぱちくりさせる。どのみち、この家に来いと言われているようだが……。
「正直に言います、七瀬さん。俺はあなたを彼の元に帰す気がない。彼に言ったことは本心です。きっと七瀬さんには、彼への義理や愛情だって残ってるだろうと思う。でも、恋人と呼んで一緒に生活しているにも関わらず、他の女を家に上げたり、ましてや頭ごなしに怒鳴りつけたり――そんなの普通でも当たり前でもない。そんな暴力的な環境に慣れちゃいけない」
「…………」
「なら、この家を緊急避難場所にしてくれて構わない。いや、そうじゃないな。ここを七瀬さんの帰って来る場所にしてほしい」
それまで、どこか距離を保つようにていねいだった陣の口調が砕けて、ぐっと彼が近づいてきた感じがした。
「でも、それでは……」
「迷惑とか厄介とか、まったく思ってない。そんなことを思うなら、はじめから下の店で七瀬センセーに声はかけてない。家に連れてきたりしない。俺にとって、あなたは大事な存在だから。ヨガの先生としても、ひとりの女性としても。七瀬さんが、俺のことをそういう対象に見られないと言うなら諦めるけど、先日、俺のことを好きだと言ってくれたのは、正直ですよね?」
諦める気なんてこれっぽっちもなさそうな堂々とした告白に、恥ずかしさやうれしさが入り混じる。でもなにより、安心感が勝った。
さまざまな事情をひっくるめても、七瀬にとって陣のテリトリーは安全な場所であると、すでに刷り込まれているから……。
七瀬は赤らんでいそうな自分の頬に触れ、上目遣いに陣を見る。
「そこまで……私を好きになってくださってありがとうございます、陣さん。本当は一人じゃ心細かったって……言ってもいいですか?」
「もちろん。今はまだ、七瀬さんが望まないから恋人と呼ぶのはやめておくけど、俺はとっくにそのつもりでいるので」
力強い応えに、あっさり七瀬の気持ちは陣の上に落ちた。