第20話 彼女の熱に触れて
「……三十八度二分。今日は寝ててください」
「でも、これ以上ご厄介になるわけには」
一晩明け、日曜日の朝。七瀬から受け取った体温計を見て、陣は首を横に振った。
「なに言ってるんですか、こんな高熱で修羅場の家に帰ってどうするんです。今帰るのは、非暴力に反します」
ゲストルームのベッドに彼女を否応なく連れ戻し、お説教とともに冷却シートをおでこに貼った。
朝、目を覚ました七瀬がリビングにやってきて、喉の渇きを訴えたのでミネラルウォーターのペットボトルを手渡そうとしたのだが、明らかに顔が赤くて様子が普通ではない。
彼女のおでこに手を当ててみたら――当てなくてもわかったが――ひどく熱かった。
考えるまでもなく、すぐさまベッドに放り込んだというわけだ。
「あとで往診に来てもらいますから、本当に今日は何も考えずに寝ててください」
陣が枕もとの側机にストローをさしたミネラルウォーターを置いたら、七瀬はそれをこくこく飲んでベッドに体を預けた。
「……ごめんなさい。でも往診なんて、そんな」
「ウチの主治医ですから、お気になさらず。人間なので、体調を崩すこともあります。そんなことに責任を感じてはいけません。氷枕を持ってきますね。おかゆは食べられそうですか?」
「……はい」
七瀬が遠慮するそぶりを見せたが、陣がそれを許さない笑みを向けたら、おとなしく布団にもぐりこんだ。
「――あの、陣さん」
「なんですか?」
「ここにいていいって言ってくださって、ありがとうございます。帰って、もしあの人がいたら、どうしようって……」
発熱のせいで気も弱っていたのだろう。七瀬の口からぽろりとそんな本音が漏れたので、陣は笑って彼女の頭を撫でた。
「今日はゆっくり休んで、心配事の解決は治ってからにしましょう」
七瀬はこくんと頷いて、素直に目を閉じた。
おそらく発熱の原因は心労が祟ったことと、寒空の下にいたせいだろう。
兄の店で少しは温まっていったようだが、滞在時間はほんの十五分程度だったというし、昨晩の冷え込みは容赦なかった。
おまけに、あんな水っぽい雪の中を傘もささずにいたら、あっという間に冷えてしまったはずだ。
現に、陣が駆けつけた時には七瀬の小さな手は赤くなって、氷のようだった。唇は青ざめ、体も震えていた。
何があったかは断片的にしか聞いていないが、七瀬の彼氏の様子はこの目で見たから、なんとなく察するものがある。
最初に七瀬の彼氏を見かけたのは、『Vintage Voltage』店内だ。衆人環視の中、語気荒く七瀬を責め立て、彼女を置き去りにしたとき。
カウンターでビールを飲んでいたら、七瀬が店内に入って来たのが見えた。
見知った人だったのでつい注目してしまったが、明らかに待ち合わせ顔だったので声はかけずにおいた。
男の前に座ったので、(彼氏がいるのか――)と微かに落胆したのは覚えている。
七瀬は通っているヨガ教室のインストラクターなので、別に口説こうだとか考えていたわけではないが、本当にかわいらしい人だ。軽く言葉を交わすだけだったが、彼女にはいい印象しか持っていなかった。
――それきり目で追うのはやめたが、男の責めるような口調がいやでも耳に入ってきた。
思わず振り返ったら、近くの客が彼らの様子を見て引き気味の顔をしているではないか。
陣から見えたのは男の後姿と七瀬の顔だが、彼女が必死に笑みを浮かべ、不穏な空気を穏便に持って行こうとしている姿が印象的で、同時に不憫だった。
会話の内容までは聞こえなかったが、陣の知る限り、彼女は穏やかで朗らかな女性であり、決して人を怒らせるタイプではない。
あのやさしい雰囲気は、ヨガインストラクターとして取り繕うために作ったキャラクターではなく、彼女の地のはずだ。
そんな彼女に頭ごなしに物を言い、不安そうな顔をさせ、挙句の果てに待ち合わせしていた店に置き去りにして帰る男の対応に目を見張った。
(恋人じゃないのか……?)
女性に――というか、誰かを詰って放り出して立ち去るという、陣には思いつきもしない行為にただただ驚いた。
七瀬は後を追いかけようとしたものの、たぶん料理をオーダーしたことを思い出したのだろう。周囲の好奇の目にさらされながらも、気まずそうに座り直した姿に胸が痛んだ。
だから、声をかけずにはいられなかった。
当の七瀬はそんな扱いをされたのに恨み言を漏らすでもなく、反省と言って自戒していたが、あまりに人が良すぎて逆に不安になった。
二度目は、つい先日の水曜日。
いかにも会社帰りといったスーツ姿の陣と一緒に歩いていただけなのに、いきなり七瀬を怒鳴りつけて強引にひきずって帰ったのだ。
その言い分も、ずいぶん乱暴なものだった。
さすがに怒りが湧いたが、七瀬は事を荒立てたくなかったのだろう。首を横に振って、陣に笑いかけてきた。
陣自身は決して気性が荒い性格ではないが、理不尽なことをされて黙って耐える趣味はない。七瀬ほど達観していないし、そこまで平和主義に徹するつもりもないから、あの男に物申してやろうと思った。
しかし、現状の陣は、彼女にとって顔見知り――せいぜい数いる生徒の一人でしかない。
彼ら二人の間に口を挟める立場ではないし、そうやって第三者の自分が割り込むことで、七瀬の立場が悪くなる可能性だって否定できない。
今の自分では、七瀬の受け皿になれないのだ。
そう考え、あのときは思いとどまって後ろ姿を見送ったが、次はない。そう考えた矢先の出来事が、昨晩のこと。
七瀬が傷ついていなければいいと気を揉んでいたとき、兄から七瀬の来店を知らされ、無我夢中で家を飛び出した。
彼女の普段のスケジュールから、土曜とはいえそんな遅い時間に青山近辺をうろついているのは不自然だったから、イレギュラーが発生したとしか思えなかったのだ。
名刺をもらっておいて本当によかった。見つけられたときは、心の底から安堵した。
七瀬には、理解ある男のフリをして、彼らの間に決着がつくまでは待つようなことを言ったが、正直なところ彼女を帰らせたいとは思っていない。
そもそもこんな高熱で、とても帰らせられるわけがない。
朝はお粥を作って食べさせ(陣が生米から作ったお手製のお粥に、七瀬がなぜか感動していた)、午後は主治医に往診に来てもらい、インフルの可能性も否定できないからと言われ、熱冷ましをもらった。
昼間もずっとうつらうつらしていたから、よほど具合が悪かったのだろう。
夜、ゲストルームに様子を見に行った時も七瀬はぐっすり寝ていたが、ふとスマホのバイブ音がしていることに気づき、部屋を見回した。
ベッドの側に置いてある、七瀬の鞄の中から聞こえてくる。
勝手に鞄をあさるのは気が引けたが、音がうるさくて七瀬が目を覚ましてしまうかもしれない。
電源を切るためにポケットの中からスマホを探し当て、画面を見たら『宗吾さん』という表示。
七瀬の恋人からの着信だったのだ。
スマホを持ってゲストルームを出た陣は、リビングのソファでもう一度スマホを見る。
一度は切れたのだが、それほど時間をおかないうちに、またしつこくかかってきた。
スマホのロックは解除できないものの、通知欄には着信履歴がずらりとついているのが見える。
「うわ……鬼着信かよ」
この着信数から想像するに、かなり面倒くさいモラハラ臭を感じた。
――昨晩、自分も七瀬のこのスマホに鬼電した事実は、この際棚に上げる。
陣が彼女のスマホを手にしてから、二度、着信を見送ったが、間髪容れずにかかってきた三度目は通話モードにした。
『――七瀬! なんですぐ出ないんだ!』
かなりの大声だったので、スマホを耳に当てていなくてもはっきり聞こえてくる。
『今日、帰って来るんだよな? 何時に帰って来る?』
宗吾の声は威圧的ではありながらも、陣の記憶にあるよりも謙ったトーンだ。どこか、様子伺いをしてでもいるようだ。
あるいは、後ろめたさを隠すために怒鳴りつけているのか。
もしかしたら、昨晩、七瀬が自宅に戻ったことに気づいているか、疑っているのではないだろうか。
彼女の性格からして、土曜のうちに帰宅することは伝えていただろうし。
『七瀬、聞いてるのか? どこにいるんだ、何時に帰ってくる!?』
陣が無言のまま聞いていると、どんどん男の声が怒気を孕んでくる。
あの小柄でかわいらしい女性に向かって、常日頃からこんなトーンなのだろうか。むかっ腹が立ってきた。
穏やかな七瀬の前にいると感化されてしまうのか、これまではやや猫を被っていた陣だが、とてもとても、非暴力だとか言っていられない。
「――悪いが、七瀬はその家に帰さない。近いうちに荷物を取りに行くから、そのつもりでいろ」
この手の男は、得てして自分より弱い者には高圧的に出るが、強そうな相手に同じ態度は取らないものだ。
意識して、低く威圧的な声で言い放つと、案の定、電話口の向こうで宗吾が鼻白んだ気配があった。
『……誰だ、おま』
ようやく絞り出したであろう声は掠れていたが、とても建設的な話し合いをする気分ではない。
最後まで聞くことなく、陣は通話終了ボタンを押し、スマホの電源を切った。