第19話 心穏やかに
「すこしだけ――瞑想してもいいですか? このライト、お借りしたいのですが」
しかし、そう言ってから自分がヨガマットを持っていないことに気付いた。
どこに置いてきてしまったのか、いつから持っていないのか、さっぱり記憶にない。新幹線を降りた時は確かに持っていたと思うのだが……。
「もちろん。それが七瀬センセーの心の落ち着かせ方ですもんね。ちょっと待ってて」
寝室に引っ込んだ陣が、両手にヨガマットを二つ、抱えて戻って来た。
「僕もぜひご一緒させてください」
「はい! ヨガマット、たくさんお持ちなんですね」
「結構、形から入るタイプなんですよ。それに、気に入った柄を見つけるとつい」
こんな風に寄り添ってくれる陣に心が揺さぶられるが、それも含めて自分の中に落とし込んでいく。
先日、リモートクラスをやらせてもらった場所に向かい合わせでヨガマットを敷き、中央にやさしい明かりの球体ランプを置く。
フローリングは床暖房なので、冷気は一切感じなかった。
「トラタカ瞑想をしようと思います。トラタカは『凝視する』という意味で、一点を見つめながら行う瞑想です。ろうそくの火を見つめてやることが多いのですが、今日はこのライトで」
安楽座になり、陣の目を見て微笑む。
「できたらチンムドラーを作って、手のひらを上向きにして腿に置きましょう。そっと目を閉じて、ゆっくり深呼吸します」
チンムドラーは、親指と人差し指で輪を作る形だ。エネルギーを体内から逃がさず、循環させると言われている。
「今日起きた、よかったことも嫌だった出来事も、ただ静かに見つめます」
相手がいるからインストラクションをするが、すべては自分に言い聞かせること。
呼吸に集中するうちに、外向きだった心がすっと自分の中に落ちてきて、平らかになっていく。
静かで穏やかな声で自分自身に語り掛け、ライトを見つめる瞑想を続け、頃合いを見計らって目を閉じる。
「心の中で炎が揺れる様子をイメージし、心に浮かぶ感情や思考をその炎に溶かしていきます」
瞼の裏に、次々と色んな光景が浮かんでくるが、やわらかい光のイメージがそれらの輪郭を溶かして、ぼんやりしたものに変えていく。
名古屋での楽しかったワークショップから、帰宅したときの衝撃も、雪の中で打ちのめされたことも、陣に救われた感謝も、すべてが平らかに均される。
今はただ、やさしい場所で静かな時間を味わう。
やがて、あれだけ荒れ狂っていた感情が嘘のように落ち着いていた。
ふと時計を見ると、もう深夜二時近くになっている。瞑想していた時間は二十分くらいだ。
「ゆっくりと意識をこちらに戻してきます。今日も一日、とてもがんばりました。この穏やかな時間を迎えられたのは、ご自身のおかげです。明日は今日よりもっといい日になりますし、何が起きても、乗り越えられる力を持っています。がんばったご自身に向かって一礼しましょう」
深呼吸を続けながら目を開けると、正面に座っている陣と目が合い、微笑む。
「では、これで瞑想のクラスは終わりになります。ありがとうございます」
合掌してお礼を言うと、陣も深く頭を下げ、にこっと笑ってくれた。
「実を言うと、瞑想ってちょっと苦手だったんですよね。あちこちムズムズしちゃって。でも、七瀬センセーと静かな時間を過ごしていたら、かなり集中できました」
「よかったです。こんな時間なのにお付き合いさせてしまって申し訳ありません。陣さんには感謝してもしきれないです。いつも弱ってる時に助けてもらっていて……」
「それは俺が好きでしてることだから。俺も正直を実践してみたくなったんですが、聞いてもらえますか?」
「はい、もちろん」
すると、胡坐を組んだまま陣が顔を上げ、じっと七瀬の目を見つめた。
「七瀬さん、その浮気男捨てて、俺の恋人になりませんか?」
陣の言葉がうまく呑み込めなくて、目をぱちくりさせた。でも、彼は笑ってごまかすでもなく、穏やかに微笑んでいる。
「俺は七瀬さんが好きです。恋心に昇華したのは、個人的に言葉を交わすようになってからで、期間は短いですが」
「…………」
せっかく瞑想して心を落ち着かせたのに、胸がドキドキしてまた感情が乱れはじめる。
「あなたのクラスを受講するようになって一年以上経ちますが、七瀬さんの穏やかさも朗らかさも、いつも俺にとってはいつも癒しでした。その七瀬さんを悲しませたり泣かせたりする男に、あなたをこれ以上傷つけさせたくはない。先日、彼の言動を目の当たりにして、そう思いました。俺は決して、七瀬さんを否定しません」
驚いたし、焦ってしまったが、この心の乱れは悲しいものでも辛いものでもなく、ただ、うれしいものだった。
真摯な彼の表情を見れば、その言葉に嘘もごまかしもなく、ただただ本心であることがわかる。
「――ありがとうございます。陣さんが正直に言ってくださったので、私も正直になりますね」
少し照れくさくて睫毛を伏せて目許を隠しながら、ぎこちなくはにかんだ。
「とってもうれしいです。私も、陣さんのことがとても好きです。でも……」
言葉を切ると、まっすぐ彼の目を見つめ返した。陣は少し緊張しているような面持ちだ。とても、緊張などしそうにない人なのに。
七瀬の言葉を、こんなふうに待ち望んでくれる人がいる。七瀬にやさしい言葉をかけてくれる人がいる。
冷たい否定の言葉をたくさん浴びせられ、揚げ足を取られ、言葉を封じられてきた七瀬にとって、それはとても尊く、心が温まる出来事だった。
「今、この場で陣さんの気持ちを受け入れてしまったら、私も宗吾さんと同じ浮気者になってしまいます。きちんとけじめをつけたいので、それまで時間をもらえますか?」
「もちろん。誰かから非難される間柄にはなりたくないですから。そういう七瀬さんのまっすぐなところも、俺は好きです」
力強く即答され、胸がドキドキする。見つめ合った一瞬、急に恥ずかしくなって目を逸らしてしまった。
「あ、でも私、傍から見たら、簡単に恋人を乗り換えてる軽い人みたいじゃないですか……? 正直でいるのも、ときには感じが悪いものですね」
陣はそんなふうに思わないだろうけど、見る人によっては、七瀬のことを日和見の尻軽女だと思うのではないだろうか。
でも、陣は穏やかに笑ったままだ。
「俺は正直という教えに感謝してますけどね。それに、別に簡単ではなかったでしょう? 俺が知るよりずっと前から、七瀬さんは悩んで努力してここまできたはずだから。あなたが手放そうとしているものは、昨日今日の出来事に対する単純な結果ではないはずです」
「――――」
「七瀬センセーのこれまでのレッスンで、自分にやさしくあるのがヨガだと俺は学んできました。自分を労ることに罪悪感はいらないです。俺も、七瀬さんの決断を裏切るような真似はしないとお約束します。だから、安心して」
陣の真摯な言葉が胸に染み入ってきて、ぼろっと大粒の涙が浮かんでこぼれた。
宗吾に目の敵にされてきたせいもあって、レッスンをすることに心のどこかで罪悪感があったのかもしれない。
でも今、足掻いてもがいた日々が報われた気がした。
やさしく流れる空気と時間に心が満たされていくのを感じて、七瀬は泣きながら笑った。