第17話 アイリッシュコーヒーとブランコ
(え――)
肩から下ろしたヨガマットを、無意識に玄関の壁に立てかけて、七瀬は家の中に目を向けた。
玄関からすぐ見えるのはリビングだ。照明は消灯されていたが、リビングの右手にある寝室の扉がわずかに開いていて、中から光が漏れている。
その中から漏れ聞こえてくるのは、甘ったるい女の喘ぎ声と、荒々しい宗吾の息遣い――。
何が起きているのかわかっているはずなのに、頭がそれを理解しようとしなくて、足が縫い付けられたように動かなかった。
ただ、自分の心臓の音がとてもうるさくて、聞かれてしまうのではないかと不安だった。
七瀬は息をひそめると、のろのろと音を立てないように玄関扉を閉ざして、そっと鍵をかけ直す。
(…………)
とにかくこの場から離れなくてはいけない。その思いだけに突き動かされて、マンションを飛び出した七瀬は走って逃げた。
笑ってしまうくらいに頭が働かない。
自分がどこに向かっているのかもわからないまま、電車に飛び乗っていた。
(今のは、なに……?)
七瀬が不在の家に、女性を上げていた。しかも、二人のベッドなのに……。
頭がガンガン痛むし、胸もムカムカして気持ち悪い。
電車を降りて、喘ぐように呼吸をしながら足が向くまま進んでいたのだが、気が付いたら『Vintage Voltage』の前に立っていた。
青山一丁目は七瀬にとって一番馴染みのある駅なので、何も考えずとも自然にたどり着いてしまったようだ。
ふらふらと店の扉を開けると、ウェイターが七瀬の顔を見て「いらっしゃいませ」と、明らかに知った顔に向けての挨拶をしてくれた。
「あ、こんばんは――」
寒さのせいか感情が冷え切っているせいか、あまり表情は動かなかったが、それでも人と話すことで、凍りついていたものがすこしだけ溶けた。
でも、先日座ったカウンター席に陣の姿はない。それを見て、落胆している自分がいる――。
「七瀬センセー! いらっしゃい」
そんな七瀬に親しみのある呼びかけをしてきたのは、陣の兄の潤だった。
「あ……潤さん、先日はご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
酔い潰れるという失態を詫びると、潤は笑った。
「とんでもないです。こちらこそ、もっと気を付けて提供するべきでした。陣なら来てませんけど、呼びましょうか?」
「あ――いえ! 寒かったから、温かいものを一杯いただきたくて。アイリッシュコーヒーをお願いします」
先日、陣に教えてもらったホットコーヒーのカクテルだ。
「かしこまりました。ほんと寒いですよね、雪が降るにはまだ早いのに、だいぶ降ってるみたいで」
店内は大きなガラス張りなので、外の様子がよく見える。
水分を含んだ重たい雪なので積もりはしないだろうが、結構な勢いで降っているので、外に注目している客も多かった。
さっきはみぞれだったが、はっきりと雪へと移り変わっている。
カウンターの壁側にコートを着たまま座り、潤がアイリッシュコーヒーを作る様子を見つめた。
無骨なグラスマグを温め、ボウルに入れた生クリームを七分立てくらいにし、マグにホットコーヒーとザラメを入れて混ぜる。
その上から、やさしく生クリームを流し込み、コーヒーと生クリームの綺麗な二層を作った。
「ここから見ててくださいね」
潤がにっこり笑い、小鍋にアイリッシュウイスキーを注ぐと、火にかけたのだ。すると、鍋の中のウイスキーに炎が上がる。
「えっ、フランベ?」
「ええ。こうしてアルコールを飛ばしてやると、風味が引き立ちますし、飲みやすくなるんですよ」
先日、七瀬が飲みすぎて酔い潰れたからだろうか。
苦笑してその様子を見ていたら、燃えたままのウイスキーをそのままグラスに移したのだ。
青い炎が揺らめきながらグラスに収まって、やがて消える。
「これはカウンター席のお客様だけが見れる特権ですよ。さあどうぞ」
「すごい……! いただきます」
黒と白のコントラストが美しいカクテルだ。グラスマグを両手で握り込んだら、温かくて、冷えた心が少しだけ緩んだ気がした。
そっと口をつけると、ほんのり甘いクリーム、ウイスキーの香りのするコーヒーが身体に染み入る。
「おいしい……」
「今日はもうすぐ閉店なんですけど、本当に陣、呼ばなくていいんですか?」
「たまたま通っただけですし、もう帰りますので」
一気飲みにならないよう気を付けつつも、あまり時間をかけることなく温かいうちに甘いカクテルを飲み、七瀬は席を立った。
「ごちそうさまでした! とてもおいしかったです」
「お気をつけて。またいらしてくださいね」
「ぜひ!」
会計を済ませて店を出たのだが、駅方面にしばらく進んだところで足を止めた。
どこにも行くところがないのだ。
恵比寿にはとても戻れないし、こんな時間にいきなり実家に帰ったら、家族に心配させてしまう。終夜営業のカフェでもあればいいが、昨今そういうお店は激減した。
でも、それを解決する気力も湧いてこない。
とぼとぼと歩いていたら、公園を見つけた。雪の降る土曜深夜、人の姿は見当たらない。
濡れたブランコに座ってゆらゆら揺れながら、しばらくぼうっとしていたが、衝撃的なシーンを思い出してしまい、七瀬はうなだれた。
七瀬が見たのは玄関先の靴だけで、寝室にいた二人が何をしていたかは見ていない。
でも、見なくても聞こえてしまったのだ。あんなの、勘違いのしようもない。
やっぱり表参道で見たのは、見間違いでも誤解でもなかった。
七瀬が今夜は帰らないと言ったから、これ幸いと彼女――大楠沙梨を家に入れたのだろうか。
日曜クラスを受講することには不満そうだったのに、陰では七瀬が不在で快哉を叫んでいたのだろうか。
宗吾の気持ちが離れつつあったのはなんとなく察していたが、二人で築き上げてきた大事な場所を、宗吾はいともたやすく踏みにじったのだ。
感情が凍りついてしまったみたいに、動かない。
そのとき、コートのポケットに入れていたスマホが震えた。
宗吾からのリプライだろうかと、恐々スマホの画面を覗き込んだが、未登録の携帯番号からの着信だった。
こんな時間に知らない番号からの電話なんて、怖くて出られない。放っておいたらやがて切れたが、短時間に同じ番号からの着信履歴がたくさんついていた。
さっきまで歩いていたから、着信に気が付かなかったようだ。
画面を見つめたまま困惑していたら、またスマホが鳴り出した。気味が悪くて着信拒否しようとしたのだが、手が冷え切っていたせいかスマホが操作に反応してくれない。
指を擦って温めてからもう一度操作したら、間違って通話状態になってしまった。
すると、間髪容れず――。
『七瀬センセー! 今どこ!?』
凍りついていた七瀬の表情が、そのときようやく動いた。
スピーカーから流れてきた男性の声は――陣のものだったのだ。