第16話 静かなる崩壊
帝鳳ホールディングスでのワークショップ帰りに、宗吾とひと悶着を起こした後、終始無言の彼に怯えての帰宅だったが、自宅でそれ以上詰られることはなかった。
ただ、不機嫌を体現した宗吾が、何かをするたびに大きな物音を立てるので、その度にびくびくしなくてはならない。
夕食の仕込みはしてあったので、「ごはんは……」と切り出したのだが、宗吾は無言でシャワーを浴びに行き、出てくると寝室に立てこもった。
七瀬もすっかり食欲が失せてしまい、無駄になった食材を冷凍庫に放り込むと、シャワーを浴びてソファに横になった。
とても宗吾のいる寝室に入っていける空気ではない。
(ほら、普段と違うことをするから……)
こんなことになるなら、小言を言われるのを覚悟でワークショップのことは話しておけばよかった。危機回避をしようとして、見事に失敗したパターンだ。
(もう――離れたい……)
同棲を始めて、次の春で三年。
ときどき喧嘩をしながらも、楽しく過ごしてきたつもりだったが、ここ最近の宗吾の極端な感情の起伏に、七瀬の気持ちがついていけなくなってきた。
でも、頭の中で何度も宗吾に別れを告げるシーンを思い描くが、その結果は決まって激昂され、ふいっと七瀬の前から立ち去る彼の姿ばかりだった。
(だめだめ、もうやめよう)
夜は考え事をするのに向いていない。
ソファの上で仰向けになり、全身から力を抜いて自然な呼吸に意識を向ける。屍のポーズで心身共にリラックスするのだ。
心の中で起こる思考や感情をただ観察し、物思いに引き込まれず、今この瞬間だけに意識を向ける。
ただ、感じるだけ。ただ、流すだけ。傍観者になることで、荒れた心を凪の状態に戻すのだ。
いつしか、すっと眠りに入っていく――。
そんなしんどい夜を過ごしたにも関わらず、翌朝になると宗吾はケロッと機嫌を直し、早朝クラスのある七瀬に笑いかけ、トーストとコーヒーを用意してくれた。
「あ、ありがとう……」
恐々とお礼を言うと、宗吾は昨晩のことには一切言及せず、「珍しく早起きしたから」と笑っていた。
昨晩、早々に寝室に籠城したから、早く目を覚ましたのだろう。
でも、これでほっとしてしまい、七瀬も昨晩の騒動には触れずに済ます。このまま宗吾が機嫌よくいてくれれば……。
今週末はいよいよ名古屋のワークショップだ。ちゃんと話をしてあるとはいえ、不安は尽きない。
(やっぱり日曜日の受講はキャンセルして、土曜日に帰ってこようかな……)
落ち着かないまま木曜日の早朝クラスへ向かったのだが、今日に限って陣が来なかった。
今までにも、予約が取れなかったり仕事が入ったりで、陣が受講しない日は時々あったのだが、もしかしたら昨晩の騒動で呆れられてしまったのかも――。
たぶん、七瀬が不安に思っていることの大半は、たいてい七瀬の不安とは無関係な理由で起きている。
だが、昨日の今日なので、やっぱり宗吾のことで怒っていて、七瀬と関わらないようにしようと考えているのかも――。
(陣さんの顔を見れば、少しは気持ちが晴れる気がしたのに……)
そう考えて、無意識のうちに陣に助けを求めている自分に気が付き、あわてて頭を振った。
自分の気持ちは、自分で対処するべきだ。陣をこれ以上、七瀬の都合に巻き込むのは不盗に反する。
名古屋から帰ってきたら、きちんと場を設けて宗吾と話し合いをしようと思っている。なるべく彼が激昂しないように人目のある場所で、落ち着いて、穏やかに。
その場では、自分の気持ちを正直に、真摯に打ち明けようと思う。その上で、宗吾が望んでいることも可能な限り受け入れるつもりだ。
七瀬にとって一番大事なことは、ヨガを続けること。それはライフワークであり、仕事としてこの先も続けていく。そして、それを宗吾に認めてもらうこと。
それがわがままだと言われるのであれば、今いるこの場所は、七瀬の居場所ではないのだ。
これ以上、宗吾の時間を奪うことはできない。自分の時間も奪うことはできない。
宗吾に気持ちは残っているが、ヨガ講師を否定されたままだったら、もう彼と同じ時間を過ごすことはできない。
その気持ちも、きちんと話す。
ちゃんと心から思いを伝えれば、きっと宗吾もわかってくれるはずだから――。
◇
金曜日の朝、出勤する宗吾を見送り、夕食の準備をして冷蔵庫にしまう。それから日中のクラスをこなすと、夕方、名古屋へ向かうために品川駅へと足を運んだ。
プライベートでは精彩を欠く日々を送っているが、このワークショップはずっと楽しみにしていたのだ。
今回のテーマは『体と心のデトックス』。
呼吸法とアーサナで体内の毒素を排出しつつ、心の浄化も促す。前々から決まっていたテーマとはいえ、今の七瀬に一番必要なものかもしれない。
このワークショップで、自分自身も心身ともに毒素を抜き、清々しい気持ちで東京に帰る。そして、今抱えている懸念もすべて排出するのだ。
でも、いくら頭の中で理想を思い描いたとしても、現実は七瀬の希望と真逆の方へ向かっていく。
彼を操作しようと思っているわけでは決してないのだが、想像もしない方に着地するので、頭を抱える結果になってしまう。
今回は、その不安どおりにならないといいのだが……。
百二十分のワークショップは、定員である三十人の枠がすべて埋まっていた。
東京を離れたせいか、このところ乱れがちだった七瀬の気持ちも落ち着いていたし、受講してくれた名古屋スタジオの生徒たちからも好評だった。
たくさんの質問があったので、時間が許す限り一人一人に答え、ヨガについて語らううちに、心のデトックスもすっかり完了していた。
常にこの状態でいられればベストなのだが――。
(今なら、宗吾さんともうまく話せる気がする)
本来、もう一泊してベテラン講師のクラスを受講するつもりだった。
だが、そのことについて宗吾はかなり難色を示していたし、自分のことを認めてもらうなら、七瀬も彼の要望には応えてみせる必要があるはずだ。
(機会はまたあるだろうし、今日は帰って、宗吾さんと話してみよう)
名古屋スタジオの講師たちに挨拶をし、ワークショップ後に受講者からのアンケートなどをまとめ、名古屋でのすべての用事が済んだのが十九時過ぎだ。
今からスタジオを出れば、途中で食事をしたとしても、二十二時過ぎには恵比寿の自宅に帰れるだろう。
「寒い……!」
スタジオを出たら風が冷たく、今日は一段と冷え込みが増していた。
名古屋の方が東京よりやや寒いようだが、天気予報を見ていたら、驚くことに東京でも夜間に雪マークがついていたから、今日は全国的に真冬日なのだろう。
新幹線に乗り、『やっぱり今日帰ろうと思う』と宗吾にSNSでメッセージを送るが、品川に到着しても既読はつかなかった。
でも、通知欄だけ読んで未読無視されることはよくあることだ。
だからと言って、あまり立て続けにメッセージを入れると「いつでも返事できるわけじゃないんだよ!」と声を荒らげられたことを思い出すので、よほど緊急の用事でもなければ、メッセージの連投はしないことにしている。
七瀬から連絡したという証拠が残れば、それでいいのだから。
山手線に乗り換え、恵比寿で下車する。時間は二十二時三十分。
吐き出す息は真っ白で、足下から冷気が立ち上って来る。凍えるほどの寒さだった。
手に息を吹きかけてからヨガマットを担ぎ直すと、七瀬は自宅に向かって歩き出した。
駅から二人の住むマンションまで徒歩十分ほどだ。遠くはないが、この寒さで風もあるので、寒さが身に堪える。
しかも歩くうちに、空から雨粒とも雪とも言えないものが落ちてきた。
「みぞれ……?」
そういえば雪マークがついていた。珍しく天気予報が当たったみたいだ。
急ぎ足でマンションに戻ると、エレベーターで五階に上がる。
鞄から鍵を取り出し、扉を開けて「ただいま」と声をかけようとしたのだが、声は喉の奥に戻ってしまった。
自動点灯した玄関には、宗吾のスニーカーと、華奢でかわいらしいデザインのハイヒールが仲良く並んでいた。
それは七瀬のものではない、見知らぬ女性の靴――。