第15話 静けさの後に嵐はやって来る
(え……?)
陣の顔を見て、しばらくぽかんとしてしまった七瀬だが、あわてて動揺を治めるために深く呼吸をした。
そもそも彼が青山の企業に勤めているのは、七瀬も知っている。
このチェアヨガは会社の福利厚生なので、全社員に通達されているし、講師名もちゃんと案内に載っていたから、陣が知っていたのはまったく不思議ではない。
でも、昨日スタジオで会ったときは何も言っていなかったのに。
驚きはしたものの、気持ちの切り替えは得意だ。ちゃんと講師としての責務を全うし、三十分の短いクラスを終えた。
受講してくれた社員に声をかけ、感想を聞いたり質問を受けたりとしているうちに十九時半近くになっていたが、「すっきりしました!」と、デスクワークで凝り固まった体を解せたことに喜ぶ声が多くて、うれしくなった。
でも、そうこうしている間に陣はいなくなっていた。
彼が現れてびっくりしたことを伝えたかったし、感想も聞かせてもらいたかったが、個人的な交流は社内に知られない方がいいのかもしれない。
でも、思いもよらぬところで陣の顔を見られて、うれしかった。
結局、帝鳳ホールディングスのビルを出たのは二十時に近かったが、宗吾の帰宅にはまだ余裕があるから急ぐこともないだろう。
駅に向かって歩いていたときだ。
「七瀬センセー!」
このところすっかり聞き慣れた声に呼ばれ、七瀬は立ち止まって振り返った。
会社を飛び出してきた陣が、こちらに駆け寄って来るところだったのだ。
「陣さん、お疲れ様です!」
「センセーもお疲れさまでした! チェアヨガは初めてでしたが、座ったままでも意外と汗ばむくらい動けるんですね」
「もう、びっくりしましたよ。昨日お会いした時は何もおっしゃってなかったし、頭の中が真っ白になっちゃいました。帝鳳にお勤めだったんですね」
並んで駅方面に歩きながら、自然に談笑が始まる。
「はは、すみません。驚かせようと思って。前に『Vintage Voltage』で飲んだ時、水曜日も仕事を入れたいというようなことをおっしゃってたでしょう? 水曜ならノー残デーだからちょうどいいだろうと、裏から手を回して依頼させていただきました」
「……陣さんが呼んでくださったんですか!?」
「ええ、まあ。あ、ご挨拶が遅れました。帝鳳ホールディングスの三門陣と申します」
懐から名刺入れを取り出した陣が、七瀬に名刺をくれた。
「ご丁寧に。では私も」
七瀬の名刺は個人携帯の番号が載っているので、仕事関係の人にしか渡していない。でも、陣になら知られてもいいと、心のどこかで思っていたのかもしれない。
路上で名刺交換をしていることがおかしくて、思わず吹き出しかけたのだが、陣の名刺を見て足を止め、固まった。
「……あの、陣さん。お名前の上に『取締役』と書いてありますが……社長さんなんですか!?」
「いえいえ七瀬センセー、あわてすぎ。よく見て」
くすっと笑われ、もう一度名刺に視線を移す。
燦然と輝く『取締役』の肩書に目が釘付けになってしまったが、よく見れば『グループ専務取締役』と書いてあった。
一般企業に勤めた経験がないので詳しくないが、社長でなくとも専務が役員クラスであることぐらいは知っている。
「え、あの、帝鳳グループの専務って……すごい方!?」
「親の七光りみたいなものですけどね」
そういえば、初めてカフェバーで飲んだ時に、そんな話をしていたのを思い出した。
「じゃあ、親御さんが……」
「父が帝鳳の会長です」
これまではお話の中でしか知らなかった存在だが、まさに生きた御曹司だ。
「……私、御曹司さんに初めて出会いました! なるほど、あの常軌を逸した、ホテルみたいなお家も……そういうことなんですね、納得しました」
「常軌を逸したって。センセー、言葉のチョイスが変ですよ」
同時に笑い出し、自然に駅へと並んで向かった。
「専務さんは、黒塗りの送迎車で通勤してると思ってました」
「会社が自宅から徒歩圏内にあるのに、わざわざ排気ガスを撒き散らして通勤する必要はないですからね。弊社ではサステナビリティへの取り組みも重視しているんですよ」
「最近よく聞きますよね、サステナブルとか。持続可能な社会、みたいな意味でしたっけ。知らないうちに知らない横文字が当たり前に使われていて、世の中に全然ついていけてません」
「いや、ヨガなんて究極にサステナブルなアクティビティじゃないですか。ヨガマット一枚あればどこでもできるし、なんなら屋外でもできるから、無駄な電力もエネルギーも消費しない。めちゃくちゃ環境とお財布にやさしいですよ。どれだけ言葉を知っていても、知ってるだけじゃしょうがないんです。実践して初めて意味が出てくる」
陣は笑い話として言ってくれたのだと思うが、妙に今の話が腑に落ちてきて、なぜかうるっと涙ぐんでしまった。
「センセ……? 僕、なんか変なこと言いました?」
急に七瀬が顔を背けたから、陣の声があわてている。
「いえ。陣さんはご自分でもヨガをされてるからでしょうけど……私のやっていることを肯定してもらえたみたいで、ちょっとうれしかったんです」
「――?」
家では日々、ヨガを仕事として認めてもらうどころか、厄介のタネであるかのように思われているなんて、彼にはたぶん信じてもらえないだろう。
陣を見上げて七瀬が笑いかけると、今度は彼の表情が曇った。
「七瀬センセーさ、やっぱり……」
そのときだった。
「七瀬!」
陣の声にかぶせて宗吾の怒鳴り声が聞こえてきたので、瞬時に心臓が凍りついた。
声がした背後を振り返ると、宗吾がズンズンとこちらに歩み寄ってきて、七瀬の腕を強引に掴み上げたのだ。
「仕事だとか言って家にいたがらないのは、こういう理由か?」
宗吾が眼鏡越しに陣をにらみつけている。この状況は先日の表参道の逆パターンで、どうやら七瀬が浮気を疑われているみたいだ。
今日はチェアヨガの仕事一本だけだったので、七瀬はヨガマットを持っていない。だから余計にそう見えたのかもしれない。
――今日の仕事のことを話していなかったせいで、一番最悪のパターンになってしまった。
(そっか……私も表参道で二人の間に割り込んで、『出張じゃなかったの!?』って詰め寄ればよかったんだ)
ぼんやりとそんなことを考えたのは、たぶん一種の逃避だったのだろう。でも、すぐ隣に陣がいるのに、そんな誤解をされては彼にも失礼だ。
「ち、違います! 今、仕事が終わって――」
「何が仕事だ! こんな時間に男とフラフラ遊び歩いてたくせに」
宗吾は聞く耳も持ってくれず、強引に七瀬の腕を引っ張って歩き出そうとする。
だが、気が付くと宗吾の手を振り払っていた――陣が。
「待てよ。いきなり人の会話に割り込んできて、彼女の話も聞かずに頭ごなしに怒鳴って連れ去る? 常軌を逸してるだろ」
さっき二人で笑い合った言葉を笑えない場面で使う陣は、普段の穏やかさをかなぐり捨て、嘘のように険しい表情をしている。
「彼女は企業ワークショップの講師で、うちの会社に呼んだ。たまたま帰り道が一緒だったからヨガの質問をしながら歩いていただけで、非難されるようなことは何もしてない」
「――部外者は引っ込んでろ。七瀬、帰るぞ」
宗吾の言葉尻がやや逃げ腰なのは、陣が――自分よりも強そうな男性がきっぱりと宗吾の行いを否定したから、反論ではなく立ち去る方を選んだためだろう。
「自分で人を巻き込んでいて、部外者? だいたい、さっきの発言は先生に対する侮辱だ。取り消せ」
(陣さん……)
宗吾の言葉は、陣にとってもかなり侮辱的だったのに、自分のことではなく七瀬を擁護してくれている。
陣のやさしさに泣きたくなった。
でも、ここで彼を介入させるわけにはいかない。これは七瀬と宗吾の問題であって、宗吾の言う通り、陣は無関係な第三者なのだから。
逃げるようにその場から立ち去ろうとする宗吾に引っ張られ、七瀬は陣を振り返って首を左右に振る。
そして声には出さず、口の動きだけで「ごめんなさい」と伝え、陣から視線を外したが、最後に見た彼は、かなり困惑した表情をしていた。
こんなことに巻き込んでしまっては、もう合わせる顔がない……。