第12話 仕事じゃないのに?
その晩、二十時頃に宗吾が帰宅した。
「お帰りなさい」
ぎこちない笑顔で出迎えると、宗吾は晴れ晴れした笑顔を向けてきた。
「ただいま! 三日も留守にして悪かったね、これ、おみやげ」
そう言って宗吾が紙の手提げを七瀬に手渡してきた。九州の代表的な銘菓だ。
「あ、ありがとう」
今時、東京で買えない地方のお土産なんてまずないので、「お土産があるなら、昨日のは見間違いだったのね」とは残念ながらならなかった。
むしろ、アリバイ工作をされたみたいで、余計に心が痛んだ。
「楽しめた?」
「温泉がよかったよ、今度、七瀬も一緒に行こうな」
いつになく上機嫌で言い、宗吾はスーツケースを持って寝室に入る。
「洗濯物あったら出しちゃって」
「ああ。自分で片付けるから、七瀬はコーヒーでも淹れてよ。さっきのお菓子、一緒に食べよう」
「うん」
普段、出張に行ったとしても、荷解きをせずに玄関に放り出したままなので、いつも七瀬が片付けている。わかりやすすぎて、ちょっと空しくなってしまった。
でも、このタイミングで昨日のことを口にしたら、また家の中が修羅場と化す可能性が高い。可能性というか、ほぼ確実に地獄になる。
そもそも、何の証拠もないことなので、下手なことを言い出したら全面的に七瀬が悪者だ。
それを思うと、結局なにも言い出すことも聞き出すこともできず、関係ない話題を振ってしまうのだった。
「帰って来たところを申し訳ないんだけど……」
リビングのテーブルで向かい合い、宗吾のマグカップにコーヒーを注ぎつつ、言い出しにくいと思っていた名古屋ワークショップのことを切り出した。
「二週間後……十八日の金曜日、私が出張なの。名古屋スタジオのワークショップで……」
「ああ、前から聞いてたやつだよな。ワークショップは土曜だっけ。土曜のうちに帰って来るの?」
「それなんだけど……」
日曜日に、名古屋スタジオのベテランインストラクターのクラスがある。めったに受講できない機会なので、是非とも受けてきたい。
言い淀んでいたら、宗吾が察したようだ。
「仕事じゃないのに、それでもまだヨガやるんだ? その宿泊費は経費にならないでしょ? クラス受けたいなら、こっちでやればいいじゃん。東京の方がスタジオの数も多いのに」
「その先生、名古屋でしかクラス持ってないんだ。私が受講するのは研修になるし、経費にはできると――」
「男?」
あからさまに不機嫌になった宗吾ににらまれ、首をぶんぶん横に振る。
仮に男性講師だとしても、講師の性別など無関係なのに。まさか、浮気目的だとでも思われているのだろうか。
「女性の先生だよ。宗吾さんも、今日はプライベートの延泊だったんだよね……?」
これは言ってはいけないと思いつつも、自分だけ難色を示されるのに納得がいかなくて、つい反論してしまった。
そもそも七瀬がいてもいなくても、日曜日は頑として外出などしないのに。
「俺は仕事帰りのリフレッシュだ。七瀬のはただの遊びだろ? 同列にできない」
カチンと来たが、結局、黙るしかなかった。もう修羅場はこりごりだ。
「だいたい、七瀬の遊びのために俺の食事がなくなるのに、そこは心配しないの?」
一瞬、イラッと感情が波立ったが、深呼吸をしてそれを治める。感情で相手に物を言うのは非暴力に反している。
「――じゃあ、食事の準備を一緒にしない? 冷凍しておけば……」
「なんで俺が作らなきゃいけないんだ。それは七瀬の仕事だろ?」
「え、ちょっと待って。私は料理が嫌いじゃないし、宗吾さんは仕事で夕飯の準備が難しいからやってるけど、一緒に協力してやろうって、最初に――」
深呼吸も無駄になり、結局、物を申してしまった。なるべく感情的にならないよう抑えたつもりだが、やっぱり不満は出てしまっていた。
「何言ってんだよ、料理は女のやることだろ。最近は目を瞑ってやってたけど、遊びみたいな仕事を言い訳にして、俺にコンビニ飯食わせたり冷凍でごまかしたり、人に甘えてばかりいないで、すこしは反省するべきだろ」
「…………」
同棲をしはじめたときは、不器用ながらに宗吾もキッチンに立つことはあったはずだ。
いつしか料理は七瀬にシフトしていたが、彼も社内での地位が上がり、仕事への責任も増え、会社にいる時間が長くなっていたからだ。
七瀬が沈んだ顔をしたせいか「じゃあ行ってくればいいじゃん」と、投げやりに言われたので、それを嫌みと受け取らず、「ありがとう」と肯定的に受け止めたフリをする。
しかしその後、ベッドに入って隣で高いびきをかく宗吾の寝顔を見ていたら、泣きそうになった。
宗吾にとって、七瀬の仕事は仕事として認められるものではなく、ただの趣味ということになっているのだ。
自宅でリモートクラスを開催すると、宗吾は「なんで家でそんなことを。その間、俺はじっと黙ってなきゃいけないのに」と、とても嫌がる。
今朝、七瀬がリモートクラスをやっているとき、楽しそうに一緒にクラスを受けてくれていた陣のことを思い返してしまい、やり切れなさに胸がふさいだ。
別に、一緒にヨガのレッスンをしてほしいなんて、言わないし思っていない。ただ、七瀬のやりたいことを認めて、尊重してほしいだけなのに。
でも、宗吾は見下し、取るに足らないものとして片付けようとする。
いくら七瀬がヨガの八支則を実践し、心豊かであろうと努力をしても、すぐに心は揺さぶられて、宗吾へのマイナスの気持ちが膨らむ。
自分の忍耐が足りないのか、もっと大らかに受け止めればいいのか。
(――知ってますか、先生。仏の寛容さも、決して無限じゃないんですよ)
そんな陣の言葉が思い出される。
非暴力を忠実に守って、心ない宗吾の言葉に寛容であろうと努力しても、正直を貫くのは難しくなる。
宗吾から無下に扱われることに、自分の心が悲鳴を上げているのは無視できない。
それに、平然と嘘をつかれることもつらい。
二泊三日、ずっとあの女性と一緒にいたかはわからないが、クローゼットにかかっている宗吾のチェスターコートには、この家には存在しない甘い香りが沁みついていた。
もしかしたらこの三日間、ずっと一緒だったのかもしれない。夜も一緒に過ごしたのかもしれない。
じゃあ、なんのために七瀬と一緒に暮らしているのだろう。
(もう……無理だよ、こんなの)
宗吾に背中を向け、頭から毛布をかぶって嗚咽を呑み込んだ。