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第11話 何者

 陣の家は対面式のカウンターキッチンだ。食卓もあるが、あまり使っていないのだろう。

 スツールを勧められて腰を下ろしたら、コーヒーがなみなみと注がれたマグカップを陣が目の前に置いてくれた。


「ミルクとお砂糖はいります?」


「あ、ミルクをいただけますか」


「コーヒーミルクがないので、牛乳ですけど」


 そうしてかわいらしい陶器のミルクポットに、温かい牛乳を入れて出してくれた。

 カーテンを開けた窓からはやさしい陽射しが入ってきて、食欲を刺激する香りが漂っており、解放的な部屋は、得も言われぬ穏やかさに包まれていて……。

 その上、キッチンに立つ男性の姿に、不思議なときめきを覚えた。


「センセー昨日、マルガリータを一気飲みして落ちちゃったんですよ。覚えてないですか?」


 フライパンの上からベーコンエッグをお皿に移しながら、陣が唐突に昨晩の事情を打ち明ける。

 平和な空気にのほほんとしそうになった七瀬は、ハッと我に返って平身低頭した。


「申し訳ありません! お酒を一気飲みなんて、普段は絶対にしないのですが……」


「まあ、そういう気分になっちゃったのも仕方ないですよね。あ、パンが焼けたので、バター塗ってもらえますか?」


「はい!」


 カウンターの上のトースターから、いい焼き色のパンを取り出し、陣が用意してくれたお皿の上に載せてバターを満遍なく塗る。その間に彼がベーコンと目玉焼きのお皿を準備してくれた。


「質素な食事ですみません」


「とんでもないです! ご迷惑をおかけしっぱなしなのに、朝食まで……」


 陣が隣のスツールに腰を下ろすと、七瀬の顔を見てからニコッと笑った。


「どうぞ気にせず、熱いうちに食べてください」


「ありがたくいただきます……!」


 いつも食べている食パンと、ふわふわ具合がまるで違う。甘くてふんわりしていて、頬が落ちそうになるほどおいしい。


「それで、ここは陣さんのご自宅――なんでしょうか」


「はい、店から近かったので。二十二時くらいまでは店で起きるのを待ってたんですけど、七瀬センセーぐっすり寝ていたし、起こしても一人で帰すのは心配で。でも、酔い潰れたのをいいことに、連れ込んだみたいになっちゃってすみません」


 そう言って苦笑する陣に、七瀬はますます小さくなった。消えてしまいたいほど恥ずかしい。


「いえ、私がごちそうするって啖呵を切っておいて、この有様。本当にもう、先日から陣さんにはみっともないところばっかり見られてて、穴があったら入りたいです。昨日の代金もお支払いします」


「いいですよ、元々七瀬センセーに払わせる気なんてなかったので。むしろ僕としては、いつも泰然自若としている七瀬センセーも、人並みに落ち込んだりあわてたりするんだと知って、逆に親近感がわきますけど。でも、そんな呑気なことを言ってられるのは、僕が無責任な外野だからですよね」


 この一連の騒動で忘れかけていたが、昨日、宗吾が見知らぬ女性と並んで歩いていたのを見て、地の底まで落ち込んでいる最中だったのだ。

 でも、そんな個人的な理由で、無関係な陣に迷惑をかけているのだ。そっちの方が七瀬には大問題である。


「それはもう、自分で解決することですので。もしかしたら浮気とかじゃなくて、何か事情があったのかしれないですし……」


 まったく自信はないけれど、そうでも言っておかなければ陣にますます心配をかけてしまうと思ったのだ。

 すると、陣はトーストを皿の上に置き、コーヒーを一口飲んで言った。


「昨日、センセーが落ちる直前に言っていた、『出張と嘘ついて女性と表参道を歩いてたのは、浮気と断定してもいいんでしょうか』という疑問ですけど、俺は問答無用で浮気と断定しますね、そんなの。まず、仕事と偽って外泊って、その時点でないでしょ。出張どころか都内にいて、百歩譲って何らかの事情があったとしても、私服で表参道。七瀬センセーが仏並みの寛容さを持っていても、許していいとは思えないですね。知ってますか、先生。仏の寛容さも、決して無限じゃないんですよ」


 少し怒ったような陣の顔を見て、七瀬は目を丸くしてから口許だけで微笑んだ。

 まるで七瀬の代わりに怒ってくれてるみたいだし、いつもちゃんと他人行儀に『僕』と言っている陣が、さりげなく『俺』と一人称を言い換えたから。きっと普段はそう言っているのだろう。

 そして直後に、陣の素の顔を垣間見てうれしくなっている自分に、内心で自省する。

 恋人がありながら、酔った挙句に『生徒』という立場の男性の自宅に転がり込むなんて、とても宗吾を責められたものではない。


「とにかく、彼とはちゃんと話をしてみます。一宿一飯のご恩はいずれお返しします。あ、シーツなんかは洗濯を……」


「ああ、いいですよそんなの」


「ではお皿を……」


「食洗器が勝手に洗うので、そのままで。そんな気を使わないでください、僕は七瀬センセーのレッスンをタダで受講したので、貸し借りなしです。それに、あの部屋にはよく兄が泊まりに来るので、ハウスキーパーさんに定期的に掃除洗濯してもらってるんですよ」


 ハウスキーパー。この時点でいろいろ普通ではない。とはいえ、こんな広大な家に住んでいる時点で、とっくに陣は普通の人ではなかった。

 高層階の窓から見える景色は、青山の街並みだ。青山でこんな広いマンションに、おそらく一人暮らし。どうなっているのだろう。


 宗吾も実家が松濤にあって、父親は銀行の支店長という話を聞いたことがある。

 そういう背景があるからこそ、宗吾も若くして恵比寿のマンションで悠々自適の暮らしをしているのだろうが、それとも明らかに規模が違った。


 動揺をなだめるために、深く呼吸して合掌しながら「ごちそうさま」をして、席を立った。


「このたびは、大変なご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。今日はいろいろ動揺しているので、落ち着いてから改めてお礼をさせていただきますね」


「僕は全然いいんですけど、センセー、大丈夫ですか?」


 その一言には様々な意味が込められていそうだったが、七瀬は笑った。


「はい。今日は新宿スタジオで瞑想(メディテーション)のクラスがあるので、そこで自分の内面を見つめ直してきます」


「あまり無理なさらず。何かあったら、話を聞くくらいなら、いつでもお付き合いしますから」


「陣さんにはもう二度も助けていただきました。感謝しかありません」


 成り行きとはいえ、生徒に触れられたくないプライベートをさんざん見せてしまった。インストラクターとして、自分の行いを反省しなくてはならないところだ。

 二人分の食器を食洗器に入れるところまではやらせてもらい、玄関に向かう。


「少し待っててくだされば、送っていきますよ」


「や、ほんとに大丈夫なので。ここ、青山ですよね?」


「ええ。道は分かると思いますが、じゃあ気を付けて。また火曜日に」


「ありがとうございます。では、失礼いたします――」


 半ば逃げ帰るように陣の家を後にした。

 エレベーターを見つけて乗ったら、ここは最上階の十五階。一階まで下りてマンションを出たら、『Vintage Voltage』の看板が目に飛び込んできた。


「えっ、陣さんの家、カフェバーの、上……?」


 陣の兄が経営するカフェバーが入っている建物だったのだ。


「ほんと、陣さんって何者なの……?」


 昨日から心をざわつかせる事件が盛りだくさんだが、最後の最後で止めを刺された気分だ。

 ここから青山一丁目駅は目と鼻の先。

 よく知る街を急ぎ足で通り過ぎ、なんとか日常に立ち戻ろうと、七瀬は深呼吸……深いため息をついた。

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