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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

人魚の味

作者: 常磐わず

 仕事が早く片付いたから、その日はいつもより早く家路についた。ガス灯の灯らない時間に帰るのなんて、記憶にないほど久しぶりだ。


 夏の盛り。夕焼けが赤く、美しく、不気味なほどだった。


 近頃テレビでよく耳にする流行歌を口ずさみながら、軽い足取りで家に向かう。玄関の前で鍵を探していると、鉄さびの嫌な匂いが鼻を突いた。家の中から匂う。


 嫌な予感に気づかないふりをして、私は玄関の戸を開いた。そして、息を呑んだ。


 居間が、赤い。夕焼けの赤ではない。血に濡れている。


 夥しい量の赤色の中央に、倒れている人影が一つある。ひどく目眩がした。おぼつかない足取りで近づく。白い肌に触れると、体温がすっかり失われているのが分かった。その尾びれの辺りの肉がごっそり削がれている。汗に濡れた着物が肌に張りついてひどく不快だった。


 彼女の声が好きだった。透き通るようなソプラノ。楽しいときに歌をつい口ずさんで、聞かれていることに気づいたときの恥ずかしそうな微笑みが好きだった。


 その人魚は、私の恋人だった。


「ハル……ねえ、ハル」


 名前を呼んでも、返事はない。微笑むことも、私を見つめ返してくれることもない。血まみれのまま、身体の一部を失ったまま、ぐったりと横たわっている。


 人魚の存在自体に現実味がないのに、そのうえ死んでいるなんて、なおのこと嘘みたいだった。嘘みたいなのに、それでも嘘ではなかった。


 いつの間にか荒くなっていた呼吸を、時間をかけて整える。


「誰が、こんなことを」


 震える声で呟く。当然、答えてくれる声はない。


 鉛のように重い身体を無理やり動かして、厨にあった包丁を手に取った。そして、そのまま家を隈なく探し始める。


――人魚の肉を喰らえば、不老不死になる。


 いつか彼女に聞いた与太話を、思い出す。


『だから、人間から隠れるように暮らしてるの』『海も、もう安全ではなくて』『きっと迷惑をかけてしまうけど、でも、私、あなたの隣にいたいの』


 怒りと悲しみ、憎しみと愛おしさに、涙がぼろぼろと溢れた。


 家をどれだけ探しても、隠れている人間はいなかった。家を探すのに時間をかけすぎた。きっと、もうどこかへ逃げおおせているだろう。


 何者かの浅ましい欲望のせいで、何の罪もない恋人は死んでしまった。


 悔しかった。許せなかった。殺してしまいたかった。


 居間に戻ると、私は恋人の傍らに跪いた。眼を閉じて、祈りを捧げる。


「ごめんね」


 そして、震える手でその肉を削ぎ、人魚の肉を口にした。




 復讐を遂げるまで八十余年。それからさらに、六十年の歳月が経った。

 昔馴染みは皆死んだ。愛した人の声も微笑みも、彼女の何を愛していたかさえ、今となっては思い出せない。


 夏。ワンルームが夕焼けに染まる。赤く、美しく、厭わしい色。冷蔵庫から魚の切り身を取り出して、私は夕食の準備を始めた。


 彼女について思い出せることは少ない。ただ、仄かに甘いその肉の味を覚えている。



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