彼女の裏切りが判明した日の夜、隣の部屋のお姉さんと浮気した。
人は信じられないものを目の当たりにした時、いったいどのような反応をするのだろうか?
信じられないものには様々な場面があるので、驚き、怒り、悲しみ、喜び、希望、後悔など、状況や性格によってリアクションは異なるだろう。
斯く言う俺――枝村魁斗は現在、受け入れがたい現実に直面して呆然としていた。
「嘘だろ……」
思わずそう呟いてしまうほどの衝撃に二の句が継げず、身体から力が抜けていって座椅子の背凭れに体重を預けてしまう。開いた口が塞がらないとは正にこのことだ。
スマホの画面に改めて目を向けると、怒りと悲しみが同時に襲ってきて胸が張り裂けそうになる。
そもそも何故このような状況に陥っているのかと言うと――五分ほど前に友達からメッセージが届き、軽い調子でスマホを手に取ったのが原因である。
メッセージの送り主は俺と同じ大学に通う親友だ。彼とは互いになんでも話す仲なので、一番信用できる相手でもある。
その彼から送られてきたメッセージなのだから疑いようがなかった。
『教えるべきか迷ったんだが……見てしまったからにはお前に伝えるべきだと思った』
と前置きされたメッセージが届いた後に、『これを見てくれ』と一枚の写真が送られてきたのだ。
男同士だと写真を送り合うなど普段はあまりしないことなので、珍しいな、と思いつつも届いた写真に目を通す。
すると、そこに映っていたのは一組の男女がラブホに入っていく姿であった。
女性の腰に腕を回している男と、そんな男にしな垂れかかる女性の姿を捉えた写真だ。
それだけなら人のプライベートを晒す親友に、「何撮ってんだよ……」と盗撮していることに苦言を呈すところだが、良く見ると女性の顔に見覚えがあった。
俺が彼女の顔を見間違えるわけがない。
何故なら、その女性は俺の彼女――浮穴詩織だったからだ。
信じられない光景に、いや、まさか……人違いだろ? と似ているだけの他人であることを祈りながら目を皿のようにして確認した。写真を拡大して何度もだ。
しかし現実は非情であり、どこからどう見ても詩織そのものであった。
信じられない、ありえない、と本心が訴えているが、写真に映っている事実が否応なく真実を突きつけてくる。
その事実に頭の中が真っ白になり、生きた心地がしなくなった。
写真を確認してから五分ほど打ちひしがれて途方に暮れていた所為で、メッセージを既読スルーしていた。
なので、いい加減返信しないと、とローテーブルに放置しているスマホに手を伸ばす。
すると、右手がスマホに触れたタイミングで、ぽんっ、とメッセージが届いたことを知らせる通知音が鳴った。
送り主は再び親友だ。
メッセージの内容に目を通すと――
『微かに話し声が聞こえてきたが、浮穴の声に似ていた。多分だが……』
と書かれていた。
顔や体格だけではなく、髪型と服装が今日、大学で会った時と同じなので、声まで一致していたらもう確定ではないか……。
詩織はくりくりとした目と、箸が乗るような長い睫毛を備えており、あどけなさが残る童顔よりの愛らしい顔立ちをしている。
そして今日は、胸を越す長さの艶のある黒髪をゆるリッチウェーブにし、淡い水色の長袖のカットソーに、膝下丈の白いレーススカートと、薄いピンク色のパンプスを合わせた清楚なコーディネートだった。
フェミニンなのに甘い印象になりすぎないので、同性からの好感度も悪くない仕上がりだ。
小ぶりなネックレスと、白のハンドバックが女性らしさを更に向上させていた。
大学で会った時は思わず見惚れてしまったくらいかわいくて美しかった。それこそテレビで良く見るような清純派アイドルにも引けを取らないくらい。
しかし、その彼女と全く同じ身形の女性が写真に写っている。
こうなると、もはや疑いようがない――彼女は間違いなく浮気している。
「まじかよ……」
溜息交じりの呟きが無意識に口から零れ出た。
詩織の外見は清楚だし、大人しくて柔らかい性格なので男遊びをするようなタイプには全く見えない。実際、彼女は俺と付き合うまで男女の営みは未経験だった。交際経験すらなかったくらいだ。
普段から男遊びをしているような女子と付き合っていて浮気されたのなら、俺もここまで衝撃を受けたかったと思う。詩織だからこそショックが大きかった。
別に彼女とは喧嘩をしていたわけでも、倦怠期だったわけでも、不仲だったわけでもない。
時間があればデートをしていたし、身体を重ねて愛し合ってもいた。
彼女からの愛情を確かに感じていた。
推測でしかないが、彼女は俺に対して不満を抱いていなかったはず。
それくらい俺たちの関係は上手くいっていたし、仲睦まじかった。――今となっては、それも全て俺の勘違いだったのかもしれないが……。
「いや、でも、詩織の本意じゃなかったとしたら……?」
もしかしたら男に無理やり連れて行かれていたり、弱みを握られていたりする可能性もある。
詩織は大人しい性格だし、地方の出身だから都会に染まった軟派な男の押しには逆らえないのかもしれない。
もし嫌々連れ込まれているのなら助けなければ……!
『なんか楽しそうに話していたし、強引に連れ込まれている感じではなかったな。多分、自分の意思で男と一緒にいるんだと思う……』
もしもの可能性を考慮して意気込んだ矢先に、親友からメッセージが送られてきた。
その内容に目を通した俺は肩透かしを食らい、「ですよね……」と呟いてガックリと肩を落とす。
別に彼女が無理やり連れ込まれていれば良かったなんて本気で思っていたわけではない。詩織には悲しい思いをしてほしくはないから、純粋に助けなければと思っていた。――本音を言うと、現実から目を背けたくて詩織の本意じゃない可能性に縋りたかったのもあるが……。
だが、写真に写っている詩織は楽しげに笑っているし、男も紳士的な雰囲気があって悪い奴には見えない。どこからどう見ても二人は仲睦まじいカップルだ。
どうやら事実を受け入れるしかないらしい。現実逃避すらさせてもらえない。
彼女の裏切りに、鋭利なナイフで胸を刺されたような痛みが襲ってくる。――実際に刺されたことなんてないから想像でしかないけど……。
怒り、悲しみ、喪失感、後悔など、様々な感情が胸中を駆け巡り、とても平静ではいられない。
先程まで楽しく観ていたバラエティー番組の音が今は煩わしく感じる。
とりあえず、いつまでも既読スルーしているわけにはいかないので、親友には「後で返事する」とだけメッセージを送ってスマホを手放す。
今はとにかく一人になりたい。誰とも話さず頭の中を整理したかった。
素っ気ない返事だが、ことがことだけに親友は俺の心情を察してそっとしておいてくれるはずだ――あいつはそういった気遣いができる良い男だから。
◇ ◇ ◇
頭を冷やすためにサンダルを履いてベランダに出て、夜空を見上げながら気が抜けたようにぼんやりと過ごすこと約十五分。
今は七月なので日中は三十度を超す日もあるが、夜は気温が下がって多少は過ごしやすくなる。
幸いにも今日は穏やかな風が吹いているので、頭を冷やすのに一役買ってくれていた。
そして都会らしい淀んだ空気が鼻腔を刺激してくれたことで気が逸れ、少しだけ浮気されたことに対する意識が薄れた。地元の美味しい空気が懐かしく感じるくらいの余裕は戻ってきている。
しかし立ち直れたわけではない。そんな簡単に気持ちを切り替えられたら誰も苦労しないだろう――少なくとも俺は無理だ。
だって、詩織と過ごしてきた日々の思い出が走馬灯のように次々と脳裏に流れていき、情緒をめちゃくちゃに掻き乱されるから。
嬉しそうにはにかむ顔、嫉妬している不満げな顔、寂しそうで覇気のない顔、気恥ずかしそうに赤面する顔、楽しそうに微笑む顔など、詩織のいろいろな表情が脳裏を駆け巡る。
幸せな思い出が、精神的苦痛を与える記憶に成り果ててしまった。しばらくはフラッシュバックに悩まされることになりそうだ。
その事実に、より一層気が沈んだ俺は手摺りに両肘をついて体重を預けると、やりどころのない感情を吐き出すように――
「「はぁ~」」
と深い溜息を吐いた。
――ん? 今、俺の溜息に重なって、別の溜息が聞こえてきたような……?
それも俺と同じような負の感情を吐き出すような重々しい溜息だった気がする。
俺よりも高い音域の溜息の正体を探って、隣の部屋のベランダに顔を向けた。
すると――
「あ」
隣の部屋に住む女性と目が合い、俺は驚いて声を漏らした。
「――びっくりしたぁ~」
女性は驚いたように目を瞬くが、無表情に近いので本当のところはどういった心情なのか全く読み取れない。
親しい間柄の人ならわかるのだろうか……?
「……枝村くんだっけ?」
「はい」
同じアパートで暮らしているので彼女とは何度か顔を会わせている。とはいっても、軒先ですれ違った時に挨拶をする程度の関係だ。
名前は初めて会った時、お互いに苗字だけ名乗っている。フルネームを教え合うようなフレンドリーさを都会で求めてはいけない。特に女性なら身を守るために警戒心を持つのは当たり前のことだ。
故に、お互いに名を告げたのは最初に顔を合わせた時の一回きりだったのもあり、彼女――滝瀬さんは記憶が曖昧だったのか首を傾げながら声を掛けてきた。
特に親しくもない相手の名前などいちいち覚えていられないだろうし無理もない。田舎みたいに近所付き合いがあるわけでもないし。
「まさか溜息がハモるとは思わなかったから驚いた」
「ですね」
少しだけ表情を柔らかくする滝瀬さんに、俺は苦笑を返す。
「溜息もだけど、雰囲気から察するに元気がなさそうだね? 何かあったの?」
そんなに今のやるせない気持ちが顔に出ていたのだろうか……?
「まあ……そうっすね」
「そっかぁ」
「そう言う滝瀬さんも何かあったんすか?」
深々と溜息を吐いたのは彼女も同じだ。
あまり感情がおもてに出ていないのは、俺よりも年上だから経験値があって精神的に余裕があるからなのか、それとも女性だから気持ちの切り替えが早いのか、はたまた彼女の特性なのか、それはわからない。
男は引きずりやすいのに対して、女は切り替えが早い、と良く耳にするし、その違いなのだろうか?
ともかく、俺と同じように何かあったのは間違いない。
「あ~、うん」
滝瀬さんは一度頷くと、少し考え込むように視線を左上に向けた。
そして――
「そうだなぁ……。君の愚痴を聞いてあげるからさ、私の愚痴も聞いてくれない?」
と提案してきた。
「正直、年下の男の子に愚痴を零すのはどうなのかな、とは思うんだけど……」
頬を掻きながら苦笑する滝瀬さんから、どことなく哀愁が漂っているように感じる。
「まあ、俺も誰かに甘えたい気分なので助かるっちゃ助かりますね」
「あら、そう? ならお姉さんに甘えちゃってもいいよ? 私も気が紛れそうだし」
そう言うと、滝瀬さんは手に持つ缶ビールを口元に運んで呷る。
ゴクゴクと喉を鳴らして――距離があるから俺には聞こえていないが――飲み終えると、微笑みながら「どう?」と尋ねてきた。
酔いが回っているのか、彼女の頬が若干赤みを帯びていて微笑むと妙に色っぽい。
そもそも滝瀬さんはめちゃくちゃ美人だし、仕事ができる大人の女性といった印象がある。だから下心がなくても男なら誰だって見惚れてしまうと思う。
眉と目の距離が近い上に、目鼻立ちがはってきしている顔立ちなので、日本人的というよりは欧米人っぽい雰囲気がある。
もちろん雰囲気の話であって、本当に欧米人のような顔立ちをしているわけではない。
あくまでも日本人の中では欧米人っぽい凹凸のある顔立ちをしているというだけだ。それこそ、欧米人とのハーフの人と比べたら明らかに日本人的な顔立ちをしている。
敢えて無造作な感じを残している茶髪のラフカールロングが、より一層彼女の魅力を引き立てており、自然と目が引き寄せられてしまう。
「そんなに見つめられるとさすがに恥ずかしいかな……」
そう言って気恥ずかしげにはにかむ滝瀬さん。
彼女はクールなところやミステリアスなところがあり、その上セクシーなところを垣間見せる時があるので、かわいい系よりも美人系の部類にカテゴライズされると思う。
すれ違った時に挨拶する程度の関係だから彼女の性格を熟知しているわけではない。なので、完全に印象での判断でしかない、という但し書きが付くが。
とにもかくにも、そんな彼女が珍しく見せた可憐な仕草と表情の破壊力は凄まじいものがあった。
もし俺に恋人がいなかったら心を鷲摑みにされていたかもしれない。完全にイチコロ案件だ。
滝瀬さんは黒の部屋着――下半身が手摺壁で隠れているからわかりにくいが、多分、薄手のナイトガウンだと思う――を身に纏っているので、蠱惑的な雰囲気に拍車をかけている。
全身を拝めないのが非常にもどかしい。土下座してでも拝ませて頂きたい魅力があった。
「すいません。つい見惚れてしまいました」
「ふふ、ありがとう」
本心を嘘偽ることなく告げると、滝瀬さんは艶やかに微笑んだ。
その表情に再び見惚れてしまった俺は――
「折角なので、お言葉に甘えさせて頂きます」
呆気なく誘惑されてしまった。
そもそも悪いことをするわけではないので、端から断る理由などなかったので全く問題ないのだが。
「交渉成立ね」
滝瀬さんはそう言いながらウインクを飛ばす。
「それで、何があったの?」
ナイトガウン姿の美人なお姉さんからウインクを飛ばされるという不意打ちを食らった俺は、あまりの婀娜っぽさに正気を失いかけたが、滝瀬さんの問いを無視するわけにはいかないと懸命に意識を保つ。
そのお陰で沈んでいた気分がほんの少しだけ紛れた気がする。滝瀬さんに事情を説明するために、浮気されたことを思い出さなくてはならないのが気にならないくらいには。
「……実はさっき知ったことなんすけど、彼女に浮気されてました」
溜息交じりそう言うと、無意識に、ははは、と乾いた笑いを零す。
すると、滝瀬さんは相槌を打つかのように調子を合わせて「奇遇だね」と呟いた。
奇遇? それはどういうことだ?
俺と滝瀬さんの間に縁のようなものがあっただろうか?
「私もカレに浮気されたんだ」
「――え」
「だから私たちは浮気された憐れな者、仲間なんだよ」
まさか滝瀬さんも俺と同じで恋人に浮気されていたとは……。
お隣同士でそんな共通点がなくてもいいじゃないか……。
「なんかこう、せっかくならもっと前向きな共通点が良かったっすね」
「はは、そうだね」
俺が苦笑すると、滝瀬さんも釣られたように笑みを零す。
「ことの経緯を教えてもらってもいい?」
「……彼女の浮気のことっすか?」
「そうそう」
滝瀬さんの言葉足らずの問いに、一瞬だけ何を言っているのか考え込んでしまったが、幸いにもすぐに合点がいき、彼女に確認することができた。
「そんな面白い話じゃないっすよ?」
「愚痴を聞くって約束したからね。どんな話でも聞くよ」
楽しい話じゃないと念押しすると、滝瀬さんは見守るような優しい顔付きでそう言った。
少し冷静になれたことで誰かに話したい気分になっていたし、女性の意見も聞きたかったからこちらに否はない。
滝瀬さんの優しい表情に安心感を覚えた俺は口が軽くなり、諸々の事情を詳細に説明する。
「――へぇ、彼女が男とラブホにねぇ……」
手摺りに腕を乗せて頬杖をつきながら俺の話を聞いていた滝瀬さんは、説明が終わるとそう呟いた。
「嫌じゃなければ、写真を見せてくれない?」
「いいっすよ」
ズボンのポケットからスマホを取り出して画面をタップする。
そして件の写真を表示すると、滝瀬さんの部屋のベランダ側へ寄って彼女に見えるようにスマホを差し出した。
「ちょっと借りてもいい?」
「どうぞ」
許可を出すと滝瀬さんは遠慮がちにスマホを手に取る。
「枝村くんの言っていた通り、かわいい子だね。ぱっと見だけど清楚な感じだし、浮気するような子には見えないかな」
「ええ、まさかあいつが浮気するなんて夢にも思いませんでした……」
「多分だけど、この子は枝村くんと付き合ったことでいろいろと経験して、タガが外れちゃったんじゃないかな」
「まじっすか……」
「一定数いるんだよね、こういう子」
「確かに男にも初体験を済ませた後、猿みたいに見境なくなる奴はいますね……」
「そうそう、それと同じ」
滝瀬さんの推測に物凄く納得してしまった。
「経験がなかったからこそ、その反動でタガが外れやすくなっているんだよね」
「親が厳しいと言ってたので、いろいろ抑え込んでいたのかもしれないっす……」
「あぁ~、それはなおさら反動が大きいかも」
詩織は大学進学を機に一人暮らしをしている。
厳しい両親から解放されて自由になったのと、俺と男女交際を経験したことで抑え込んでいた理性が爆発したのかもしれない。そう思うと妙に納得できた。
「だから君に悪いところがあったってわけではないと思うよ」
滝瀬さんはそう言った後、スマホを返してくれた。
「だといいんすけど……」
俺は受け取ったスマホをズボンのポケットにしまいながらそう呟く。
「自制できなかった彼女さんが悪いんだよ」
「それは……そうっすね……」
まだ確定ではないけど、詩織が俺に不満があったとか、そういうのじゃない可能性が高まったのは良かった。
でも、なんか言葉にできない複雑な感情が胸中を駆け巡って気分を上向かせてくれない。
この消化できないもやもやが胸中で蠢く度に、吐き出し場所を求めて感情が爆発しそうになる。
「ショックが大きくて、怒りよりも悲しい気持ちの方が強いんすよね……」
「わかるわかる。私も前はそうだった」
訳知り顔で頷く滝瀬さんからは諦念のような感情が滲み出ている。
「私のカレが浮気したのは今回が三回目なんだけど、一回目の時は怒りが先行したよ」
滝瀬さんはそう言うと肩を竦めた。
「でも二回目は悲しい気持ちの方が強かったね」
今度は苦笑する。
「そして今回は怒りと悲しみを通り越して、呆れ果てて言葉も出ないって感じかな」
「それは災難でしたね……」
俺は思わず彼女に同情の眼差しを向けてしまう。
三回も浮気するとか、それはもう常習犯ではないか。反省する気も改める気もないじゃん。
「若いなら仕方ないか、とも思えるんだけど、カレもう三十だよ? いい歳して何やってんの? って感じだよ」
若いなら仕方ないって思えるんだ……。
既に浮気を二回許しているわけだし、滝瀬さんって寛容なんだな……。
「彼氏さんは年上なんすね」
「……あれ? 枝村くんに私の歳を伝えていたっけ?」
不思議そうに首を傾げる滝瀬さん。
その仕草がいちいち色っぽくて堪らない。
「いえ、ただ、滝瀬さんは美人ですし大人っぽく見えますけど、三十には見えないので、二十中盤くらいかな? と勝手に思ってました」
「……嬉しいこと言ってくれるね」
滝瀬さんは照れを隠すように髪を掻き上げる。
「私は二十五だから正解だよ」
まさか本当に当たっているとは思わなかった。
でも滝瀬さんは大人っぽいから三十くらいでも違和感がないと思う。
実年齢より若々しい外見をしている人もいるし、彼女がそういう類の人だとしても全く不思議ではない。
「枝村くんは確か大学二年生だったよね?」
「はい」
「ということは今年二十歳?」
「です。まだ誕生日来てないから今は十九ですけど」
このアパートに越してきて滝瀬さんと最初に会った際に、大学に進学したことが引っ越しの理由だと伝えていた。
そのことを彼女はしっかりと覚えていたようだ。
「十個も違うのにカレより枝村くんの方がしっかりしているな~」
溜息交じりそう言った瞬間――少し強めの風が吹き、滝瀬さんの髪が靡いた。
「少し肌寒くなってきたね……」
「そうっすね」
両腕を摩る滝瀬さんはチラリと自室に目を向けると――
「話の続きは私の部屋でしようか」
と口にした。
「――え」
まさかの発言に俺は目を見開く。
「い、いや、さすがに恋人がいる女性の部屋にお邪魔するのは気が引けるんすけど……」
「大丈夫大丈夫」
「そうは言ってもですね……」
「私も枝村くんも恋人に浮気された身なんだから、それくらい問題ないでしょ。私のカレも君の彼女さんも文句言う筋合いないんだし」
確かに……。
仮に俺が浮気しても詩織に文句を言う筋合いはないだろう。
いや、浮気する気はないけどね?
そもそも滝瀬さんと浮気するわけじゃなくて、ただ話をするってだけだし、やましいことは何もない。
「というわけで、こっちおいで」
滝瀬さんはそう言うと、俺の返事も聞かずに姿を消した。
おそらく自室に戻ったのだろう。
「……」
置いてけぼりを食らった俺は、どうしたものか、と途方に暮れる。
しかし、いつまでも考え込んでいる暇はない。
自室に戻ってしまった滝瀬さんに声を掛けることなんてできないし……。
正直言うと、滝瀬さんの誘いは非常に魅力的だ。彼女のような素敵な女性に誘われて嫌な男など存在しないだろう。
とはいえ、滝瀬さんには恋人がいるし、俺にも彼女がいる。だから倫理的にどうなのか? と考えずにはいられない。
体感では物凄く長く感じた時間――実際は一分も経っていない――悩んだ結果、俺が出した結論は――
「まあ、いっか」
思考の放棄であった。
決して誘惑に負けたわけでない――と自分に言い訳をしながら滝瀬さんの部屋へ足を向けた。
◇ ◇ ◇
すっかり話が弾んでしまったが、滝瀬さんの部屋に来てからどれくらい時間が経ったのだろうか。
当の滝瀬さんは愚痴を零しながらビールを呷っていたので、すっかりできあがっている。ローテーブルの上に並ぶ数々の空き缶がその証拠だ。酒の力で気を紛れさせているのだろうが、少し飲み過ぎではないか?
彼女の場合はテンションが高くなるとか、絡み酒になるとか、そういった面倒な酔い方をするタイプじゃなかったのは幸いだけど、酔いが回れば回るほど色っぽくなっていくのは非常に厄介だった。
ナイトガウンの丈の長さは膝上辺りなので、そこから覗くしなやかな脚、細い身体と反比例するように弾ける胸と尻、艶めかしい吐息、彼女の些細な仕草ですらセクシーで、とにかく目のやり場に困る。
その所為で俺の理性は崩壊寸前だった。
もし俺も酒を飲んでいたらどうなっていたことか……。
「もう潮時かな……」
俺がなけなし理性を保つために奮闘していると、滝瀬さんが沈んだ声でポツリと呟いた。
「さすがにもう愛想が尽きた……」
そう言うと、滝瀬さんはローテーブルに突っ伏す。
どこか寂しそうな声色と表情だったので、口では潮時と言いつつも、まだ踏ん切りが付いていないのだろう。
「俺が言うのもなんですけど、見切りをつけた方がいいと思いますよ」
詩織に浮気されている俺が言っても全く説得力がないけども……。
「そうだよねぇ」
「滝瀬さんなら他の男が放っておかないでしょうし、貴重な時間を無為にするのはもったいないっすよ」
将来的に結婚を考えているのなら尚更だ。
男はやろうと思えばいくつになっても子供を作れるが、女性はそうもいかない。
高齢出産は危険がつきまとうし、体力のある若いうちに子育てした方が心身共に楽だろう。
だから浮気野郎なんかに貴重な時間を費やすのは滝瀬さんのためにならないと思う。――まあ、彼女に結婚願望とか、子供が欲しいとか、そういった欲があるのかはわからないけど。
「……君も私のことを放っておかない?」
滝瀬さんは突っ伏した状態で顔だけ右に向けて、とろん、とした目で俺を見つめる。
「お、俺っすか?」
予想外の返しと表情に思わずドキッとしてしまい、どもってしまった。
「うん」
突っ伏したまま器用に頷く滝瀬さん。
「もしお互いに恋人がいなくて、俺にもチャンスがあるのなら放っておかなかったと思います」
「そっか……」
「でも、交流を重ねないと性格がわからないので、ある程度は親睦を深めてからですけどね」
「……じゃあ、もっと親睦を深めようよ」
舌なめずりしているのかと錯覚してしまう扇情的な笑みを浮かべた滝瀬さんの様子に、俺は再びドキリとしてしまう。
「……どういう意味っすか?」
「もっと仲良くなろうってこと」
「滝瀬さん……完全に酔ってますよね?」
「京華って呼んで……」
とろんとした顔の滝瀬さんは俺の太股に手を添えると、上目遣で迫ってくる。
年上の女性が垣間見せる幼い少女のような可憐さと、年相応の色気が内包した表情と仕草の破壊力は魔性の力を宿したサキュバスのようだ。
困ったことになけなしの理性を保てそうにない。
というか、滝瀬さんの方が酒の所為で理性を失っているような……?
「滝瀬さんの下の名前って京華って言うんすね」
「そうだよ~」
「素敵な名前っすね。華やかでありつつも雅な感じが滝瀬さんに合ってます」
「ふふ、ありがとう」
滝瀬さんは鼻を鳴らしてご機嫌に微笑むが――
「でも、京華って呼んでってば」
唇を尖らせて不満をあらわにした。
なんだそれ!? めちゃくちゃかわいいんですけど……!?
年上の女性が少女のように甘えた態度を見せるのは、こんなにかわいいものなのか……!!
「き、京華さん」
動揺して思わず名前を呟いてしまったではないか!
「ふふ、これでもっと仲良くなったね」
そう言って艶然と微笑む滝瀬――いや、京華さん。
「でも、もっと仲良くなろ?」
「も、もっとっすか?」
「うん。枝村くんの下の名前を教えて?」
「か、魁斗っす」
押し倒すような勢いで迫ってくる京華さんに、俺はいとも容易く気圧されてしまい、条件反射で自分の名を口にしていた。
我ながら情けねぇ……。
「魁斗くん……ね」
京華さんは俺の名前を嚙み締めるように呟く。
「ねぇ……魁斗くん」
「な、なんすか?」
「私……いいこと思いついたの」
「いいことっすか?」
俺が首を傾げると、京華さんは「うん」と頷いた後、何故か隣にやってきてしな垂れかかってくる。
その瞬間、彼女と密着したことでフローラルな甘い香りが俺の鼻腔を擽った。
洗剤の匂いだろうか? それともシャンプーの香りか? いや、体臭の可能性もあるな――と冷静に彼女から発せられる香りの正体に考えを巡らせることで、なんとか平静を保てている。
というか、必死に脳を動かして気を紛らわせないと、今の俺にはいろいろと刺激が強くてどうにかなってしまいそうだった。
なので、動揺を悟られないように虚勢を張るので精一杯だ。
「き、京華さん?」
どもってしまったので全く説得力がないが……。
自分の情けなさに少しだけ自己嫌悪が押し寄せてくる。
しかし、そんな俺の心情など京華さんは知る由もない。
故に、彼女は俺の耳元に口を寄せると――
「私たちも浮気しちゃおっか」
と吐息を多分に含んだ声音で囁いた。
彼女が何を思ってそんなことを口走ったのかはわからない。
だが、少なくとも彼女の甘言には、俺の理性を蕩けさせるのに充分な魔性の力が宿っていた。思わずゾクリとしてしまうくらいには。
◆ ◆ ◆
翌日の正午。
すっかり日が昇り、カーテンの隙間から日差しが差し込んでいる中、ベッドで横になっている私は二重の意味で頭を抱えていた。
「……やっちゃった」
そう力なく呟くと、横に目を向ける。
そこには裸で眠る魁斗くんの姿があった。
同じベッドで男女が裸で寝ている状況は、誰がどう見てもナニがあったのか一目瞭然だと思う。
二日酔いで痛む頭を懸命に働かせて記憶を辿るまでもない。
だって、そこら中に使用済みのコンドームが散らばっているから……。
なんなら私の下半身にはまだ感覚が残っているし……。
しかも私の方から誘ったんだよね……。
そう思うと凄い恥ずかしいんだけど……!
まあ、後悔はしていないから別にいいんだけどね!
魁斗くんとは相性が良いのか、それとも彼のテクニックの為せる業なのかわからないけれど、今まで経験したことがないくらい気持ち良くて濃密な時間を過ごせたし、浮気を繰り返すカレに意趣返しできたから清々しい気分!
私の都合に魁斗くんを利用したような感じになってしまったのは申し訳ないけれども……。
まあ、彼は気持ち良さそうに寝ているから、きっと満足してくれたに違いない。うん、そうに違いない。
というか使用済みのコンドームの量が凄いわね……。
ぱっと見ただけでも使用済みのコンドームが六つも散らばっているし、いったいどれだけヤったのか……。
記憶が曖昧だから正確な数はわからない。もしかしたら探せばもっとコンドームが落ちているかもしれない。
魁斗くんがそれだけ凄い体力の持ち主だったというのもあるかもしれないけれど、私は私で浮気しているという事実に妙な背徳感を覚えて、いつも以上に乱れてしまったような気がする。
なんて昨夜の出来事を振り返っていると、魁斗くんが「んん」と寝息を零して私に抱き着いてきた。
私の腰に腕を回してがっしりとホールドし、胸に顔を埋めてくる。
「ふふ、かわいい」
彼の甘えるような態度に、私の頬が自然と緩む。
今まで年上としか付き合ったことがなかったから初めての経験だけれど、年下の男の子には母性が擽られてなんかこう心に来るものがあるわね……。
思わず身震いしてしまうこの感覚が癖になりそう……!
少し自暴自棄になっていたのと、お酒で酔っていたのが影響して魁斗くんのことを一夜の過ちに誘ってしまったけれど、このまま終わってしまうのはちょっと惜しいかな……。
私はもう折を見てカレと別れるつもりでいる。
でも、魁斗くんは彼女さんとの関係をどうするのかわからない。
もし別れるのなら私と付き合ってくれたりしないかな? なんて浮かれたことを思ったりもするけれど、それは私の都合でしかない。
そもそも一夜を共にしただけで彼女にしてほしいと強請るなんて厚かましいよね……。
彼から誘われての営みだったら脈あり、とも思えるけれど、私の方から誘ったわけだし……。
というか、私って一夜を共にしただけで本気になるような単純な女だったかしら……?
自分の感情に戸惑いを覚えた私は胸中で首を傾げると、気持ち良さそうに眠る魁斗くんの黒髪を優しく撫でて心を落ち着かせる。
「結構長いよね」
魁斗くんの髪は肩甲骨辺りまであって、男の子にしては長い。
夏場は結ばないと暑くて大変だね。
「ふふ」
心が弾んだからか、自然と鼻が鳴った。
改めて考えると、付き合っていない相手と身体を重ねたことなんて今まで一度もなかったから、私がそんな単純な女だったのかなんてわかるはずもない。――酔った勢いで一夜を共にしておいて何言ってんの? って感じかもしれないけれど……。
ただ一つわかったのは、もしかしたら年上の男より年下の男の子の方が私には合っているのかもしれないってこと。
いや、魁斗くんだけ特別なのかもしれないし、決めつけるのは時期尚早かしら……?
いずれにしろ、魁斗くんの顔を見る度に、今だけはこの一時の幸せを噛み締めていたいと心の底から思う。
だから一先ず今は余計なことを考えずに彼との甘いひと時に溺れていたかった。
◆ ◆ ◆
「――んん」
「おはよう」
「――!?」
目を覚ますと俺の眼前には一糸まとわぬ姿の京華さんの豊満な胸があった。
いや、正確に言うと、俺が彼女の胸に顔を埋めて寝ていたようだ。ありがとうございます。最高でした。――寝ていたからほとんど記憶にないけど。
「す、すいません」
「なんで謝るの?」
慌てて謝るも、京華さんは心底不思議そうに首を傾げる。
「いや、抱き着いて寝てたみたいなんで……」
「別に大丈夫だよ? 君のかわいい寝顔を見られて眼福だったし」
そう言って微笑む京華さん。
「……それはそれでむず痒いっすね」
寝顔をまじまじと拝まれるなんてなんか恥ずかしいな……。
というか、今……何時だ?
今日は土曜だから大学は休みだし、バイトもないから俺は問題ないけど、京華さんは仕事とか大丈夫なのか?
「今、何時っすか?」
「もう、お昼過ぎだよ」
「まじっすか……」
「朝方までヤってたし仕方ないよ」
確かに朝の七時くらいまでヤっていたから寝ていたのは五、六時間くらいか。
睡眠時間的には充分だけど、散々ヤリまくったから少しだけ身体が怠いな……。
あ、やべ、情事を思い出したらまた興奮してきた。
我ながら俺の下半身君、元気すぎやしないかね?
いや、まあ、一糸まとわぬ姿の美女が目の前にいるのに興奮しない方が男としてどうなのかと思うけども……。
だから俺の下半身君の反応は正常なのである! ――まあ、寝起き故の生理現象が一番の理由だと思うが。
「京華さんは時間、大丈夫っすか?」
「うん、大丈夫だよ。今日は仕事ないし、他に予定もないから」
「そっすか……」
俺はほっと胸を撫で下ろす。
「それじゃ汗掻いたし、シャワー浴びてくるね」
そう言ってベッドから抜け出そうとする京華さんの腕を、俺は反射的に掴んで引き止めてしまう。
「どうしたの?」
当然、京華さんは首を傾げる。
「いや、あの……」
思わず引き止めてしまったが、言葉が口から出てこない……。
シミ一つない綺麗な素肌をあらわにする京華さんから視線が外せない。
ずって見ていたいくらい美しい。いっそ幻想的とも思えるほどに。
こんな機会が二度もあるとは思えないし、せっかくだから行くところまで行ってしまえ! と半ば暴走気味の覚悟を決めた俺は、一度視線を下に外してから京華さんの顔を見つめ直して口を開く。
「その前に、もう一回ヤってもいいっすか?」
「……あんなにヤったのに、まだヤレるの?」
驚いて目が点になる京華さん。
昨日は二十一時頃から朝の七時くらいまでヤっていたから、合計で十時間くらいヤっていたことになる。
改めて考えるとめちゃくちゃヤったな……。
詩織とでさえこんなにヤったことないのに……。
そんなにヤっておいてもう一回と懇願するのだから京華さんが驚くのは無理もない。
「京華さんが魅力的すぎて興奮が収まらないんです……。駄目っすか?」
「ううん、いいよ」
呆れた素振りもなく、笑って受け入れてくれる京華さんが女神に見える。
「でも、その前にお水を飲ませて?」
「あ、俺も飲みたいっす」
寝起きだから喉がカラカラだ。
「うん、ちょっと待ってて」
立ち上がった京華さんは冷蔵庫に向かって歩き出した。
歩く度に、ぷりん、と弾力のある尻が揺れて大変眼福である。
「はい」
「ありがとうございます」
コップを持って戻ってきた京華さんから受け取ると、ゴクゴクと一気に飲み干す。
そして少しずつ飲んで喉を潤す京華さんを見つめながら大人しく待つ俺は、さながら忠犬である。
「それじゃ、もう一回ヤろっか」
口元から一滴垂れたままそう言う京華さんの姿は、非常に蠱惑的で情欲がそそられる。
俺は逸る気持ちを抑えて京華さんの柔肌に手を伸ばすが――
「あ、でも、その前に、誤解されたくないからこれだけは言わせて」
機先を制されてしまった。
「……なんすか?」
気勢を殺がれてしまったことに俺はもどかしさを感じつつも、忠犬の如く素直に耳を傾ける。
「私、普段からこういうことしているわけじゃないからね?」
こういうこと、というのは浮気とセックスのことだろう。
「わかってますよ」
「付き合っていない人とヤるのは今回が初めてだし、魁斗くんが特別なだけなんだからね」
そう言いながら俺の胸に手を添える京華さんの手付きがなんだか無性にエロくて、背筋がゾクゾクする。
「……そんなこと言われたら、俺……自惚れちゃいますよ」
京華さんみたいな美女に特別なんて言われたら誰だって勘違いしてしまうだろう。それが男の性ってやつだ。
思わず京華さんをベッドに引きずり込んで、押し倒してしまうくらいには自制が効かなくなっている。
「……うん、自惚れていいよ。魁斗くんさえ良ければ、たった一度きりの関係じゃなくて、これからも私と浮気しましょ?」
俺に押し倒された状態で京華さんはそう囁いた。
彼女のうるっとした瞳が俺に突き刺さる。
情欲をそそるような蠱惑的な表情と声色に、俺のなけなしの理性は完全に吹っ飛んでいく。
「……はい」
口内に溜まった唾液を飲み込んだ俺は反射的に頷くと、京華さんの胸に顔を埋めた。
そうして夢のようなひと時を再び堪能するのであった。
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