おちてしやまぬ
寒い、冬の夜のことだった。
私はその日、ある衝撃的な物を見た。
それはマンションの自室で、テレビを見ながら面倒でしかない講義レポートを片付けていた時のことだ。
不意に殴りつけるような、叩きつけるような音が聞こえた気がして……。
普段なら別段気にしないような音だというのに、あの日は何故かその音へと目をやってしまった。
薄暗い窓の外。
厚手のカーテンはたまたま薄っすらと開かれており、極々一部の外の景色を眺めることができる。
しかし、そんなごくわずかの隙間で、しかもたまたま私の部屋の前で――。
思い出しただけでも身が震える。
いや、思い出したなどというものではない。
先ほども、昨日も、先週も。
その光景を私はそれから何度も、何度でも見ることになる。
あぁ、思い出したくもない。
見たくも無い。
暖房が効き、ジャンバーを羽織り、毛布に包まり……。
それだというのに心が寒い。心が震える。
精神の寒さが体に影響するのか手がかじかみ、吐息が冷たい。
頭が冷える。脳が冷える。肝臓もすい臓も胃も腸も眼球も毛穴の一つ一つまで。
恐怖が、体を極限まで凍えさせていく。
――あの時みた事を言えば一言ですむ。
実に簡単なことだ。
なのに、何故それがこんなにも恐ろしいのだろう。
……あぁ、言葉を止めれば止めるほど寒くなる一方だ。
もう……言ってしまおう。
その時私が見たのは、言葉にすれば簡単だ。
『飛び降り自殺を部屋で目撃した』
震えるほどの事ではない。
驚きはすれど、見知らぬ人間の死は映画で、ドラマで、ニュースで、何度だって繰り返されている。
――もっともその人物は、見知らぬ人間ではなかったが。
その時の光景が頭から離れない。
気が狂いそうなほど、心の中を渦巻いている。
光景は写真や映画のように頭に焼きつき、問われれば何度だって説明できる。
彼女が着ていた服も、落ちていく様子も。
どんな靴を履いていたか、どんな口紅をつけていたか、どんな香りがしていたか、どんなマニキュアをつけていたか、どんな物を食べたか、どんな生き方をしていたか、どんな、どんな――。
……あぁ、やめてくれ。
見ていないことでも見ていたことにするから、それ以外なら何でも思い出してあげるから……。
もう見せないでくれ。
その顔を、その目を……見せないでくれ。
……見てしまう。
それでも、私は見てしまう。
まるで洞のような目。カーテンを覗きこむように、こちらをただじっと眺める洞のような目だ。
表情は何もなく、感情の何も宿らない顔と瞳。
人間は、あんな顔が出来るのかと、心底驚き、震えた。
――もういやだ。
もう、君の顔はみたくない。
これ以上、付きまとうのはやめてくれ……!
だから私は決意した。
とはいえ、その決意を行う前に、私はここに今までの日記を残そうと思う。
私の行動を他の人達は『気が狂った』のだとしか思えなかっただろう。
だからこそ、私は自身の潔白を晴らすためにもこれをここに残すのだ。
『12月24日』
今日、私は彼女の飛び降り自殺を目撃した。
確かに驚きはしたが彼女の自殺には心当たりもある。
あの顔は恐ろしいものだったが、これで杞憂はもうなくなると安堵したものだ。
深夜という時間でもなかったためか、すぐにマンションの下は騒がしい音が聞こえ始めた。
野次馬も相当数集まっていることだろう。
人の死を観賞する輩……何が楽しいのか理解に苦しむものだ。
しかし彼女は何故、突然の死を選んだのだろうか。
まぁ、これで付きまとわれることも無いだろう。
天の罰というものがあるかどうかは知らないが、何にせよ助かった。
『12月30日』
……見間違いだろうか。
明日の大晦日に一緒に過さないかという友人からの誘いのメール。
それの返信を打っていたとき、携帯画面のディスプレイにちらりと何かが落ちるものを見た気がした。
いや、気がしたわけではない。
確かに私は、ディスプレイに写りこむ、私の背後に落ちたものを捉えた。
洞のような瞳。無表情な顔。
私を、背中越しに私を見つめる彼女の姿。
――意外と、あの件は私にとってショックだったのだな。
幻覚を見るまでとは思わないが、例え邪魔だと思っていた人間であっても人の死はこれほどに思いらしい。
私を見ていたこと。少し、気味が悪いが……所詮は幻覚だ。
『1月4日』
幻覚だよ。
幻覚だ。
顔を洗っていたときに、はっきりと移りこんだ落ちていく彼女。
ゆっくりと、私に見せ付けるように落ちていく彼女。
幻覚に匂いはあるのだろうか。音はあるのだろうか。感触はあるのだろうか。
肩越しを流れていく、香水の香り。
切り裂かれ、悲鳴をあげるように甲高い風の音。
私の肩を通りすぎ、背中に触れ、絡みつくような長い、長い、彼女の黒髪。
幻覚だ。疲れているんだ。
でも、幻覚だとするなら……。
驚いて振り向いた、その足元に……。
なんで、髪の毛が落ちているんだ。
『1月6日』
気晴らしをしようと友達を誘ったのが悪かった。
嫌なものを時折みる自室から、離れたかったこともある。
友人を誘い訪れた喫茶店。
暫し、今までおきた馬鹿馬鹿しい体験を冗談交じりに話していた時のことだ。
手元の、キンと冷えたコップ。
恐怖を晴らそうと饒舌に喋り続け、喉が渇いたなと、ふと思った時のこと。
――コップに、彼女の姿があった。
いつもと同じように彼女は長い髪を風にたなびかせながら、ゆっくりと、落ちていく。
真っ暗な洞。白いキャンパスのような顔。
口元は何かを呟くようで、声は聞こえないが彼女の全てを私に見せ付けてくる。
私は叫んだ!
叫び、コップを地面に叩きつけた!
叩きつけた地面には、あの時と同じように髪の毛が残っている。
確かな証拠。そうだ、私は幻覚を見たわけではない。
ここに彼女が落ちたんだ!
友人は気持ち悪いものを見る目で私を見た。
周囲も何事かとざわめき、店員達も恐る恐るという様子で私に近づいてくる。
私は、おかしくなんてない。
証拠だって、ここにあるんだ。
――確かに証拠はある。私は、それを恐怖など振り払い手にとって見せ付ける。
だというのに、何故だ。
――髪の毛なんて何処にでもあるといわれるだけならまだしも……。
なんで、皆何もないだなんて、おかしなことを言うんだ。
『1月7日』
今日は鏡という鏡を割った。
携帯も、テレビも、食器棚のグラスも全てだ。
割った破片には墨汁をばら撒いて処理してやった。
ざまあみろ。
部屋の窓には厚手のカーテンをしっかりとかけ、この部屋に何かが移りこむような事は決してない。
これで安心だ。
安心――。
安心のはずだったんだ!
なのになんでだよ!
なんで今度は、あぁ……今度は……。
目の前に、私のすぐ近くで、私を見て、私に見せ付けて!
なんで、落ちてくるんだよ!
あぁ、やめろ。その目で見るな。
私を見るな!
何で私を困らせる!
何で私を、付回す……。
本当に好きなら、こんなことしないだろ。
もう、警察を呼んだりしないから……だから頼むよ。
私をこれ以上、その目で見ないでくれよ……。
『1月8日』
今日も落ちてきた。
落ちて、死んだ。
今日は何人も落ちてきた。
落ちて、死んで、落ちて、死んで。
いつまでも止まない死の光景。
どいつもこいつもあいつ自身で、どの顔も全部同じ顔だ。
気が狂いそうだ。あるいは、私はすでに病んでいる。
どうでもいい。
いい事を、思いついたからだ。
だから私はそれを実行しようと思う。
これで、彼女ともおさらばできる。
日記を置いた彼は、部屋中で落ち続ける彼女を睨みながら笑みを作った。
狂人としか表現できない、怒りと憎悪と恐怖に歪んだ満面の笑み。
初めて彼女の落下を目撃した窓を開け広げ、邪魔だとでも言うように落ちてくる彼女を突き飛ばしながら前に出る。
彼が手に持っているのは、墨汁まみれのガラスの破片。
強く握り締めていたためか、切り裂かれた掌からぽつり、ぽつりと赤い雫が零れおちている。
「さようなら。もうお前を、見てやるものか」
握り締めたガラスを、静かに顔の前まで持ち上げる。
今も尚落ち続けている彼女に、表情は無い。
表情がなくても、たとえ目が洞であろうとも、この俺の姿を見ることが出来るだろう。
(そうだ、もう、見てやるものか。)
ガラスの鋭い切っ先を、白濁とした眼球へと吸い込ませる。
音が聞こえた気がした。
潰れるような、割れるような……熱っぽいような、切り裂かれるような音だ。
痛みで気が狂いそうだが、何よりも嬉しい。
「ぐっ、くぁ……は、はは、ははは! 見えない! もう、お前は見えない!」
手から転げ落ちたガラスが割れる音。
彼女の姿を視ることはもうなく、病むことももうない。
安心だ。これで、ようやく安堵ができた。
だが――。
「はは! ははは! ざまあみろ! どうだ、これで……あ」
窓を開けていたのが悪かった。
喜びと痛みと訳のわからない陶酔が、暴れさせたのが悪かった。
静かに、大地から空へと重力が反転する。
視界が利かないための誤感知。
彼は、ベランダから身を乗り出し、地面へとゆっくり吸い込まれていった。
そして彼は墜ちていく暗闇の中で、確かに『見て』しまった。
洞のような瞳をして、何処までも、何処までも嬉しそうな……彼女の顔。
今まで何を呟いているのか分からなかった言葉も、今ははっきりと耳に届いてくる。
彼女と一緒に、同じような洞の眼をしながら、同じように地面へと墜ちていって……。
真っ暗な暗闇の中、ただ彼女の姿だけが浮かんでいる。
彼女は耳まで裂けた笑みを浮かべて、叶えられた願いを心から喜び言ったのだ。
「これで、ずっと一緒だね」