彼の岵にのぼり父を瞻望す。あの高い山から遠くお父さんを眺めましょう②
「いやあ、趙孟はすごい。眉をしかめても、わけのわからないことを呟いていても、顔を赤らめても、美しい。美人だ。君公に侍る女にも汝ほどの美貌はあるまい。……妹はおらんのか。汝に妹がおらば、ぜひ妻妾にしたい」
欒黶が心の底から感心した声をあげたあと、体を乗り出して趙武の顔をしっかと見る。趙武は呆れた。本日何度目かは忘れたが、呆れた。
「おりませぬ。私が生まれる前に父は亡くなりました。あなたもよくご存じのはずでは?」
趙氏への粛正は晋を揺るがした大事件である。これを知らぬとなれば、無知無教養どころの話ではない。大臣はおろか、嗣子も貴族もやめろ、というレベルである。
「は? 汝は父親似なのか? 母親似かと思っていたが」
欒黶が本気で首をかしげて言う。ちぐはぐすぎる返答に趙武は困惑した。
「は……母に似ているとは、言われます」
趙武の美しさは母の華やかさに似ている。周囲はそう、ささやき、趙武も不快であるが認めている。とまどう趙武をよそに、そうだろう、と欒黶が頷く。
「汝の母は、未亡人になって男と密通してたろう。まだ若かったと聞く。妹は生まれなかったのか。そういった話はなかったのか、汝しか孕まなかったのかあ、ああ、惜しい」
無神経で下品極まりない言葉を言い切ると、欒黶は心底残念そうに肩を落とした。荀偃が引きつった顔を欒黶に向けた後、趙武を気遣わしげに窺った。
趙武は、怒りも何もかも忘れ、呆然としていた。それに気づかない欒黶が、なあ本当に妹はおらんのか、と絡んでくる。その狼藉を注意すべき荀偃はおろおろとしながら、
「ね、欒伯ちょっと、あの、少しそのだまって」
とあやふやなことを言うだけである。それどころか中行伯も思わんか、などと同意を求められても否定せず、唸っている。
バカのはしゃぎもノロマの口ごもりも、趙武には遠い喧騒のように聞こえた。体が内蔵もずり落ちるような恐怖は、まるで穴に落ちていく心地でもあった。
お前の母は、夫以外と子を為していたのではないか、という言葉はもう一つの理を導き出す。
趙武は本当に、父の子なのか。
母が父以外の男と子を――娘を為していたとする。欒黶の言うように、趙武そっくりの妹がいたとしたら、では、父は。己と、妄想の中の妹の父が、違うと、断言できるか。
「や、だ」
ぽつりと出てきた趙武の呟きは、悲鳴のようでもあった。荀偃がなんとか欒黶を押しのけ、少しずつうつむいていく趙武を覗き込む。
「あの、お怒りはきちんと……仰ったほうが良いと思います。いや欒伯は、その、悪気があって、あなたの母君を卑しめたわけではないのですが、だから、言わないとおわかりにならないと申しますか……」
気を使っており、常識的ではある。しかし、荀偃はカンが悪く何より役立たずであった。彼は慮ったつもりで、欒黶を制することもできず、末席の趙武自ら先達に申し立てしろ、と無能を吐露した。
そのうえで、趙武がフリーズしている理由も、何に傷ついたかも気づいていない。欒黶の自覚ない悪意に耐えていた趙武の心は、荀偃の無責任な善意で決壊した。
「あっ、あ、うわあああああああんっ」
趙武はつっぷし、幼児のように泣きわめいた。荀偃はもちろん、欒黶も驚く。
「か、家族が少ないのに、おらぬ妹の話をしたのが辛かったか! さすがの俺も気づかなかった」
欒黶は傲慢で自己肥大のかたまりであるが、ボンボン独特の人の良さを持っては、いる。それが今、中途半端に発揮された。――最悪のタイミングである。
趙武が一瞬だけ体をこわばらせて黙った後、
「やああああああ、いやあああああああああっ」
とつんざくような声でさらに泣きわめいた。完全に幼児の泣き方であるが、余人が聞けば、断末魔か強姦される女の悲鳴である。欒黶がわけがわからないまま、さらに慰めようとする。地獄絵図であった。
荀偃が、欒黶を引き倒し、口をふさいだ。あばれる欒黶にじっとしててください! と叫ぶ。常はのんびりした荀偃の必死の形相に、欒黶がビビって動きを止めた。
「趙孟。えっと、えっと。本日は、祀りを確かめる儀はございませんが、ご用意してもらいましょう、おやつ。そう、おやつ何がいいですか、趙孟の好きなおやつありますよ、ねえひといき! ひといきいれましょう、あの、私が至らずスミマセン」
トロくさい荀偃のせいいっぱいであった。
趙武は起き上がり、声をしゃくりあげながら荀偃を見た。この、無能で鈍感な先達は、趙武の気持ちなんて全くわかっていないが、素直に寄り添おうという優しさはあった。欒黶が押さえつけられていることにも、安堵する。
「おやつ。おやつほしいです。でもそこのバカキライ。どっかいって、キライ」
舌っ足らずな、幼女の声でつぶやいた後、趙武は己の目尻を手でごしごしとぬぐった。
「ご心配おかけしました。先達の皆様方に見苦しいところをお見せいたしまして、我が未熟に忸怩たる思いでございます。今後ともこの未熟者をご教導いただくよう願います。ところで欒伯がご体調すぐれず、中行伯もお体の様子を見ておられる。そのように倒れておられるなど、本日はお帰りになられたほうが良いと思います。このあとの学びは私と中行伯で務めますゆえ、欒伯はお帰りを。晋を支える欒氏の嗣子、正卿もご心配になられるでしょう。疾く、早く、お帰りを」
「は!? 俺のおやつは!?」
欒黶が身を起こそうとした瞬間、趙武の凍てついた笑みが覗き込んでくる。笑顔は時に怒りのあらわれでもある。おつむが残念な欒黶でさえわかる、氷点下の冷たい憤怒であった。
「お体をぉ、いたわってぇ、くださいねぇ。月の無い日だけではないんですよぅ? ね、欒伯。さ、お帰りください。お早く、すぐに」
欒黶は、脱兎のごとく逃げ出した。
ここで荀偃が趙武の心をほぐせるような男なら良かったが、彼にはもちろんできない。ぎくしゃくとした空気の中、通り一遍の議を終わらせた。
おやつは趙武の要望で炒り豆であった。豆は貧民の主食である。まあ、民は限界まで膨らませて食べるのであるから、炒り豆は贅沢と言えなくともない。
趙武は完全に幼児返りしたしぐさで、お豆美味しいですね、たまには儀を忘れるのもいいですねえ、とボリボリ食べる。ニコニコしているが、目に光りなく虚ろであった。美しいさが損なわれないのが、いっそ無惨である。
荀偃が美味くもない炒り豆を食べながらげっそりしている。趙武は、それがわかっていても、美味しいですね、もっとどうぞと薦めながらニコニコ笑った。むろん、心の傷は開きっぱなしで、己への疑念で気が狂いそうなほどであった。




