彼の岵にのぼり父を瞻望す。あの高い山から遠くお父さんを眺めましょう①
さて、話が初手から二転三転する。趙武の事情を先に記しておきたい。縁を切った母の不倫相手と会う、ということである。
それは、秋も終わろうとしている日であった。菊の香りも薄まる庭は寒々しい。冬も近いと言わんばかりに、枯れ葉がからっ風の中で舞っていた。
「大禹謨。舜帝がお認めになられた禹王の大いなるお考えを議といたしましょう」
荀偃が伺うように見回しながら、もごもごと言った。場には、彼と趙武、そして欒黶しかいない。
「なんだ、韓伯も范叔もいないとは。我ら三人で何を学ぶのか、もう終わりにして帰ろう」
さっそく姿勢を崩して欒黶が言い、やる気なさげに手を振った。韓厥は病欠、士匄は荀罃の強化合宿中である。
「……末席より申し上げます。そうは言っても、我らはいずれ卿になる身。范叔も遊んでいるわけではなく、今頃とても研鑽を積んでいることでしょう。我らも務めるべきです。正卿は常に研鑽怠らず、賢人と誠実さを好むと伺っております。欒伯もお父上に倣ってはいかがでしょうか」
趙武は非難を込めた目で欒黶を睨んだ。常は花のような印象の美しい顔が、氷のような冷たさをはらんでおり、人によっては背筋が凍る思いであったろう。しかし、欒黶はなんの感銘も受けることなく、
「汝は本当に美人だなあ、眉を顰めても絵になる」
と感心したように言った。趙武は頬を引きつらせ、怒りを必死にこらえる。傲慢怠惰、人の話など全く聞かぬこの先達は尊敬しようもない。場の空気の悪さに荀偃があわてて口を開いた。
「そ、そうです。范叔は知伯の元で務めておられる。我らの学びが足りぬと知れば、范叔のことです。知伯と共に研鑽しようと仰ってきます、絶対に道連れです」
道連れ、という言葉に欒黶がびくりと体を震わせ、慌てたように姿勢を正した。さぼっていることを士匄が嗅ぎつければ、
――やはり我ら若輩のみで学ぶのはなかなかに手が行き届かぬ。共に知伯に教えを乞おう
と言い出すに違いない。己だけがしごかれているなど我慢ならぬであろう。そして、士匄という青年は嗅覚鋭く、こういったことは見逃さない。
欒黶さえも怯える荀罃の強化合宿ブートキャンプとはいかばかりか。趙武は唾を飲み込んだ。
「だ、大禹謨だな。マツリゴトはタミをヤシナウにあり、だったな。これがいいんじゃないか」
欒黶がカタコトのような発音で、一節を議として出した。一応覚えているんだ、と趙武は感動した。荀偃は、そうですね、と柔らかく笑んで頷いた。
「夏王朝の祖、禹王のお言葉です。徳は惟政に善きなり。政は民を養うに在り」
荀偃が欒黶の言葉を受けて返す。正しい政治の根本は徳であり、政治の目的は人民を養うことにある。古代国家によくある統治のお題目である。己の言葉は正しかった、と欒黶は鼻をならして胸をはった。こういった、しょうもないことも自慢するのがこの青年の幼稚さである。
さて、ここから大禹謨についてそれぞれディベートするわけであるが、韓無忌がいない以上、代わりの議長は荀偃となる。そうなると、趙武と欒黶が持論を交わすわけだが――まあ、成り立つわけがなかった。
趙武の言葉に欒黶は
「それでいいんじゃないか?」
と己の意見を出さない。嫌がらせではなく、彼にはそういった定見がない。あえて言うなら
「民はアホだから、メシをやればおとなしく言うことを聞く」
という、極めて乱暴な論であった。まあ、間違いではないが、そのためにはどうすべきか、という部分が全く無い。
また、趙武の熱弁に対し、荀偃は
「そうですね。素晴らしいと思います」
と頷くだけである。彼は人の言葉を聞くと、己もそう考えていた、と思い込む人間である。極めて流されやすい彼は、趙武の言葉にも流された。
趙武といえば、ふわふわした荀偃とだらけた欒黶に肩すかしをくらい、話の落としどころを失っていく。ダラダラと長い言葉を垂れ流して要領も得ず、論理も破綻する無様さである。真面目なだけに滑稽であった。
「えっと。先人たちは、天然自然のことわりを見て倉をきちんと管理して、その。あ! 財も豊かにしてました。そういったものは一朝一夕じゃあできないと思うんです。農夫が毎日草を刈り土を見て水をやって田を耕すように、毎日の積み重ねがまつりごとには必要ですし、そういうのが信用とかそういうのに繋がりますし、それから……」
言いたいことたくさんはあるのだが、うまく言語化できない趙武は、一人で話し続けていることに気づいた。荀偃が首をかしげながら聞いている。欒黶はあくびをしていた。趙武は恥ずかしくなり、頬を染めたまま、以上です、とむりやり話を終わらせた。
いくつもの結論を積み上げた結果、ねじれにねじれた文言は、内容が行方不明となってしまった。聞き上手でもない荀偃は途中で話がわからなくなったが、鈍くさすぎて指摘できなかった。欒黶といえば、あいかわらず声はきれいだな、とだけ思っていた。それらを察し、趙武は消え入りたくなった。韓無忌がいかにフォローしていたか。士匄の明快な語りがいかに己の身になっていたか。自分の未熟さに落ち込んだ。
「が、がんばることはいいことです!」
荀偃が一生懸命、趙武を励ました。彼なりの気づかいであった。趙武は、ありがとうございます、となんとか笑んだ。不毛な自習時間である。
②に続きます