女あり春を懐う、吉士之を誘う。恋に憧れる少女は素敵だね、と男は手を伸ばす②
「――なんだ?」
項垂れる晋女、戸惑う趙武は、士匄の声に顔をあげた。士匄は、縄張りを侵された虎のように、警戒をあらわにしていた。
「何か、ございましたか」
趙武がこわごわと口を開いた。晋女の自傷のような告白と原因、異常なほど清浄な菊酒。女官の死、出ることのできぬ内宮。これだけでも盛りだくさんなのである。これ以上何が起きるというのか。
「……庭で、叫び声、いや喚いているものがいる。また、死体でも出たか。行くぞ、趙孟。そこの女も来い、お前に関係あらば、必要なこともある」
晋女が、私に何が、とぼんやり問う。
「咒はお前がばらまいたものだ。それに縛られているものの主はお前だ。それだけの話だ」
怖じる晋女の手をとりむりやり引っ張りあげると、士匄は乱暴に歩いて行く。趙武が慌てて追いかける。晋女は、やってきたときの高慢が嘘のように従順であった。矜持と虚勢が剥がれ、売られたばかりの少女が、されるがままに歩かされていた。
庭に出た士匄たちがまのあたりにしたのは、狂乱を見せる女が、多数の女官にもみくちゃにされながら体をねじられる惨劇だった。
「私、私たちにぃいいいいいっ」
断末魔の叫びを上げながら、ねじられていく女官は安堵しているようにも見えた。それは、苦しみが終わる顔ではなく、帰属の喜びにも見えた。
「な、いや、いやああああ」
晋女が、あまりの光景に悲鳴をあげ、逃げだした。庭に盛られた土につまずき転ぶ。そこには、雑に埋められた楚女の顔が半ば見えていた。
「ひ、ひいいいいいいいいいいいいっ」
叫び、晋女は腰を抜かして壊れた顔となった。惨たらしく殺されていく女官と、既に殺されている女官という状況に、自失してもしかたがない。その上、さらに女官がわいて出てくる。まるで土から生えるように、風から現れるように、同じ顔、同じ姿の、女官が現れた。
「君公にお仕えする、我が主。私たちはお役に立つよう、務めております」
幾人もの女官が、さやさやと風が葉を小さく鳴らすように晋女へ笑いかけては、死にゆく女官へ向かっていく。
「な、え、なに。いえこれ。この数!」
趙武がふらふらと庭に出て、見渡す。菊の香りがむせかえるほど強い。
「こんなに、こんなに、いるわけない!」
おぞましいものを見る顔をして、趙武が叫んだ。庭を埋め尽くすほどの女官は、みな嫋々として清々しさを感じさせる、美しい、同じ顔をしていた。背格好全て、同じである。士匄は、宴席で似た印象の女が多いと感じたことを思い出した。似た、ではなかった。同じ顔、だったのだ。
「ち、蟻の群れなんぞ、違いがわかるか!」
士匄は思わず吐き捨てた。そうして、盛り土、否、楚女の死体の近くでへたりこむ晋女へと走る。これは、どう見ても人ではない。しかし、不祥というには瘴気も何もない。強い、強すぎる菊の香りに、士匄はひとつの答えを出した。そうでなければ、その時にまた考え直せばよい。
「おい、女! お前は詩を書いたと言っていたな、土にか!」
「ひっ」
士匄の剣幕に、晋女が怯えた声を出す。男の怒鳴り声は、女にとって恐怖である――とかつて記した。異常な状況に怯えた晋女は、士匄の大声にもただ混乱し怯えた。苛立った士匄はさらに怒鳴った。晋女は幼女のように縮こまり、ごめんなさい、ごめんなさい、と小さく呟いた。
「くそ、女というものは、めんどくさい!」
舌打ちしたあと、士匄は身をかがみ、晋女の髪を優しくとった。晋女はわかりやすく体を震わせた。士匄は、柔らかい笑みを見せ、女の顔を覗きこんだ。
「お前はそういった顔が良い。弱きところを見せられば男は女に侍りたくなるというものだ。お前は詩を戯れに書いていたと言っていた。美しい文字であったろう。しかし簡無く帛も無し。土の上に書いたのか。風吹けば砂に埋もれ残せぬ詩を書いたのか」
いたわる目、甘く優しい声に、晋女がぼんやりと頷く。士匄はそろりとその頬に流れる涙を指で拭った。晋女が甘えるように目を一度だけつむる。士匄の手は女の肌を宝玉を撫でるように動き、こめかみから額をなぞった。
「想いのたけを消えると分かって紡ぐお前はいじらしい。その弱さを誇り高さで守るお前だ、悲しみの詩など記さなかった。きっと、気高い美しい文字を書いたのだろう。お前は、何を言祝ぎ、詠ったか。わたしはお前のそれを、知りたい。お前の心を、教えてくれ」
いつのまにか、士匄は晋女を抱き寄せ、その顎に指を這わせながら耳元で囁いていた。晋女は、士匄の何に怯えていたのであろう、とその身を任せた。男独特の匂いが、晋女の何もかもを溶かすようであった。狂乱の場で、この腕の中は安全なのだとも思った。
「地に捧げた、お前の心はなんだ、何を書いた」
恋を語らい愛を乞う声音そのものの声で、士匄は問い、晋女の眉の上に口づけた。
「とても、すがすがしくて、きれいで……。わたし、すきだったわ。とてもうつくしいから、菊ってかいたの。おまえたちは、菊よ、けだかくうつくしい、花、わたしのみかた」
子供のころ、菊茶を楽しんだ日々があった。清々しい香りを喜んだ日々があった。菊園は色とりどりで、苦しくもあった。菊の詩を書こうとした。古詩にあったかしら、と『菊』とだけ、まず書いた。そうしたら、衛から来た女が覗きこんで笑ったのだ。――それは、なんの模様? きれいな、模様ね。
士匄はそこまで聞くと、晋女を乱暴に離した。恋を語らう青年はきれいさっぱり消え、傲岸な男がいるばかりである。晋女は、よろけて土に手をついたあと、士匄を見上げ、みるみる頬を赤らめた。羞恥が襲い、我に返ったのである。
「この、人でなし!」
「あの程度でのぼせるようなオボコが悪いのだ。お前は確かに才があろうよ、地精を呼び出しやがって!」
地精……、と晋女が群がる女官を茫然と見た。
山神は神であり、祀れば恵みをくれる、異界のものである。意志があるが、人の言葉は通じない。
地精は、自然天然に宿るものどもであり、明確な意志などない。意志のない、異界のものである。人は一線を引いて触らない。もし触れば――意志無きまま返してくる。
「あの地精はお前を主とし、お前の言うとおり、役に立とうと研鑽しているようだ。ただ、役に立つという意味がわかっているかは、知らん」
士匄は歯ぎしりをすると、女官たちを、地精たちを睨み付けた。強すぎる菊の香りは、これらの臭いである。清めとした菊酒は人の度合いなど考えず作りやがった。そして、今、何やらしらんが、女官を殺そうとしている。衛女も、狄女も、そして今転がっている楚女も、あれらが殺したのであろう。――なんの、意志もなく。
何ぞ彼の穠たる唐棣の華。嫁ぐ姿は、あの美しく盛んに咲き誇る艶やかな花のよう①に続きます