将くは其の来たりて施施たれ、ねえお願いよ、わたしのもとへいらしてね。②
③に続きます
「巫覡さまは朝に出た不祥の女官を捨てるために、外に出られたままお戻りではございませぬ」
一人の女官がやってきて、深々と拝礼し、震える声で言った。その女官は趙武を迎えに来たうちの一人、浅黒い肌の女であった。寺人は士匄が苛ついていたことを察しており、この女官に押しつけたのである。
「あっあの。明日にはお戻りになると仰って出られたそうです。お待たせしている間、御酒でも召されませぬか」
若い大夫たちが何か思い通りにならず苛ついている、という雰囲気は察していたらしい。女官は、酒と少々の肴を用意していた。士匄はいらぬと追い払おうとしたが、
「わざわざお気をつかっていただき、感謝にたえません。君公のお世話をする方々の手をわずらわせ不徳の限りでございます、その心遣い受けましょう」
と趙武が言ってしまったために、接待を受けるはめになってしまった。女官が、少し安堵した顔をして、二人の前に膳を用意し、酒を注いだ。彼女は勝手に持ってきた酒席が不興を買わなかったということもさながら、自分なりの気遣いをを受け入れてもらったことに胸をなでおろしたのだ。
朝に衛女が死に、巫覡がそれを祓って不祥として外に出す。その判断は間違っていない。が、その次に狄女が惨殺され、士匄たちは出られなくなった。
「……趙孟。お前は巫覡に祓われていないのか」
士匄の問いに、趙武が頷く。杯が空になれば女官に注がれ、そのたびに飲んでいるが全く酔いの様子が無い。かなり強いらしい。
「はい。巫覡は現れず、水などで清められました。思ったより不浄が無く、驚いたものです」
死体という不祥をまともにひっかぶったわりには、趙武に穢れは少ない。ゆえに、巫覡が祓ったと士匄は思い込んでいた。が、巫覡はとっくに宮中を出ていたのだ。つまり、体を洗っただけらしかった。
ここが、君主のいる宮中の奥だからだろうか。
君主の住む場所、そして政堂は清浄である。ゆえに、趙武の不祥はすぐさま祓われたのか。実際、日に二つも死体が出たわりには、場の瘴気は少なかった。
「大変でしたでしょう、大夫さま。あの子が職分を越えて連れだしたばかりに。おそろしいことです」
女官が、趙武に訴えるように言った。黒々とした髪は少々癖が強かったが、豊かで見事に結いあげられている。袖から見える肌は健康的であった。腰のくびれがはっきりとし、形の良い尻や腿が衣の上からもわかるほどである。彼女は趙武が膳の上に置いた杯に酒をそそぐと、そっと持って手で渡す。僭越と言って良い仕草であったが、趙武が気負いなく――何も考えず受け取る。青年の手を女の指がなぞった。
「ねえ、大夫さま。あの子の体はどうなるのでしょう。やはり、捨てられるのでしょうか。埋葬されず祀られもせずに、捨てられてしまうのでしょうか。私はおそろしいのです。ここに売られ、君主さまに仕えて一生を終えようと覚悟しておりました。しかし、あんな終わりかたをするために売られたのかと思うと、本当におそろしい。大夫さまは君主さまをお支えになるのでしょう。私たち下々のことをお救いください」
少し厚ぼったい唇が蠱惑的に動き、大きな黒い眼が趙武を捕まえるように見て来る。この女官は、鋭そうな士匄より、物腰柔らかそうな趙武をターゲットとした。まあ、それは、消去法として間違っていないが、と士匄はつまらなさそうにそのやりとりを見ていた。
女官が哀れなほど、趙武はそういったことに疎かった。
「私は君公に仕える身、そして国と民を支える柱になるよう、研鑽しております。あなたは君公の財産ですが、それは国の財でもあります。あなたがたが憂いなく職を全うできるよう、私も務めましょう」
趙武が、指を手を愛撫のようになぞられながら、誠実な笑みを見せた。女官の顔がこわばる。そうして、士匄に視線を向けた。あちらが良かったのでは、という目である。が、士匄はそれを弾くように、し、し、と手を振った。犬を追い払うような仕草であった。
「大夫、さま。酷い目にあって心も重いでしょう、私、私が気張らしに侍りましょう。私、とてもお役に立てるのです。どこに行っても、お役に立ちますから!」
趙武の指をなぞっていた女官の手が、今度は腕を掴んだ。趙武はあっけにとられて杯を落とす。床に酒が飛び散った。女官は、文字通り趙武に縋っていた。
「え、どうしたのです、落ち着いて、落ち着い――」
まるで襲いかからんばかりの女官を、趙武は必死に制止し、落ち着かせようと声をかける。日に二人も同僚が惨死しているのである。怯えるのはわかる。しかし、これは異常だ、と趙武もさすがに思った。どんどん、体重がかかってきて、肌や熱さが近くなる。しかし、その肩は細い。オンナノコを突き飛ばすわけにはいかないと、趙武は本能的に思い、ただ身をよじらせた。仕方無く、士匄は立ち上がった。
「侍る意味もわからんやつだ、諦めろ」
女の首飾りを手で掴み、そのまま引き倒す。ぽかんとしている趙武の前で、嫌がる女を押さえつけると、首飾りを引きちぎった。思いきり女の胸をわしづかみにしているが、士匄は尻派なので、胸の柔らかさ含めてどうでもいい。奪った首飾りをかざすように掲げ見る。
「洛午庚辰、か。お前、狄の女と同じ日に来たのか」
押さえつけられていた女官は、恐怖を通り越し、茫然とした顔で見上げて頷く。
「はい、あの子と同じ、庚辰の、ものです。えっ、あの子は狄だったの、やだこわい」
震えながら差別発言をする女官を嘲笑う。
「洛午。周都より南。わざわざ南とされるは河をはるかに越えた南蛮を強調したかったのだろうな、楚人か。お前も我らからすれば狄と変わらん」
首飾りをひらひらと回したあと、士匄は立ち上がり女を解放した。女官、楚女はあほうのような顔で寝転がったままである。まるで陵辱を受けたあとのようでもあった。助けられたはずの趙武といえば、士匄の狼藉に混乱しながら、女官に憐れみを感じていた。女子をあのように扱うものではない、という少年の本能であった。
「おい、女。お前は無聊をかこつ我らに酒席を用意した。まあ、そこまでは気の利いた女官と褒めてやろう。しかし、勝手に侍り、そして憐れみと慰めを乞い願った。僭越どころではない。本来であれば斬って晒すところだが、お前は君公の財だ、我らには手が出せん」
嬲るような士匄の声に、楚女がみるみる顔を赤らめ、一瞬顔を手で覆った。ゆらりと起き上がると、歪んだ髪型そのままに、彼女は駆け出し去っていった。