静女其れ姝たり我を城隅に俟つと、静かで優しげな美しい君を秘密の場所で僕は待つ③
君命というが、二日酔いサボりの言い訳、正当化の建前である。このようなしょうもない命令も事件も、一日たてば無かったことにされるであろう。士匄はもちろん、州蒲にとっても女官の命などその程度のものであった。趙武であれば憐れみを覚えたであろうが、士匄はそのあたり乾いている。己のもの――例えば邑であったり荀偃である――以外に無頓着なのである。強欲というものは、それ以外に対して冷たいということでもあった。
「ああそうだ。今日は学びの場へ行けぬと、伝えろ。わたしは本来、次代の卿として研鑽せねばならぬ身。それが本日は為せぬ。わたしの不甲斐なさ、不徳のなせるところかもしれぬが、理由ははっきりさせたほうがよい。凶事に遭遇し行くことあたわず、と伝えろ。凶事とは何かと問われれば、きちんとお答えしろ。みな卿になろうという方々、深いお考えがあるであろう。返すのは凶事の内容だけで良い」
士匄の言葉に寺人は困惑を隠さなかった。意味がわからなかったわけではない。宮中に死人が出たことは答えろ、士匄が原因究明を命じられたことは言うな。若い大夫たちの中には士匄への心配や凶事への好奇心で、連れて行けと言い出すものが出てくるに違いない。つまり、事態は大きくなる。士匄は、さわぎをほどほどに大きくして、大人たちが出てくる前に『無かった』ことにしようとしているのである。つまり、州蒲が面倒になって投げ出すようにしたいのだった。
寺人は、宮中に仕えているとはいえ、ただの家僕である。抗うことなく、下がっていった。ただ、自分の責が重くなると考え、ことづけは女官にさせた。新たに入った若い女官たちである。お育ちの良い青年たちが絆され、凶事を放置してくれるかもしれない、とかすかに願っていた。
寺人の願いは極めて甘く脆く、そして士匄のもくろみは当たった。室にいるのは、韓無忌という生真面目な男と、趙武というやはり生真面目な青年であった。欒黶は下戸のくせに二日酔いでさぼっており、荀偃はまだ来ていない。妥協しない真面目な人間二人が、女官たちの若さに幻惑されるはずがなかった。
「……凶事。それは女官の死ではないか」
凶事の内容を聞く前に韓無忌が言った。彼は前述通り、菊茶を飲むついでに女官の死を聞いている。報告に来た女官は三名、みなおののいた。士匄もそうだが、大貴族というものは全てを見通しているのか、とその慧眼に畏怖の念を抱いた。完全な誤解であり早合点であるのだが、為政者の支配というものは、おうおうにしてこのように積み上がっているのだろう。
女官のうち、少々色素の薄いものが、
「さようでございます。惨たらしく殺されたよし。凶事不祥で、君公はお休みされ、士氏の嗣子も、その、お休み願っております」
と、平伏して必死に返した。
「君公が穢れを気にしてお休みになるのは、まあ分からぬでもないが……。范叔が穢れたのであれば、すみやかに退出するのが最善ではないか。おおよそ、君公の寵臣でもないものが、身の回りのことに立ち入るものではない。卿は寵臣、近臣ではない。君公自身の凶事に行き合ったは范叔の日頃の行い、不徳であろう。しかし、臣として退出し、自邸にて浄めた後に君公へ改めての見舞いをするのが道理。それを宮中から出ぬとは理に合わぬ」
韓無忌の言葉に、女官たちは首をかしげたり、困惑の目で互いを見る。彼女たちは、韓無忌の言う理がわからぬのだ。そして、韓無忌も趙武も、彼女たちがわかっていない、ということに気づいていない。教養や常識の格差というものは、中にいると気づけないものである。
女官たちと青年貴族たちの断絶はともかく、韓無忌はひそかに士匄を心配した。士匄の危なっかしさのためであるが、韓無忌が長男気質というのもある。人の面倒を見る本能というものであった。
「范叔が、宮中から出ない。そして、惨たらしく殺された女官です。あの方は不祥にあってお困りになることもあります。そうなると、あとで周囲も迷惑いたします。私が様子を見てきてもよろしいでしょうか?」
趙武が韓無忌に向かって言う。士匄を心配しているというより、韓無忌の心を慮ったのである。趙武は、韓無忌が剛直に見えて優しいことを知っている。表情が薄いが、情が深く人に添うことをよく知っている。趙氏と韓氏はまるで親戚のように近い。
「汝は范叔に教導される身。直接問うが良い。……頼む」
韓無忌の低く柔らかい声に、趙武は頷き拝礼し、女官たちと共に部屋を出て行った。韓無忌は一人残され、待った。
欒黶は来ない。サボりだからである。それは、すでに伝えられていた。
荀偃も来なかった。運悪く、惨殺死体を運ぶ女官たちに行き合い、逃げ帰った。穢れがうつったと書を寄越し、しばらく出仕を控えるという言葉で締められていた。――あんなむごい殺されかたする女官は不吉不祥、よほど行いよくなかったのでしょう、恐ろしい――。そのような余計なことまで書いていた。読み上げられる書を聞きながら、そのようなところがよろしくない、と韓無忌は思った。
そして、趙武も戻ってこなかった。韓無忌は瞑想するように目をつむり、時間いっぱい昼まで一人で座し続けていた。
荀偃くん、運悪く惨殺死体を見て運良く一抜けしました。