静女其れ姝たり我を城隅に俟つと、静かで優しげな美しい君を秘密の場所で僕は待つ②
庭で韓無忌が、自己欺瞞に満ちた密会を行っていたころである。士匄は宮中の一室で女の死体と過ごしていた。血と臓物の臭いが気持ち悪いが、それ以上にのしかかる雑霊や穢れがしんどい。士匄はだらしなく座りながら部屋を見回し、女の死体に視線を移す。
腹の中から赤黒い臓物が引きずり出され、鉛のようなてかりを出しながらだらりと垂れていた。むしり取ったらしい肉片が周囲にまき散らされ、屠殺場を思わせる。女の顔は、醜く歪んでおり、きっと激痛の中で死んでいったのであろう。
士匄はその顔を一瞥したあと、裂かれた腹をさらに見る。検分というより暇なのである。己でさっさと立ち上がり、人を呼べば良いところを、この男は意地でも動きたくないのだ。この場をなんとかしてくださいと他者にこそこそ頼むのは性に合わない。
覗きこんだ腹の中は、かき混ぜられたようにぐちゃぐちゃであった。ぶちぶちとちぎれた腸が見える。近づくと悪臭が酷い。血や臓物だけではなく、腸からあふれた汚物が混じっているようであった。
「……本当にわたしが仕込んだとでも思ったのか、いまいましい」
士匄は、ち、と舌打ちして呟く。まるで中を探したように壊されている。特に、下腹付近が酷かった。そこにあったであろうものは、潰されたか、それともこの部屋のどこかに転がっているのか。
どう考えても、まともな殺しかたではない。現代人が見れば困惑するであろう。が、士匄は紀元前六世紀の、山神も四凶も祟りも存在している世界に生きている人間である。何かの呪いだろう、とあたりをつけた。それが己に関係しているのかどうかはわからない。
「ひっ……ぎゃあああああああっ」
ようやくやってきた寺人が、惨状に叫んだ。そのままうやうやしく掃除をし、士匄に平伏して遅くなりましたと詫びれば良いものを、
「誰か、誰かあああああっ」
とわめきながら走り去っていく。士匄は、宮中に仕えるやつがなんとみっともない、と憤慨した。士匄の神経のほうがおかしかった。寺人は、極めて常人である。
寺人は己の職分を全て放り投げたわけではなかったらしい。他の女官や寺人、そして巫覡を伴って帰ってきた。
「な、なんということを。おそれおおいながら君公の女官をこのような……。恐れ入りたてまつります、いくら君公の覚え良い六卿の嗣子とはいえ、ご無体な」
拝礼する寺人の言葉に、士匄はますます憤慨した。まるで士匄が犯人だと言わんばかりである。まあ、女の死体のそばに返り血を浴びた男がおれば、そう考えるのが自然であろう。しかも、傲岸かつ横暴で有名な士氏の嗣子であった。
「わたしが殺すわけなかろう! その卑しい舌を切り取ってやろうか」
ドスの効いた士匄の低いうなり声に、寺人が平身低頭謝った。この青年が犯人にせよ違うにせよ、切り取ると断じれば絶対に切り取るのだ。他の寺人や女官たちは、状況に怯え、動けない。
「……酷い穢れの部屋です。大夫さまも穢れておられる。私が祓いますゆえ、そのあとに部屋を浄めてください」
巫覡が息を深くついたあとに言った。宮中での凶事を止めることのできなかった己の不才に忸怩たるものがある。そして、またこの嗣子か、という思いもある。士匄という青年が宮中に参内しはじめてから、何度祓ったであろうか。霊に憑かれやすい、不祥に弱いというわけではない。感覚が強すぎて己で引き寄せてしまう人間なのだ。
――嗣子ではなく、家に押し込めて巫にでもしてしまえ。
常に思わざるを得ない。宮中に仕える巫覡としては、この迷惑な嗣子がまた何かやらかしたのだと思った。むろん、そのような顔を表に出さず、彼は部屋の穢れ、士匄の不祥を祓った。
巫覡が祓ったことで、みな少し安堵したらしく、おずおずと部屋の掃除にとりかかった。
「この子をどうしたらいいですか?」
色素が若干薄い女官が寺人や巫覡を見て問うた。士匄は体がすっきりしたのもあり、すっくと立ち上がるとそのまま出ていく。寺人の一人が慌てて先導した。別の室に案内するとのことだった。
「祟らぬよう、しっかり祓ったあと、死体は絳の外へ放るしかない。凶事は追放するしかあるまい」
波紋ひとつない水面のような巫覡の声を聞きながら、士匄は室を後にした。洛甲乙亥の死を悲しんでいるらしい女官の首飾りが、窓からの陽光でキラキラと光っていた。
別室に移り、衣服を改めたあと――寺人のものか君公のものかはわからぬ――、士匄は足止めを食らった。
「恐れ入ります。君公からの命でございます」
寺人の代表と思われるものが、強い口調で押し留めてくる。なんでも、二日酔いで蒼白の州蒲曰く。
「この! 余が住まうところで凶事など、本来なら無い! 匄がおるということは、やつのせいだ。匄は春に山神に祟られておった。似たようなものだ、解決するまで返すな、というか匄が解決しろ! 余は不浄が起きたから今日は寝る! 凶事のせいで頭が痛い! 吐きそうだ!」
二日酔いのサボりの口実に使われ、士匄は歯ぎしりをする。泥酔する前に退かぬから、翌日にみっともないことになるのだ、と不敬にも吐き捨てた。
「おおかた、女官同士の争い諍い妬み嫉みの呪いであろう。何故わたしが卑賤のものどもを裁かねばならんのだ!」
士匄はどなりちらしたあと、どっかと座り、
「バカバカしいが君命だ、一日くらいはつきあわねばならぬ。朝餉を持って来い。わたしは空腹だ、まず食わねば頭も働かぬというもの」
と、あごをしゃくって寺人に命じた。
③に続く