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我が心鑒に匪ず、以て茹るべきからず。あたしの心は鏡じゃないから、あなたの気持ちがわかるわけじゃないのよ①

 見つめられた女官(にょかん)といえば、少し頬を染めた。期待に心が弾んだのか口元が少し緩む。むろん、士匄(しかい)の知ったことではない。視線を外し、州蒲(しゅうほ)に声をかけた。

「君公(くんこう)。この女官、愉快な芸を持っている。なかなかに頭良く、君公とわたしを『彼(か)の姝(しゅ)たるの子(し) 何を以て之(これ)に畀(あた)えん』と言祝(ことほ)いだ。良き言葉を多く知っているようです、場の華やぎになるでしょう……さ、我が君のおそばへ行ってこい、良い美声であった」

 するすると流れるように言うと、士匄は女官を追っ払った。彼女は名残惜しさを隠さず、州蒲に侍り、命ぜられるままに古詩(こし)を紡ぎはじめた。

 違う女官が入れ替わりに侍る。今度は少々幼さが見え、所作も雑であった。しかも、いちいち口で小さく呟きながら酒を注いだり介添えをしている。失敗を怖れているのであろう。緊張のさまがパニック寸前の荀偃(じゅんえん)のようで、士匄はなごんだ。

 ふと、女の首飾りに文字が刻まれていることに気づく。――洛甲(らくこう) 乙亥(いつがい)。

「おい。これはなんだ?」

 士匄は女官に覆い被さるように近づき、首飾りを指で軽く引っ張った。女官が、ひぎゃあ、と小さな悲鳴をあげた。そこから口をぱくぱくさせて固まる。きっと、きちんとした文言が思い浮かばないのだろう。

「話し方など気にするな、我ら大夫(たいふ)は民の言葉、下々(しもじも)の言葉に礼無き儀無しを知っている。適当でいい、適当」

 男ぶりの良い顔が、至近距離で話しかけてくるのである。若い女官は頬を赤らめながら、何度も頷いた。

「あ、えっと。お守りです。この模様、あたし用って。あの、さっきの子が作ってくれたんです、あ! ……でございます」

 思い出したように敬語を付け足す女官の話を聞きながら、士匄は数回こめかみを指で叩き、口を開く。

「お前は衛(えい)人か。」

 女官がぽかんとした顔で頷いた。

 洛甲――。『洛(らく)』は周都(しゅうと)の名であり、後の洛陽(らくよう)である。周都の若干東北東と言える方角、すなわち甲(こう)。黄河を挟んだ河北(かほく)と河南(かなん)を含む小国群があるわけだが、その辺りであるていど質の良い人間を生む文化的な国家、となれば衛であった。この女官に貴族的な教養は無いが、己の分をわきまえるくらいには、質が良い。あとは勘である。

 この貴人は一目見て相手の故郷がわかるのか、と女官が驚くのをよそに、士匄はさらに口を開いた。

「……お前がこの晋(しん)に来たのは先月の初め……乙亥か」

「はい。あたしたちは乙亥のものと言われてます」

 共に買われ連れて来られた女たちを示しながら女官は答え、凄い、大夫(たいふ)さまは何でもわかるんですね、と無邪気に笑む。

 乙亥――。六十干支(ろくじっかんし)という暦による日付である。甲乙丙丁(こうおつへいちょう)からはじまる十干(じっかん)と、子丑寅(ねうしとら)ではじまる十二支の組み合わせであるが、まあ、この稿でさほど重要ではない。

 洛甲 乙亥

 その文字が刻まれた首飾りを指で軽く弾いた後、士匄は女官――衛女(えいにょ)の顔を覗きこんだ。

「大夫がなんでもわかるわけじゃあ、ない。わたしがなんでもわかるだけだ。お前は人の善意を素直に受ける、みな親切にしてくれたろう。そのようなものは良きはしためになるであろう、励め」

 衛(・)か(・)ら(・)売(・)ら(・)れ(・)乙(・)亥(・)に(・)入(・)荷(・)さ(・)れ(・)た(・)物(・)。そんな名札を護符だと喜ぶくらいには、素直であり無知である。しかし、下々が互いの悪意に気づいて殺伐とするよりは、気づかずおめでたい方が、為政者としては気楽である。

 このおめでたい衛女は、ありがとうございますと素直に受けながら、あたしよりあの子のほうが良い女官です、などと言う。

「さっきの子のほうが頭が良いし、何でも知っているんですよ。きびきび動いてかっこいいの。色んな子にお守りを作ってくれたの、こんな模様の。あの子をもう一度呼びましょうか」

 模様ではなく文字である。まあ、この衛女は文字が読めぬのであるから、仕方があるまい。

「いや。あれは君公を楽しませている。お前はあの女を見習いながら今日はわたしの介添えをしていれば良い」

 士匄は衛女から離れて膾(なます)に醤(ひしお)をつけて食った。とりあえず刺身を醤油で舌鼓と思えば良い。衛女はそのまま近づかず、士匄の視線やしぐさで察して、酒を注いだり肉をほぐしたりした。やはり、分をわきまえている。君公もなかなかに良い買い物をしたと思いながら、士匄は部屋をゆっくりと見渡した。州蒲が、先ほどの女官に絡みに絡んで、謎解きをさせては楽しんでいる。まさに迷惑な酔っ払いそのものである。

 州蒲に侍るはめになった小賢しい女官は、士匄や欒黶(らんえん)を気にしているようであった。士匄は気づいたが無視をする。古詩を吟じ、士匄と州蒲を言祝ぐふりをして、己を売り込む女である。己こそが賢人であり、士匄を君主になぞらえたわけだ。つまり、彼女は奴隷の身分から解放されたいのだ。士匄か欒黶に買い取られ、そこから自由民になりたいのであろう。宮中で女官よりも、大貴族の女中のほうが他者との接触が多くなる。たとえば、主人が傘下の士分階級へ嫁がせれば、自由民になる。

「……似た顔のものがおるな」

 小賢しい女官も衛女にも興味が冷め、士匄は他の女官を幾人か見る。化粧が似ているのか、同じ印象の女官が幾人かおり、細々と動いたり、出入りしていた。

「お里によってお化粧は似ますからね。あの、お注ぎいたします」

 空になった杯に、衛女が酒を注ぐ。士匄の耳に、州蒲と欒黶のはしゃぐ声が聞こえた。外はそろそろ月が昇ったか。きっと雲が薄くたなびく中、白い月がさっと薄い光を照らしているであろう。月明かりに紅葉は映え、秋の花々はさらに可憐さを魅せるに違いない。士匄はそういったものを愛でる己に陶酔するのが好きである。

 が、州蒲や欒黶はもっと直裁的な娯楽を好む。例えば、この宴席もそうであった。州蒲が見せびらかしたい女官たちは、まあ悪くないが、その程度である。士匄は酒を飲み干した。杯を一応見せるが、州蒲はもはや気づかないようであった。

「我が君は、まあ……引き際を知らぬ」

 典雅にほど遠い宴席に士匄はすっかり飽きている。つまらなさにうんざりした。そんな若者の倦厭(けんえん)に気づかず、衛女がすっと酒を注ぐ。所作は泥臭いが、タイミングは悪くない。

 生薬より菊の香りが強く漂うものだった。どうも、違う酒になったらしい。それも飲み干す。――飲み干して、しまった。

 瞬間、士匄は杯を落とした。

②に続く

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